「一人一殺」金解禁をめぐる“三井のドル買い事件”が招いた恐ろしすぎる日本テロの序章

「一人一殺」金解禁をめぐる“三井のドル買い事件”が招いた恐ろしすぎる日本テロの序章

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■解説:ザイバツの「自由な経済活動」がテロ誘発の風潮を招いた!

「ザイバツ」と聞くと何を想像するだろうか。辞書には「財閥 大資本・大企業を支配する人たち(の排他的集団)」とあり、付け加えて「俗に、金持の意にも用いられる」とある(「新明解国語辞典」)。「『財閥』という言葉は、もともとは単に『富豪』『金持ちの一族』を意味するものだったが、昭和初めごろにジャーナリズムで盛んに用いられるようになった」「この時代には財閥という語は、ある種マイナスのイメージを与えるものであった」と、宮本又郎「日本の近代11企業家たちの挑戦」は書き、財閥の定義を「富豪の家族・同族の封鎖的な所有の下に成り立つ多角的事業体で、その多角化された事業分野はそれぞれかなりのビッグビジネスである」としている。

■山陽鉄道から王子製薬の社長まで 華麗なる「三井財閥の人脈」

 その財閥の発生はそれほど古くない。江戸時代の豪商が、明治になって華族・士族に家禄の代わりに支給された金禄公債を取り扱ったのが始まりだった。その中で時代の荒波に生き残ったのが三井、安田など。さらに、明治政府が手掛けた紡績、造船などの官営事業が行き詰まり、民間に払い下げられた際、これを引き受けたのが三井、三菱や浅野総一郎、古河市兵衛、大倉喜八郎といった実業家たち。さらに、その後の日清・日露戦争などで、鉱山、製鉄、機械、化学、海運などの軍需産業が隆盛となり、それが新しい技術と産業を育て、手掛けた実業家が財閥の仲間入りをした。

 中でも三井財閥は、伊勢(現三重県)松坂から江戸に出て呉服店「越後屋」(現三越)を営んだのが始めで、その後、西郷隆盛から「三井の大番頭」と揶揄された元勲・井上馨の後ろ盾もあって、一時の危機を乗り切り、銀行(三井銀行)と貿易(三井物産)を両輪に「三大財閥」の1つになっていく。「組織の三菱」に対して「人の三井」といわれるように、その歴史に名を残した経済人は驚くほど多士済々。福沢諭吉の甥で山陽鉄道の社長などを務めた中上川彦次郎、三井物産を育てた益田孝(「鈍翁」という号で呼ばれた)、王子製紙の社長などを歴任した藤原銀次郎……。今回登場する池田成彬と、やがて暗殺される団琢磨もその人脈に連なる「三井の人」だ。

■紙幣と金の引換を自由にする「金本位制度」

 現代の私たちにとって金本位制とは、名前を聞いたことはあっても、どんなことなのか、なかなか理解し難い。通貨(紙幣)と正貨(金)の兌換(引き換え)を自由にすること。つまり、紙幣を日本銀行に持って行けば、相当する金貨と交換してくれる制度。金を基準にして各国通貨の交換レートを固定することが、国際貿易の拡大と国内経済の安定した発展に重要だと当時は考えられた。第1次世界大戦で体制が崩れて変動相場制になったが、戦後、米英など欧米各国が復帰。日本でも1917年に金輸出禁止措置をとって以来、13年間に10人の蔵相が取り組んだが、関東大震災などのために果たせないままになっていた積年の課題の難事業だった。通貨と金との兌換と、金の輸出入を自由にして、戦後のインフレで低下した貨幣価値を金貨の水準に回復し、為替相場を引き上げるのが狙いとされた。

■「井上緊縮財政」で進められた金解禁政策

「満州某重大事件」と呼ばれた張作霖爆殺事件の処理などをめぐって田中義一内閣が総辞職した後の1929年7月、第2党だった民政党の浜口雄幸総裁が内閣を組織。その特徴は、幣原喜重郎外相による対中国などとの「幣原協調外交」と、井上準之助蔵相の「井上緊縮財政」だった。内閣が公表した十大政綱に「金解禁」を掲げ、井上蔵相はその必要性を、全国を回って国民に訴えた。「金解禁――全日本に叫ぶ」というパンフレットで自信満々にこう述べている。「金解禁問題の解決こそは、行き詰まれる我が国の経済的安定に絶対必須の最大要件であると、私は深く信じている」。それは対立政党の政友会が金解禁に否定的だったことを意識した、二大政党制下の政治戦略でもあった。

