「日本のインテリジェンス」はなぜ世界から遅れを取るのか――「内調」の虚像と実像 #3

「日本のインテリジェンス」はなぜ世界から遅れを取るのか――「内調」の虚像と実像 #3

橋本龍太郎内閣組閣 ©文藝春秋

 霞が関の省庁間の権益争いに加え、更に深刻な事態を招いたのが、「政治主導」の名のもとに強行された“官邸改革”である。

 それを決定付けたのが、1997年当時の橋本龍太郎内閣の肝いりでスタートした行政改革会議で、官邸の危機管理強化策として内閣に危機管理専門官の新設を提言、翌98年に官房副長官に準ずるポストとして、「内閣危機管理監」という名称で置かれることが決定した。

■まともな「国家の意思決定」ができない日本

 これは、橋本首相お気に入りの國松孝次警察庁長官(61年)の起用を想定したものだったが、本来は、中央官庁を束ねる事務の官房副長官にリーダーシップがあれば、事足りる問題であった。それ故、警察庁も官房副長官に屋上屋を架するものであると、危機管理監の設置には当初から否定的であった。(そして危機管理ポストは今や、北朝鮮ミサイル、尖閣警備からパンデミック、大震災まで、官邸の“よろず相談所”である。)

 官邸の内情に通じていた大森義夫元内調室長(63年)も、危機管理体制の強化について、「国家意思の決定を迅速に行う必要があります。そのためには意思決定に関与する人が多すぎるとだめ。米国の国家安全保障会議のメンバーは、正副大統領、国務長官、国防長官だけです。そこにCIA長官や統合参謀本部議長が陪席している」「これに比べて日本は総花的で、ペルー人質事件対策本部の時も、医師団を送ったから厚相、日本人学校が関係するから文相もメンバーに、という議論でした。そうしないと霞が関の官僚が動かないのです。こんな体質がまともな国家意思の決定を阻害している」(「朝日新聞」97年5月17日付朝刊)と現状を批判した上で、「日本には『情報コミュニティ』という概念が希薄ですから、まず合同情報会議の強化から始めるべきでしょう」(同)と現実的な、しかも近道の改善策を披露していた。

 合同情報会議の座長は、先に述べた通り官房副長官が務めているが、その役割の大きさは、近年とみに増している。特に、対外関係や危機管理の問題ということになれば、「官」が従来から蓄積してきたノウハウや技法だけでは全く通用せず、一挙に荒業が必要となる場合も出てくる。その際、「政」と「官」を、そして「官」と「官」を繋ぐキーマンである官房長官の判断材料を用意するのが、「合同情報会議」であり、更にそれを下支えする情報組織が「内調」構想の志であったはずである。

■警察ウオッチャーも首を傾げる「内調トップ」人事

 更に橋本行革による中央省庁再編は、内調そのものを大きく変質させた。2001年内調室長に代えて、各省庁事務次官より上位となる特別職の内閣情報官を新設したのである。

 内調トップは、創設以来警察庁の“指定席”となっていたが、警察ウオッチャーからすれば、その人選を巡って幾度となく首を傾げることがあった。逆に官邸入りしてから大化けした警察官僚もいる。その多くは、本庁の警察庁長官・警視総監昇進レースから外されたという被害者意識が逆にルサンチマン(憎しみ)となって、安倍内閣で政策決定のキーマンとなっている「官邸官僚」を先取りしていたと言えるかもしれない。

 先述の大森氏もその一人で、「公安警察のエース」として警視庁の公安総務課長、公安部長の要職を歴任しながら、長官ポストを“ダークホース”的な同期の関口祐弘氏に奪取された。ただ公総課長時代の1980年、福田赳夫内閣を震撼させた旧ソ連の諜報機関GRU(当時のソ連軍参謀本部情報総局)による元自衛隊陸将補スパイ事件摘発に消極的だった大森氏が、事件後自らの手柄話として語っていたのには、大きな違和感を覚えた。また内調室長就任後は、マスコミにもソフトムードで応対する一方、唐突な危機管理論を演出し、その後の官邸改革への布石を打っていた。

 更に先述の情報官交代クーデター劇では、古巣の警察庁ではなく、経産省を推す二橋官房副長支持に回るかと思えば、2005年には内調に対抗して、外務省が英国の秘密情報機関「SIS(シークレット・インテリジェンス・サービス)」を念頭に打ち出した「対外情報庁」構想取りまとめに率先して動くなど、先述の「情報コミュニティ」強化とは真逆の言動が、筆者には不可解であった。

■空洞化していった官邸の危機管理

 初代内閣情報官の杉田和博氏もまた同じ思いだったのではないだろうか。

 城内康光警察長官(58年)の後押しで神奈川県警本部長から警備局長に返り咲いたものの、國松長官狙撃事件捜査失敗の上に、公安警察自壊の責任を問われ、ペルー人質事件後、内調室長へ放逐された。ただ、國松氏が城内長官に抗って、杉田氏を刑事局長に起用するという、当初の人事構想を貫徹していれば、警察庁長官への道は閉ざされることはなかったであろう。そして何よりも、オウム事件は、松本サリン事件捜査の急展開によって、終止符が打たれた可能性が大いにあったと筆者は思う。しかし、人事とは不思議なものである。初代内閣情報官に昇格すると、瞬く間に初代内閣危機管理監へ、更に内閣官房副長官に登り詰め、奇しくも現在は霞が関の幹部人事を牛耳る「内閣人事局」トップも兼務している。官邸入りしてからの杉田氏個人は、ポストが変わるたびに、雪だるま式に権力と求心力を集中させていった。しかし組織としては、屋上屋を重ねる官邸ポストの乱立と堂々巡りの人事で、官邸の危機管理もインテリジェンスも一気に空洞化していった。

