“悠仁さまの家庭教師”半藤一利89歳が振り返る「太平洋戦争開戦の興奮」

“悠仁さまの家庭教師”半藤一利89歳が振り返る「太平洋戦争開戦の興奮」

©志水隆/文藝春秋

「歴史探偵」として、日本近現代史を見つめ続けてきた作家・半藤一利氏は、昨年、当時の天皇陛下の侍従から依頼を受け、悠仁さまに講義を行った。テーマは「太平洋戦争はなぜ起こったのか?」。半藤氏が2時間半にわたり悠仁さまの“家庭教師”を担ったその日は、奇しくも8月15日だったという。

 そして今年も8月15日を迎えた。戦後74年というタイミングで、私たちは半藤氏に「自身の戦争体験」について語ってもらうことにした。のちに太平洋戦争研究の第一人者となる半藤氏も、開戦時は11歳の小学5年生。東京の下町に住む“半藤少年”の目に、あの戦争はどう映っていたのか――。

取材・構成=稲泉連

(全3回の1回目/ #2 、 #3 へ続く)

◆◆◆

 私はこれまで長いあいだ、日本の戦争の歴史についての本をたくさん書いてきました。そのなかで骨身に染みていることがあります。それは、歴史を語るというのは本当に難しいことなんだな、という思いです。

 例えば、日本が太平洋戦争に至る道を語るとき、「この歴史がいちばん正しいんだ」と自分が言い切ってよいのだろうか――? あらためてそう胸に問うと、いや、とても言い切ることはできない、という気持ちになるのです。

■自分の体験であれば迷いなく喋ることができる

 昔であれば、そんなときは当事者を探し、実際のところがどうだったのかを、取材して確かめようとすることもできました。しかし、戦争の体験者のほとんどが亡くなった今では、それもかないません。すると、歴史とは残された史料などを頼りに、一人ひとりが解釈するしかない。書き残されたものはどうにでも解釈できてしまいますから、たとえ嘘八百を書いても通用してしまいかねないわけです。

 ただ、一方で自分が実際にした体験であれば、私も迷いなく喋ることができます。それは自分の体験ですから、まさにその通りだった、と私自身が信じられるからです。今日、これから話すことも、そんな私の気持ちを前提に聞いていただければと思うのです。

■ラジオから聞こえてきた開戦のニュース

 さて、私が日本とアメリカの戦争が始まると知ったのは、昭和16(1941)年の12月8日の朝のことでした。

 昭和5年に東京向島区吾嬬町(現墨田区八広)で生まれた私は当時、小学5年生。朝、目覚めて、ラジオで7時のニュースを聞こうとしたら、ポーンという時報と同時にアナウンサーが、

「しばらくお待ちください」

 と、言いました。

 あれ? ニュースで「お待ちください」なんて初めてだなァ、と思っていると、

「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

 アナウンサーのいかにも興奮した口調は今でも忘れません。子供心にも緊張が伝わってきて、父親に「日本は勝てるの?」と聞いたのを覚えています。すると、父は黙ったまま何も答えず、厳しい表情を浮かべていました。

■「この戦争は負けるぞ。おまえの人生はもう長くはないな」

 その日、奇妙な高揚感を覚えながら学校に行くと、道すがら会う周囲の大人たちはこの開戦のニュースに大喜びしていました。

 また、学校では校長先生が全校生徒を集めて、「これから大変な戦争をやって、アジアの植民地になっている人たちを全部救うんだ」「だから君たちもしっかりと勉強するように」という話をしました。教師たちも「日本は絶対に勝つ」と誰もが勇ましく言っていたため、私はとても安心して帰宅したものです。

 だから、家に戻った途端、朝は黙っていた父親からこう言われたときは驚きましたね。

「馬鹿なことをしやがって。日本中で喜んでいるらしいが、この戦争は負けるぞ。おまえの人生はもう長くはないな」

■かつて海軍にいた父は日本の“実力”を知っていた

 当時、親父はこの下町で運送業を営んでいましたが、昔は海軍にいたという経験がありました。そのため、日本の軍隊が無敵でもなんでもないことを、実感として知っていたのでしょう。何しろ自分の乗っていた軍艦は外国で造られたもので、以前は日本人が造った船は一隻もなかった。もちろん飛行機も外国から買ってきたものだったわけですから。

 日本には工業力もなければ資源もない。それでも明治期に、自分たちは欧米列強と肩を並べる強国であり一等国なのだから、いわゆる「大国主義」でこれからは行くんだ、と決めたわけです。