■「金解禁をやれば恐るべき不景気が到来する」

 関東大震災以後、不況が続く中、首相、蔵相とも「金解禁で景気は必ずよくなる」と繰り返し主張。国民は大きな期待を寄せ、解禁直後の衆議院議員選挙でも民政党内閣を圧倒的に支持した。朝日ジャーナル編「昭和史の瞬間(上)」には「政府の誇張したPRに乗った国民は、不況にしびれをきらした『藁をもつかむ』気持ちから、『金の解禁立て直し 来るか時節が手をとって』と『金解禁節(ぶし)』まで口ずさみながら、金解禁の将来をバラ色にぼかした目で見つめていたのである」と書いている。時あたかもエロ・グロ・ナンセンス真っ盛りの時代だったが、本当にそんな歌がはやったのか……。

 それに対して、「現時点で金解禁をやれば恐るべき不景気が到来する」と反対の声を上げたのは、「東洋経済新報」主幹の石橋湛山(のち蔵相、首相)、「中外商業新報」(現日本経済新聞)経済部長の小汀利得ら、「4人の侍」と呼ばれた民間の経済ジャーナリストたち。特に法定の為替相場である「旧平価」での解禁は、現実の為替相場の「新平価」より約15%の円切り上げになるため、「旧平価で解禁すれば物価が下落して不況色が一段と強まり、ひ弱な体質の日本経済はひとたまりもない」と強く警告した。小汀は戦後、テレビの「時事放談」での、細川隆元氏との掛け合いで知られたが、かつて「証言・私の昭和史(1)昭和初期」で、金解禁について「日本の経済学会も経済界も、ともに認識不足であったということに間違いの元があったんです」と言い切っている。

■「世界恐慌の嵐に向かってわざわざ雨戸を開いた」

 しかし、1930年1月11日、金解禁は強行された――。いま残されている解禁当日の井上蔵相のラジオ放送原稿「金解禁決行に当たりて」を読むと、「金解禁をしても、緊縮財政と国民の消費節約を続けなければ、景気回復は難しい」というような弱気なニュアンスがうかがえる。これについて石橋湛山は「政府は多年の懸案であった金解禁は、これを実施したが、その準備は整うてはいない」「幾多の困難が続出するものと期待せねばならぬ。その困難凌駕は国民の責任だ。その凌駕ができなければ、せっかくの金本位の復活も、またつぶれるかもしれぬぞといった態度である」と批判した。結果的に金解禁は「4人の侍」が主張した通りの経過をたどり、日本経済は未曽有の大不況に見舞われることになった。

 いま、どんな歴史や経済史の本を読んでも、そのタイミングでの金解禁の評価はボロクソといっていい。「それにしても、井上準之助蔵相の決断のタイミングは常軌を逸したものであった。今日でも記憶されている『暗黒の木曜日』は1929年10月24日で、大蔵省が金本位制復帰の省令を出したのは、その約1カ月後の11月21日である」(坂野潤治「日本近代史」)。当時言われたのは、「浜口内閣の金解禁は、世界恐慌の嵐に向かってわざわざ雨戸を開いたようなもの」だった。ちなみに、この時発行された「此券引換に金貨百円相渡可申候」と書かれた百円札が、聖徳太子が紙幣に登場した初めだった。

大不況に見舞われても“強気だった”井上蔵相の真意とは

 金解禁の影響は、まず巨額の金の流出として表れた。解禁後5カ月で2億2000万円、2年間では計約8億円の正貨を失った。「解禁時、在外正貨を含めて13億6000万円あった正貨は、23カ月後には4億円を残すにすぎなかった」(中村政則「昭和の歴史(2)昭和の恐慌」)。

 株価・物価が暴落、工業・農業生産が低落、輸出入が不振になり、国際収支の悪化が進んだ。野党政友会は失政だとして内閣を追及したが、井上蔵相はなお強気だった。その姿勢は1931年12月に政権が交代し、蔵相を辞任した後も変わらず、1932年2月に暗殺される直前に発表した論文「金再禁止と我財界の前途」でも、犬養毅内閣発足直後、高橋是清蔵相が金輸出を再禁止したことを厳しく批判。「日本の財界の根本には、金本位を維持するに困難なる事情はさらになかった」と強調している。