 因みに、杉田氏を抑えて、長官に就いた同期の田中節夫氏は、相次ぐ警察不祥事のため引責辞任に追い込まれるという不遇を囲っている。また下稲葉耕吉(47年後期)、福田勝一(50年、旧自治省)、鎌倉節(54年)の3氏は内調トップから本庁の出世レースに復帰し、警視総監の座を射止めている。 

■日本のインテリジェンスに回ってきた“ツケ”

 一方、情報組織としての内調は、先述の内閣情報官設置以降、同年の2001年に情報収集衛星導入準備室が発展的解消して内閣衛星情報センターへ。08年に外国情報機関から日本の重要情報や職員を保護するカウンターインテリジェンス・センターの設置、13年に国家安全保障会議の発足、13年には国際テロ情報集約室を新設するなど、一見内調の組織、権限の拡充が図られているかのようであるが、何のことはない。インテリジェンス機能を度外視した、付焼刃的な組織の細分化と縮小再生産が繰り返されてきているだけで、その新たなセクションも出向組や兼務辞令で辛うじて人員の帳尻を埋め合わせているだけに過ぎない。

 冷戦崩壊による戦後の国際社会秩序が大きく揺らぐ中、「平和の配当」に安堵し、うわべだけの冷戦型思考から脱却できず、「ポスト冷戦」から「冷戦後」への安保戦略を構想出来ないまま、日本のインテリジェンスは、ヒトの集中と組織の拡散という、パラドックスに陥ってしまった。情報も水や空気、更に治安や安全と同様に、「ただ」だと思ってきたツケが今回ってきているのである。

 防衛省・自衛隊にしろ、外務省にしろ、押しなべて「情報コミュニティ」を構成する各情報機関の現状を見ていると、“情報マン”たちはスペシャリストとしてではなく、ジェネラリストとして育成されているために、様々な分野を比較的短い期間で次々と遍歴させられており、今ではファクト・ファインディング重視の伝統も廃れてしまった。しかも、総合判断を必要とするマネジメント能力にも欠けるとなると、情報集積や人脈、ノウハウの蓄積で実務を取り仕切るなどはとても覚束ない。

■「生きた情報」に必要な「記憶」というファクター

 インテリジェンスが追求する「情報」に関して、筆者はこれまで(1)クオリティ、即ちインフォメーションではなく、質的・密度的意味での本来の情報、(2)スピード、(3)オリジナリティ、(4)メッセージ――の4つのファクターを重視してきたが、「ポピュリズム政治」が招いた情報バブルやフェイク・ニュースを一蹴するために新たに「記憶」というファクターを付け加えたいと考えている。情報協力者・提供者〈メディアにおける取材相手〉がその時どんな表情だったのか、「情報」にも表情がある。これが、冒頭に紹介した金田氏が言う、インテリジェンスの王道であるヒューミント(人的情報)に通じる「生きた情報」であり、情報マンのスキルとメンタリティである。

 当然、「国家の情報」を担う「情報コミュニティ」は、内閣の危機管理のための単なるシステムに終わるのではなく、情報ネットワークから情報組織へと発展的成長を遂げ、更にはその情報資源を反映、活用した安全保障政策の立案、遂行が可能な組織作りがもとめられる。

 内調も、霞が関の官僚組織と同様に、シンクタンクとしてその一役を担うことが出来れば、活路を見出せるかもしれない。

「ポスト安倍」後は、この情報組織の再構築が、独立国家として避けられない緊喫の政策課題になるだろう。

■「情報感覚」は「時代感覚」をも研ぎ澄ます

 そういえば、最近政府関係者からこんな話を聞いた。

 1968年のチェコスロバキアでの民主化の動き、いわゆる「プラハの春」の際のことである。旧ソ連の軍事介入が秒読み段階に入った頃、果たして市民数千人が犠牲になり、25万近くの難民を生んだ、1956年のハンガリー動乱の二の舞になるのか――それが各国インテリジェンス機関の最大の関心時だったという。

 その時日本が入手した、チェコの事情通からのヒューミントは明快であった。「チェコはソ連に従う」と。元将校は、「第二次世界大戦から20年たち、国民は共産主義革命の限界を感じていた。そして国家より家族が大事だということに気づいた。だから、ソ連に従っても、その政府を国民は信じていない」と解説したという。そして1968年から20年後、東欧では、チェコで最初に民主革命が起きており、結局プラハの春では、7人の犠牲者しか出ていないという。

 「情報感覚」は、「時代感覚」をも鋭く研ぎ澄ましてくれる。

(川邊 克朗)

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