 しかし、親父の方は世界の国と仲良くしながら、交易を盛んにして、国そのものを豊かにしなければならない、という考えだったのでしょう。そうしなければこの国はいずれ立ち行かなくなる、と分かっていた人だったのだと思います。ただ、小学5年生だった私はそんな父親の言葉に触れて、「やっぱりうちのオヤジは変だな」「ひょっとしたら非国民なのかな」と思うばかりでした。

 そもそも、あのときの日本人がみな開戦のニュースを喜び、道行く大人たちをウキウキとした表情にさせたのには理由がありました。その理由を理解するためには、同時期の日本の置かれた状況を、世界史の中に置いて考えてみる視点が必要です。

■不戦条約の締結からわずか3年で起きた満州事変

 開戦から遡ること12年前の昭和4年、アメリカでウォール街の株価の大暴落が起こり、世界的な恐慌が始まりました。それまで、アメリカと世界は第一次世界大戦の反省から、二度と戦争を起こさないよう、国際連盟を作るなど平和な世界構築への動きを活発化していました。その先頭に立っていたのがアメリカのウィルソン大統領で、彼が病気で倒れた後ではありましたが、昭和3年には日本を含む15カ国で不戦条約を結んだばかりでした。

 ところが、大統領がフーバーに代わったタイミングでウォール街の大暴落が起こったのです。フーバーは「アメリカ・ファースト」の政策をとり、これにならってヨーロッパの各国も一気に保護主義への政策転換を行った。その結果、国際連盟は一気に力を失っていきました。

 そうした自国本位によって、欧米列強のアジアへの関心が薄れたタイミングで、日本は昭和6年に関東軍が満州事変を起こし、翌年にはあっという間に満州国を作ってしまいます。ドイツでヒトラーが政権をとったのは昭和8年ですから、要するにアメリカを初めとした各国が自国ファーストで内に引っ込んでいるうちに、世界の情勢が一気に変化し始めたわけです。

■「栄光ある孤立」を選び国際連盟を脱退した日本

 こうした動きに対して、国際連盟は日本の侵略でないかを調べるため、満州国にリットン調査団を出すことを決めます。しかし、その動きは非常に鈍いものでした。関東軍の石原莞爾を初めとして非常に頭のいい人たちは、その意味ではとても目先が利いていた。世界の情勢が内向きになりつつある状況を見て、瞬く間に一つの国を作ってしまったわけですから。

 ただ、この満州国は国際社会の中ではあくまでも日本の傀儡国家。元通り中国に返すべきだというのが国際世論でした。日本はそんな世論に従ってたまるか、独自の道を行く、とばかりに国際連盟から昭和8年に脱退します。

 要するにここから日本は孤立の道を歩き始めるわけですが、これについて当時の新聞は「栄光ある孤立」などと書き立てていました。我々は日本の進むべき道をこれで自由に歩める――と。

■満州国を作ってから国民の生活はどんどん豊かになった

 こうした論調に日本国民が同調したのは、その頃の日本の経済の好調さも背景にあったはずです。簡単に歴史を書く人はよく、「昭和の初めというのは貧しくて、息苦しくて、ろくな時代じゃなかった」と言いますが、これは嘘でしてね。

 もちろん激しい格差があったとはいえ、満州国を建国した昭和7年以降、日本経済は右肩上がりでした。国民の生活はどんどん豊かになったのです。だから、国際社会から侵略国家だと言われて圧力を受けているけれど、それに抗して国際連盟から脱退した政策は正しかった、満州国を作ったのは成功だった、というのが当時の世論でした。

■重苦しい雰囲気を一気に吹き飛ばした開戦のニュース

 そうした段階を経て、工業化を進めていた日本は世界を相手に戦争を辞さない国になっていった。国民の意識もどんどん強くなっていった。そうしなければ、生きていけなかったんだという意見もあるでしょう。そして、日米開戦の2年くらい前になると、アメリカとイギリスが中国を支援し始め、その中国と戦っている日本は生活物資が日一日と減っていくという状況になります。その頃、新聞ではものすごい勢いで米英の悪口を書いていましたし、日本人全体の生活が重苦しい雰囲気になってきていたわけです。

 そんななか、昭和16年12月に私が聞いた開戦ニュースは、多くの日本人にとって、重苦しくなってきた空気をダーンといっぺんに吹き飛ばす衝撃がありました。私が学校や通学の途中で見た大人たちの明るい表情とは、そのようなものであったのです。

 しかし、戦争が始まってしばらくすると、そのような空気は一変することになるのです。

撮影=志水隆/文藝春秋

「背中に火がついてるぞ!」東京大空襲の夜、14歳の半藤一利は火の海を逃げまどった へ続く

(半藤 一利)

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