「汚職のメッカ」東京市会で巻き起こった疑獄事件で明暗が分かれた政治家たち

「汚職のメッカ」東京市会で巻き起こった疑獄事件で明暗が分かれた政治家たち

星亨 ©文藝春秋

■解説:汚職が“箔付け”になった新聞人と、転落のきっかけになった政治家

 いまも首都東京にある官公庁でさまざまな形の汚職が起きる。しかし、大正の終わりから昭和の初めにかけての東京市会(現在の東京都議会)ほど、疑獄の巣窟、「汚職のメッカ」と呼ぶにふさわしい存在はなかったのではないか。「明治時代に東京市が誕生して以来、明治・大正という二つの時代はもちろん、昭和に入ってからも東京市をめぐる汚職事件は絶え間なく続き、毎日のように新聞紙面をにぎわしたといっても過言ではないほどであった」と「東京百年史 第5巻」も認める。

 原因について触れたものはほとんどないが、1920年代前半に東京市長を務め、本編にも登場する後藤新平を研究した論文・小原隆治「後藤新平の自治思想」は、「東京市会では自由党の領袖・星亨が議員に当選したころ(1899年)から、自由党――政友会系会派が勢力を拡張して公然と利益誘導型政治を展開し、またそれと軌を一にして頻々と汚職事件が起きた」としている。星亨は弁護士、官僚出身の精力的な政治家で東京市会議長も務めたが、名前をもじって「押し通る」と異称されるなど、強引な政治手法で知られた。田中角栄元首相と並べて語る人もいる。彼が力を持った時代に汚職の温床ができあがったことは否定できないようだ。

■「水道管は外国へ発注」と主張した渋沢栄一が襲撃される事件

 問題は星が登場する前からあった。京都から遷都して20年余りたっても、首都東京は依然としてインフラが整っていなかった。その一方で全国から人が集まるようになり、都市化と人口集中が進み始めた。1890年、コレラが大流行して全国で約3万5000人が死亡。東京では伝染病予防を最優先に、上水道の敷設が予算化された。問題になったのが水道管(鉛管)の発注先。国産が望ましいとされたが、当時の日本にはまだ技術も経験もなかった。東京市参事会のメンバーだった「日本資本主義の父」渋沢栄一は、「外国に発注すべきだ」と主張したが、馬車で外出中、刀を持った男に襲撃された。渋沢にけがはなかったが、男は水道管国産を主張するグループの一員とうわさされた。

 風向きが変わって1893年、東京市会は「日本鋳鉄合資会社」を発注先に決める。しかし、その会社は設立されたばかり。工場もできていないうえに、「うわさの男」が絡んでいた。相場師の「雨敬」こと雨宮敬次郎。彼が経営の実権を握っているのは周知の事実。その後、同社は次々市や東京府に注文をつけた揚げ句、契約解除を申し入れる。警視庁は雨敬や市議らを逮捕したが、結局、彼らが罪に問われることはなく、会社側の数人が軽い刑に処されただけだった。

■汚職の「温床」を作り出した不安定すぎる市政システム

 星は1901年、「剣客」の生き残り伊庭想太郎に刺殺されたが、その後も汚職は続いた。1920年、この年竣工した明治神宮の参道工事不正事件(砂利食い事件)に端を発し、東京瓦斯会社の値上げをめぐる贈収賄、多摩鉄道会社の買収工作と続いた。20年の暮れには、市民の市政改革の期待を背負って後藤新平が市長に就任したが、市会勢力と対立。2年半足らずで中央政界に戻った。「温床」は残されたことになる。

 現代の感覚で考えると、市政のシステムが複雑すぎる。特別市制度も関係して、市会が市長を選べる時期と選べない時期があるなど、制度が不安定。そもそも、国会議員と市議が兼任できる制度に問題があったのだろう。市長も衆院議員だったことがある。いまで言えば、小池百合子・東京都知事が衆院議員でもあるようなこと。それでは、国政での政党対立が市政にも持ち込まれ、競争型、利益誘導型の政治になりやすい。さらに参事会という制度。市議から選ばれるのが普通だが、市長、助役と並んで行政の主体だった時期もあった。昭和初期には補助的な議決機関(諮問機関的な存在)になっていたが、市政への影響力は残っていたのではないか。いずれにしろ、何か利権があれば、それをめぐって市会側の権限が強く、行政に圧力がかかりやすい体質だったといえる。