 日銀時代の後輩の一万田尚登・元日銀総裁は著書「人間と経済」で、金輸出再禁止に踏み切らなかった井上の心中をこう推測している。「当時の政治情勢は満州事変の勃発により、軍の勢力が増大し、ほとんど政局を左右する観を呈していた。この時に当たり、金本位を離脱することは、ほうはいたる軍備拡張要求に対し、安易なる道を与え、極めて危険であるとせねばならぬ。軍を押さえて戦争に赴くことを回避するためには、たとえ金の流出、減少をきたすとも、金本位制を固く守り、軍費の無限の増大を防がねばならぬとの堅い信念に基づくものではなかったか」。これも永遠の謎だが……。

■すべてが恐慌のために窮乏化しているなかで

 そして、本編にあるドル買いの嵐が起きる。詳しくは本編にあるが、柳条湖事件で満州事変が勃発したのを挟んで1931年9月末まで金輸出再禁止を見越したドル買いが一気に激化した。これについて池田成彬は戦後の「財界展望」での小汀利得のインタビューに、経緯を詳細に説明した文書を作って提示。「ドル買いは思惑的なものでなく、金額的にも正貨流出総額の約1割にすぎなかった」「イギリスとの為替取引で、イギリスが金本位を停止したため、自衛上必要限度のドル買いの必要を生じ」たためだとあらためて弁明した。本編も「ドル買いは純然たる経済問題であった」「天下晴れての公然たる商行為」と書き、池田成彬=三井寄りの見解を示している。

 これに対し、大方の見方は次のようなものだった。「日本の財閥系銀行は、経済的には抜け目がないとしても、政治的には有害なかたちで行動した。銀行の経営者たちは、政府としてはこの金本位制復帰政策を放棄し、円を引き下げざるをえないはずだということを、すばやく見てとった」「銀行は、ドルを売って安くなった円を買い戻すことにより、保有資金をいともたやすく倍増できたわけである。社会では、資本家と政党内の資本家の盟友たちについてはほかの人々すべてが恐慌のために窮乏化しているなかで、国を売って多額の利益をあげた強欲で利己的なけしからぬ輩だ、とする見方が広まっていたが、銀行の利潤追求行動は、そうした資本家批判の影響力をますます強めた」(アンドルー・ゴードン「日本の200年」)。1931年11月2日には社会民衆党の青年同盟メンバーらが三井銀行を襲い、12月25日には同党が三井、岩崎(三菱)、住友3家に決議文を突き付けた。

■「粉飾決算を行った痕跡が認められる」

 当時外国為替を扱っていた三井・三菱・住友3行の1931年下期の損益計算書では、三井銀行が1230万円、三菱銀行が670万円、住友銀行が138万円の『純損金』を出した。これについて池田成彬は「財界回顧」で、自分が三菱の串田万蔵と住友の八代則彦に働きかけたためだったと認めている。「我々の内部でもそれを発表することについて不賛成の者もあったが、私はどうしても出す、いい加減なことをしてごまかしていくということはいかん」と説得したという。

 しかし、「昭和の歴史(2)昭和の恐慌」は、「3行の損益計算書を子細に検討すると、いずれも過大な『有価証券価額償却』『外国為替売買損』を計上しており、粉飾決算を行った痕跡が認められる」とする。三井銀行は翌32年上期には外国為替特別利益として2210万円余の利益を上げたが、差し引き約1000万円の利益は一時利益に組み入れず、準備金として処理。以後、決算ごと若干ずつ組み戻して調節したという。同書は「社会的なドル買い非難をかわすためであった」「三井銀行は右のような帳簿上の操作を行って、損失だけを公表し、利益を秘匿したのであった」と指摘。「これまで、池田成彬の証言を鵜呑みにして、ドル買いを三井銀行の自衛措置とみなすのが通例であったが、この点は再考の余地がある」と主張している。

■ドル買い事件が口火となった「血盟団」によるテロ行為

 もう1つ、このドル買いの決定的な影響として挙げられるのは、直接的に「血盟団」によるテロ行為に結びついたことだ。1932年2月9日、民政党の選挙委員長になっていた井上準之助は、衆議院議員選挙の応援演説に訪れた東京都内の小学校で、背後から男にピストルで撃たれて死亡した。男は小沼正。「現在の農村の窮状は井上の責任」ということしか供述しなかった。そして3月5日、東京・日本橋の三井本部の表玄関で、到着した三井合名理事長で財界の指導的立場にあった団琢磨がピストルで射殺された。撃った男は菱沼五郎。捜査の結果、2つの事件の背後には、右翼団体「血盟団」の存在があることが判明した。

