「英語のできない英語教師」に縛られ英語ができない“身の丈”ジャパンの諸問題

「英語のできない英語教師」に縛られ英語ができない“身の丈”ジャパンの諸問題

衆院文部科学委員会で答弁する、萩生田光一文部科学相 ©?AFLO

 文部科学大臣である萩生田光一さんが、英語教育の地域や経済力の格差を巡って「身の丈」発言をしたお陰で、2020年度に始まる大学入学共通テストにおける英語の民間試験の導入について、延期が発表されてしまいました。

 推進論も反対論もあって、どちらも一理あるので仕切り直しも仕方ないですね。次こそは、まともな文部科学大臣が就任することを期待しましょう。

■本来は公教育で英語が使えるようになるべきでは

 その辺のおっさんが好き勝手に放つ「地方に住んでる奴は英語なんてどうせ使わねえんだから、やりたい奴は身の丈で勉強しときゃいいんだよ」というレベルの与太話を、我が国では良い背広を着た担当大臣が堂々と喋ってしまうわけですから、なんて言論が自由で開かれた国なんだと思わずにはいられません。国民にも希望が持てますよね、こんな人でも大臣になれるなんて素晴らしい国じゃないかって。俺も大臣目指して頑張ろうって。

 もっとも、英語教育だけで見るならば、日本はタイやベトナムにも後塵を拝しています。いい歳してなお英語が喋れないので、セブ島やニュージーランドにそこそこのカネを払って英語を習いに行く日本人は後を絶ちません。もちろん、英語を喋りたい、英語でモノを読んだり書いたりしたいというニーズは神聖なので、勉強すること自体は素晴らしいと思うんですよ。ただ、本来は公教育で充分に英語が使えるようになるべきだ、だからこそ大学受験の科目にするのだ、というのは議論としてあります。

■英語力ランキングでは88か国中49位とも

 思い返せば、1973年生まれの私もよく考えたら大学で思い立って留学するまではたいして英語が喋れず、仕事で英語を使う時期に一気に英語力が伸びたことを考えますと、語学というのは単に習うものではなく、必要に迫られて初めて習得するものだという感覚がありますよね。

 翻って、いまや小学校でも英語教育が行われている現状がある割に、私たちは少なくとも6年間ないし8年間は英語を何らかのかたちで学んできたはずなのに、日常的な英語が使えるレベルにまで英語力のある日本人は少なく、一部の英語力ランキングでは88か国中49位と「英語力が低い」というご評価までいただいています。うるせえんだよ。もっとも、このEFランキングでは、その調査対象者は自分から無料のオンライン試験を受ける仕組みなので、実際の英語力はもっともっと低いかもしれません。

■英語教育の必要に迫られている日本

 まあ、毎度言われることですけど、どうなってるんだ我が国の英語教育は、というのは以前から議論にはなっていたんですよね。なので、文部科学省も今回の「身の丈」発言の前から、英語教師はネイティブ話者を雇いましょうとか、英語教育の奨励プログラムはありますけれども、実際には小学校では特に学級担任が普通の授業の一環として英語を小学生に教えている、というのが実態であります(2018年:英語の授業を担当するのが学級担任であるクラスは80.5%)。

平成30年度「英語教育実施状況調査」概要(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/04/17/1415043_01_1.pdf

 そういう日本の英語教育の成れの果てが、大学入試における民間英語試験という出口での改革で良いのか、というジレンマはあります。何でも利権に結びつけて考えるのは良くありませんが、こんなのは少子化で細る教育産業が業界として市場をガメにいったと批判されても仕方のない面もあるのかもしれません。ベネッセが名指しされていて可哀想ですがお前も悪い。

 ただ、教育論・教育学を専門にする人たちの間でも本件が賛否両論なのは「とはいえども、日本人はグローバル社会への対応や、日本に観光に来る外国人とのコミュニケーションを取るうえでも、きちんとした英語教育をする必要に迫られている」という当たり前の大前提が根底にあるからだと思います。