■「板舟権事件」「京成電鉄事件」次々に発覚する汚職

 そして1928年、本編にもあるように、一連の汚職事件のハイライトともいえる魚市場移転補償費に絡む贈収賄(板舟権事件)と、京成電鉄乗り入れ認可をめぐる贈収賄事件(京成電鉄事件)が表面化する。

 板舟権とは、店頭で魚を並べて売った木の台を板舟といったとされ、魚を売る権利を表した。魚市場が日本橋から築地に移転するに当たって、不要になった板舟権をどう補償するかという問題だった。

 京成電鉄事件は、東京都心への乗り入れで東武に後れをとった京成が、市電の利益保護を優先する市会に5回も申請を否決されたことから、衆院議員でもあった本多貞次郎社長らが知人の政治家を使って市議に金を渡し、乗り入れ許可に賛成するよう工作した事件。「板舟権疑獄ますます拡大」「京成電車問題にも不正は次々に暴露」(8月16日朝日夕刊)、「第二次検挙開始され突如京電本社を襲ふ」(9月7日朝日夕刊)……。ニュースが毎日、紙面をにぎわした。

■「4大疑獄事件」で遂に言い渡された「東京市会解散」の異常事態

 2つの事件は密接につながっていたうえ、ほかに青物市場幹部の使用料引き上げをめぐる疑惑と、市バスの車種変更に伴う追加予算絡みの疑惑(円太郎事件)もあり、「4大疑獄事件」として追及が進んだ。「特に、板舟権補償と京成電車の市内乗り入れに関する市会の汚職事件は、(関東大震災の)復興計画と関連する事件であり、大半の職員がこれに連座し、市会そのものが内務省によって強制的に解散させられるという、市政に対して大きな影響を与えた事件であった」(「東京百年史 第5巻」)。

 新聞報道によれば、予審で有罪とされて起訴されたのは贈収賄と贈賄幇助などの罪で計49人。この間、身柄を勾留された市議が88人中25人に上り、当時の規定から望月圭介内務大臣は同年8月21日、東京市会に解散を命じた。 

■「市長になったら読売の社長を俺に譲れ」

 この事件には大物が2人登場する。どちらも贈賄幇助罪に問われた、衆議院議員でかつては市議、市参事会のメンバーでもあった三木武吉と、読売新聞社長の正力松太郎。

「正力松太郎氏突如収容さる 京電事件の黒幕で市議買収に奔走」(9月17日朝日朝刊)、「市会民政派の大御所 三木代議士収容される」「中島と相並んで黒幕の二巨頭」(同年9月27日朝日夕刊)……。三木は香川県出身。東京専門学校(現早稲田大)を卒業して弁護士から衆院議員となり、東京市議にもなって「市会の大御所」と呼ばれるほど、隠然たる力を持っていた。

 正力は富山県出身。東京帝大(現東大)を出て内務省に入り、警察畑を進んだ。警視庁警務部長だった時、難波大助が摂政宮(のちの昭和天皇)をステッキ銃で狙撃した「虎の門事件」が発生。摂政宮にけがはなかったが、責任をとって辞職した。その後、新聞経営を志し、部数減に苦しんでいた読売新聞に社長として乗り込んだ。その際、買収資金の算段を後藤新平に相談。後藤が自宅を担保にするなどして10万円を正力に渡したのは有名な話だ。やがて読売は「満州事変」の追い風と夕刊発行、囲碁・将棋欄の開設などで徐々に部数を伸ばしていく。

 三木と正力については、同じ政治評論家・御手洗辰雄が書いた「三木武吉伝」と「正力松太郎・伝記」がある。2人に関わる部分で2冊の記述はほぼ同一。正力の評伝「巨怪伝」で佐野眞一が「伝記」について、「正力がいかに大物であったかを伝えることに腐心している」と指摘したように、2冊の内容を全面的に信じるわけにはいかないが、2人の足跡をたどるのに頼らざるを得ないところがある。そのことを前提に記述を引用する。2人はもともとは政敵といってよかったが、直接会談して、利害が一致する点での協力を約束した。それは、正力がひそかに抱いていた野望――次の東京市長になること。「(三木は)『その代わり、市長になったら読売の社長を俺に譲れ』と言い出し(た)」と「正力松太郎・伝記」は書いている。