 永井荷風は日記「断腸亭日常」の3月5日の項にこう記している。「快晴。春風嫋々たり」「夕刊新聞を見るに、今朝十一時頃、実業家・団琢磨、三井合名会社表入り口にて銃殺せられし記事あり。短銃にて後より肺を打ち抜かれしという。下手人は常州水戸の人なる由。過日、前大蔵大臣・井上準(之助)を殺したる者も同じ水戸の者なる由。元来水戸の人の殺気を好むは安政年間、桜田事変ありてよりめずらしからぬことなり」

 血盟団は、井上日召を盟主として茨城県に本拠を置き、「一人一殺」をとなえるテロ組織。井上日召も出頭して裁判にかけられたが、彼らは異口同音に「政党、財閥と特権階級が結託して私利私欲を図り、国利民福を顧みず、腐敗堕落の極にある」と主張。その例証として「最近続出する多くの疑獄事件、昭和6年末のドルの思惑買い、ロンドン海軍条約に関する統帥権干犯問題」などを挙げてこれを痛撃した。ただ、中島岳志「血盟団事件」によれば「彼ら(血盟団メンバー)が不信感を抱いていたのは、既成政党全般だった」「民政党の緊縮財政・デフレ政策が問題なのでもなく、政友会の金融政策が問題なのでもなかった」。池田成彬も有力なターゲットで、襲撃担当となったメンバーが三井本部など身辺を監視したが、そこで団琢磨を目撃し、警戒している様子がなかったため、最終的に菱沼が襲撃することになったという。

 井上日召は、陸軍軍人を中心としたクーデター未遂事件である「十月事件」に関与。動きは陸軍や海軍の軍人、民間人を巻き込んで膨れ上がり、「五・一五事件」「二・二六事件」へとつながっていく。農村の疲弊、娘の身売り、小作争議、労働争議など、悲惨な社会状況と対比して政党と財閥の腐敗が声高に語られ、やがて天皇を取り巻く「君側の奸」攻撃へと発展。要人を対象としたテロ行為が頻発するようになる。ドル買い自体が正当だったかどうかは別にして、そうした財閥の行為とメディアの報道によって「財閥けしからん」という庶民感情が醸成され、それを利用した形でのテロやクーデターを誘発し、国民も容認する風潮を作り上げる一因となったことは否めない。これ以降、「もの言えばくちびる寒し」の空気が社会を覆い、自由な発言が目に見えて減っていく。

■「いまも旧財閥系企業が産業・金融の中枢を占めている」

 池田成彬はその後、「財閥の転向」を図る。「日本の近代11企業家たちの挑戦」によると、それは「三井を世上の攻撃から防衛することであった」。

 (1)財団法人「三井報国会」を作り、公共事業・社会事業に寄付

 (2)三井関係企業の株式一般公開

 (3)「筆頭理事・参与理事65歳」など、役員の定年制実施。

 自身は、1937年の林銑十郎内閣に蔵相として入閣。「軍(部)財(界)抱き合い」に踏み切った。全てが三井の延命のためだった。

 財閥は戦後、占領統治を行ったGHQ(連合国軍総司令部)によって解体されたように見えた。しかし独立後、再び再編され、事実上復活し、企業ごとに離合集散を繰り返しながら、現在も生き続けている。創業家ファミリーはすっかり表舞台から消え去ったが、「いまも旧財閥系企業が産業・金融の中枢を占めていることに変わりはない」(久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六十年」)。まるでそれ自体、意思を持った有機体のように。

本編 「三井のドル買い事件」 を読む

【参考文献】

▽宮本又郎「日本の近代11企業家たちの挑戦」 中央公論新社 1999年
▽朝日ジャーナル編「昭和史の瞬間(上)」 朝日選書 1974年
▽テレビ東京「証言・私の昭和史(1)昭和初期」 旺文社文庫 1984年
▽井上準之助「金解禁決行に当たりて」=井上準之助論叢編纂会編集発行
「井上準之助論叢第3巻」1935年=所収 
▽坂野潤治「日本近代史」 ちくま新書 2012年 
▽中村政則「昭和の歴史(2)昭和の恐慌」 小学館 1982年
▽井上準之助「金再禁止と我財界の前途」=「井上準之助論叢第1巻」所収 
▽一万田尚登「人間と経済」 河出書房 1950年
▽柳沢健編、池田成彬述「財界回顧」 世界の日本社 1949年 
▽アンドル・ゴードン「日本の200年」 みすず書房 2006年
▽中島岳志「血盟団事件」 文藝春秋 2013年
▽久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六十年」 朝日選書 1987年

(小池 新)

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