■海外行ったことすらないような教師が英語を……

 一方で、そういう英語教育を担う現場というのは先にも述べました通り英語など本来ネイティブでもなんでもない担任教師が教科書片手にディスイズアペンとやっているわけで、素人の適当な英語を時間かけて教わる小学生が可哀想であることぐらいは容易に想像がつきます。お前に英語教えてる担任教師、海外行ったことすらもないかもしれないんだよ。

 日本の初等中等教育の現場が荒廃していると言われるのは、少子化が進展しているにもかかわらず教師という職業自体が地域や家庭の問題までおっ被せられてブラック企業も真っ青になるほど劣悪な労働環境に陥っているからです。

 最近では子どもの親の離婚にまで教師が挟まって右往左往したり、親の虐待を教師が気づけなかったから教師はけしからんという話も出たりしますが、それってどう考えても親の問題ですよねえ。何で地域のこととか家庭まで教師が介在させられてしまうの。下手すれば家庭でこなすべき躾まで教師がどうにか対応しろという話になり、駅前やコンビニ前で子どもが騒げばあそこの学校がアカンのだと叩かれる現実があるわけですよ。

 多感な子どもたちが抱える問題がどんどん教育の現場に押し付けられて、学問を教えたり学級経営をしなければならない教師に雑務が降ってくるようでは、仕事ばかりが増えて大変な負担であることは間違いないのです。そして、昔は中堅大学の卒業生にとって花形の資格であるはずだった教員採用試験は、かつての5倍6倍だったころに比べていまや一部で1.2倍を切るぐらいになり、もはや漢字で名前が書ければ教師になれてしまうぐらいの勢いでレベルが下がってしまっているとも言えます。

■日本の教育の目指すところは大学入試という現状

 むろん、志のある教師たちがいまなお多くいるからこそ、日々研鑽し子どもたちと向き合って日本の教育の現場はかろうじて成り立っているのでしょうが、それは医療でもAmazonでもユニクロでもみんなみんな限界まで頑張って何とか現場が成り立っているという状況と変わりはありません。放っておくとみんな崩壊してしまうんじゃないかというレベルで。

 そして、日本の教育の目指すところは、大概において大学入試であります。東京大学や京都大学に何人入ったのか、国立大学や慶應義塾の医学部にどれだけ生徒が送りこめたのかが中学高校教育最大の関心事となり、学校も予備校も大学への入学実績ですべてを競っているわけです。まるで馬鹿高いノルマを押し付けられた営業マンのようです。

 そこに、たいして英語も喋れない担任が英語を教えている地方公立小中学校と、それなりに親が裕福で潤沢に資金を教育に突っ込める家庭が通う学校とでは、文部科学省大臣である萩生田光一さんが語る「身の丈」が平等で適正なのか問われるのも当然と言えます。

■喋ったこともない英語を、前途ある子どもに教える辛さ

 とはいえ、英語教育はやらなければならないのです。日本の教育の現場では、算数の筆算や漢字の読み書き、慣用句や一通りの理科社会を満遍なく教えることはできたとしても、英語はまた別のスキルです。どうにかならんのかね。アイハブアンアポーとか英語のできない教師が前途ある子どもたちに教えるというのは想像するだに辛い。ピコ太郎かよ。

 教えられる子どもたちにとっても辛いし、教えなければならない教師の皆さんも辛い。

 だって、まともに喋ったこともない英語を、まともに喋ったこともない小学生に教えるんですよ。うまくいくはずないじゃないですか。もしも大学入試改革で本気で英語力が求められるのだとするならば、まずは都道府県に英語のできる教師を非常勤でも良いから多く雇い、小学校中学校を巡回して英語を教え、場合によってはインターネットも使いながら生の英語を必要に迫られて学んでいくというぐらいの仕組みが必要です。ALT(外国語指導助手)などはようやく全国で18,000人を超え(2017年)、これからもっともっと地方と英語話者とが一体となって英語力を地域に根付かせられるような状況になっていけばいいなと思います。