■「正力のところに『お中元』を十万円持って来た」

「京成事件」では、元読売経済部長だった後藤圀彦が京成の専務になり、正力に泣きついて乗り入れ実現への協力を懇願。正力はそれを三木と、政友会の大物である衆院議員兼市議の中島守利に伝え、協力を依頼した。それでも6回目の乗り入れ許可申請は委員会で否決されたが、正力と三木の強い圧力で本会議で逆転可決。京成は都心乗り入れの悲願を果たした。その後のことは「三木武吉伝」と「正力松太郎・伝記」の記述を引こう。

「後藤は正力のところに『お中元』を十万円持って来た」「正力は三木と中島とに五万円ずつ渡した。手元には一文も残していない。三木はまたその金に自分の財布から若干金を出して例年の通り盆前に、輩下の連中に分けてやった。正力が一文も懐に入れなかったと同様、三木も一文も残していない。事件はこれだけである」(「三木武吉伝」)。「昭和三年といえば、読売新聞がやっと十万台を越えて伸び始め、正力としては五千、一万の金にも困っていた時である。この十万円から頭をはねてもよかろうし、あるいはそっくり使ってしまっても構わなかったかもしれない。しかし、一厘も手をつけないのである」(「正力松太郎・伝記」)。

■汚職事件による正力への「有罪判決」が証明した意外なこと

 佐野の言葉が実感を伴って聞こえてくる気がする。汚職事件を起こしておいてそれはないだろうとも思う。結局、裁判でも事実関係については争わなかったようだ。4年後の1932年12月20日、控訴審判決で三木の懲役3月、正力の懲役2月執行猶予2年が言い渡された。さらに3年後に刑が確定する。それでも「三木武吉伝」は「三木、正力とも、なるほど金の取り次ぎはした。しかし検事は公判廷において『本件は純粋に友情によって尽力したもので』と、両人が一文も私せぬことを明確に述べている」「疑惑は受けた。また刑罰の言い渡しもあったが、前後7年かかって、裁判は三木と正力とが、一銭の利益も受けていないのみか、輩下を愛し、清廉な人柄である点を公に証明してくれる結果となった」と書く。

「正力松太郎・伝記」も「検事は公判において『この事件は正力なかりせば起こらなかった事件であるから、罰金刑ですますわけにはいかぬから、禁錮四カ月を求刑する』と求刑したが」「その間、正力個人には何らの利得を求めていないことは明らかであり」「裁判はかえって正力の公明な人格を証明し、一銭の利益をも求めていなかったことを立証してくれる結果となった。世にも不思議な判決である」とした。有罪となった裁判で「清廉」「公明」な人格が証明される。そんなことが本当にあるのか。佐野眞一は「巨怪伝」で「理解しにくい正力の倫理観とは、たとえば『読売新聞八十五年史』や御手洗の『正力伝』に、この事件の顛末が、正力の侠気を示す出来事として、むしろ得意気に記述されていることである」と書いている。

■「疑獄事件」で“箔をつけた”三木と正力のその後

 三木はこの後しばらく政治の表面から身を引く。報知新聞の社長となり、読売に身売りすることで再び正力とタッグを組む。その後、政界に復帰し、戦時中は東条英機内閣を批判。戦後も反吉田茂の陣頭に立ち、日本自由党や日本民主党の結成に参画した。最後は保守合同まで成し遂げ、保守政界の大立者として病気に倒れるまで活躍した。死亡を伝える1956年7月の新聞記事には「政界に大きな足跡を残す」「自民党主流派の中心失う」などの談話の見出しが並んだ。

 正力は読売を最大発行部数を誇る新聞に育て上げる一方、自身も政界入り。科学技術庁長官を務め、「言論と政治に大きな足跡」(1969年10月の死亡記事見出し)を残した。「テレビ、プロ野球、原子力平和利用の父」という見出しもウソではなかった。しかし、2人の訃報は大きな扱いだったが、そこには疑獄で有罪になったことは一言も触れられていない。

「疑獄事件」で人生を転落させた政治家も

 三木、正力という功成り名遂げた大物たちが、事件をかえって自分たちの“箔付け”に使った一方で、事件の陰でひっそり姿を消した人物もいた。それは志村清右衛門という政治家。事件当時は新党倶楽部所属の千葉県第1区選出衆院議員だった。1928年10月5日、贈賄側として東京地裁検事局に身柄を収容され、取り調べを受けて容疑を認めた。その後持病の肋膜炎が悪化し、1930年2月の総選挙には3期目の出馬を断念。4月10日、死去した。予審決定後の死亡だったため、公判廷で控訴棄却となった。なぜ彼のことを書くかというと、永田鉄山の時にも触れた筆者の祖父・小池七郎の旧制中学の同級生で奇縁があったからだ。