 英語の喋れない日本人を量産してきた我が国の教育環境も、文部科学省の頑張りも多少はあり、また学校教育の現場も何とか対応して前向きに進めるかなと思っていたところへ、文部科学大臣の萩生田光一さんによる「身の丈」発言でございます。これもう、ほんと大変なことだと思いますよ。決して民間英語試験が良いとは言わないけれども、ようやく日本の英語教育もこれからどうにかなって、いろいろ試行錯誤しながら前に進めるかなと思うところでこの始末ですからね。

 そこへ来て、文部科学省もPCを1人1台配って教育ログを取りプログラミング教育をしようという話になり、さらに授業に主体的に参加できるようにアクティブラーニングを取り入れようということになる。教師の負担は増える一方なのに、それによって得られる成果はどれだけあるのか、あまり詳しく検証されていないようにも思います。

■何のための大学なのか?

 日本の初等中等教育が優れている、というのはOECDがやっている学力テストで日本が上位にいるからですけど、これは本当の意味で現場の教師がギリギリのところで頑張って子どもに学力をつけさせようと努力しているからに他ならないと思うんですよ。でも、そういう優れた日本の子どもたちが大学にいった途端に日本の教育はうんこだと批判される対象になってしまう。

 記述式の試験問題も、50万人が受ける大学受験において適切に発想力を試験できるのかという批判は繰り返し投げつけられ、一方で推薦入試やAO入試は意欲こそ問われるものの本当に学生の質的担保に資するものなのかは分からないうちに制度だけは定着して有力大学だけが優秀な学生の青田買いするツールになってしまいました。

 たぶん、その制度を導入したときは人物本位の入試をしたいとか、学問に志のある人を大学は迎えたいとか、一芸に秀でた特殊な才能に光を当てたいとか、各々立派な理由はあったはずなんですよね。それがなぜか、制度を始めて運用するごとにまるで裏口入学なのかとばかりに各予備校各高校がAO入試対策や推薦を勝ち取るためのテクニックに奔走するものだから、肝心の入学を志す高校生浪人生の側が右往左往せざるを得なくなる。

 いずれそういう子どもたちも大半は大学を卒業したあと企業に就職するにあたり、今度は企業の側が「大学は充分な能力を学生に備えさせていない」という批判をすることになります。大学入試がすべての教育におけるベンチマークになり、評価基準になっている割に、その卒業した先の企業が日本の大学教育に疑問を投げかけ、一方で、大学は研究能力の低迷で論文発表数も伸び悩んでいるのであれば、何のための大学なのか、日本社会・経済にどう大学が役立とうとしているのか分からなくなってしまいます。

■さまざまな問題が同時に押し寄せている大学教育

 突き詰めれば、どういう大学教育を日本社会では必要としていて、それを実現するためにどのような予算や組織、入試、育成カリキュラムを組むべきなのか、誰もその辺のグランドデザインを組んでいないので、文科行政ごとすごい勢いで漂流しているんじゃないかと思うんですよね。

 科研費の問題然り、潰れそうな大学の問題然り、やってきたけど行方不明になる留学生がたくさん受け入れられる学校法人然り、さらには自治体から切り離された独立王国となっている各教育委員会然り……。さまざまな問題が同時にどーっと押し寄せて、単なる「制度疲労ですね」というにはあまりにも方針がハッキリしない我が国の高等教育はどう仕切り直されるべきなのか、一度きちんと考えたほうが良いのではないかと思います。

 その点で、萩生田光一さんが「身の丈」失言で問題大爆発するのもまた、日本の荒廃した大学の有り様も含めた大学入試改革の問題点を浮き彫りにしてくれた、という意味で良かったのではないかと思ったりもします。良くないけど。

(山本 一郎)

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