 志村清右衛門は千葉・幕張=当時は馬加(まくわり)とも表記した、現千葉市=の旧家に生まれた。家は豪農で、和菓子店も営んでいたらしい。

 旧制千葉中学に進学したが、最上級の5年生の時、津田左右吉教諭(戦後、文化勲章受章)に対する3〜5年生計174人による同盟欠席(授業ボイコット)に参加。志村は5人いた5年生の「総務委員」の1人だったが、“事件”を報じた地元紙「東海新聞」は、「志村は剛直、事に屈せず一刀両断の決断力に富み」という人物評価を紹介した。学内でも人望があったことが分かる。同盟欠席は周囲の説得で落着したが、その余波で、志村は小池七郎ら3人と一緒に同級生に対する暴力事件を起こし、4人とも放校処分を受けた。

 東京高等商業学校(現一橋大)を卒業して大阪住友銀行に入行。約3年勤務した後、千葉に戻って家業を継ぐ傍ら千葉郡会議員から千葉県会議員に。1924年の衆議院選挙に千葉市・千葉郡から、床次竹二郎が党首の政友本党所属で出馬して当選。その後、床次に従って民政党から新党倶楽部に移っていた。

■「一生は清貧と戦った政治生命の全てであった」

 国会図書館憲政資料室には、志村の弁護を担当した七条清美弁護士が寄贈した「七条清美関係文書」があり、その中に志村の予審尋問調書も含まれている。それを読むと、志村が贈賄に関わった経緯は次のようだった。

 京成電鉄の市内乗り入れ案が東京市会にかかっていることは新聞で知っていた。社長の本多貞次郎は千葉県議時代の同僚で、その後2人とも床次と行動を共にしたため、「平常懇意にしておりました」。ある日、政友本党時代の院外団で東京市会議員の茂木久平から電話があり、「乗り入れが難しい様子だから本多と相談してみては?」と言われた。もう一人の市議天野富太郎からも同じことを言われたため、本多に2度会った。2度目に「知っている市議がいるなら、話をしてくれ」と依頼され、茂木と、茂木経由で天野に「本多から頼まれたから、乗り入れにぜひ賛成してくれ」と伝えた。その後、本多に会うと、「乗り入れ問題もお陰で通ってありがとう」と言われ2000円を受け取った。その中から茂木と天野には計1000円を渡したという。

 供述を読むと奇妙な感じを受ける。市議から聞いた話を相手の会社に持って行って、それを市議に返しただけ。何か、仲間うちで金になる「ネタ」を探し合って金を引き出し、山分けしている感覚。日常茶飯事のようで、これでは罪の意識は薄いだろう。そうした体質が当時の国会議員や東京市会周辺には根づいていたといえるのかもしれない。

 志村はその後、持病の悪化に苦しみ、失意のうちに死んだ。最初の妻と長男を病気で失い、寂しい生活だったと地元紙にはある。1930年4月12日の東京日日新聞千葉版は「豊なりしも家産も政治に蕩尽」の見出しで「一生は清貧と戦った政治生命の全てであった」と書いた。その中で謝礼として受け取った金は、人生の転落のきっかけになったようだ。その金を渡した本多も予審調書で志村のことを「義理堅い男ですから」と述べた。

 犯罪は自業自得でも、それが人生において持った意味は、三木や正力とは全く違うものだったことだけは確かだろう。

本編 「東京都大疑獄事件」 を読む

【参考文献】

▽東京百年史編集委員会「東京百年史 第5巻」 東京都 1972年
▽小原隆治「後藤新平の自治思想」 「時代の先覚者 後藤新平1857〜1929」所収
藤原書店 2004年 
▽松山巌「世紀末の一年」 朝日選書 1999年
▽御手洗辰雄「三木武吉伝」 四季社 1958年
▽御手洗辰雄「正力松太郎・伝記」 大日本雄弁会講談社 1955年 
▽佐野眞一「巨怪伝」 文藝春秋 1994年
▽「七条清美関係文書」 国会図書館憲政資料室蔵 

(小池 新)

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