「なぜアメリカ相手に戦争?」ペリー来航から“88年の怨念”が導いた太平洋戦争の末路とは

「なぜアメリカ相手に戦争?」ペリー来航から“88年の怨念”が導いた太平洋戦争の末路とは

連合艦隊司令長官・山本五十六 ラバウルにて ©文藝春秋

■解説: 日本をアメリカとの無謀な戦争に走らせたものはなにか??

 ある年齢以下の人たちにとって、かつて日本がアメリカと戦争をしたことが信じられないはずだ。「あの世界一の大国に対して、なぜ?」という素朴な疑問が出るだろう。

 真珠湾攻撃の「生みの親」山本五十六・連合艦隊司令長官も1940年秋、「アメリカと戦争するということは、ほとんど全世界を相手にするつもりにならなければ駄目だ」と語っていた。それでも「やむにやまれず、自衛戦争に突っ込むしかなかった」というのがよく言われる説明だ。有馬学「日本の歴史23帝国の昭和」は「開戦に至る過程は、各政治勢力がその時その時の最悪の選択を避けようとして行った決定の積み重ねなのだ」「途中では誰も主体的決断をしていないのに、最終的には重大な決定がなされてしまうという、意思決定過程の不思議な特徴」と表現する。

 天皇は絶対不可侵の存在とされていたものの、さまざまな事情から、内閣と陸軍、海軍などの間の意思疎通が決定的に欠落。天皇の意思さえ事実上無視され、国の運命と国民の生命を賭けた戦争に、国家としての共通意思がないまま突入した――。それが太平洋戦争開戦の実情だったといえる。

■国民総生産(GNP)は日本の約12倍、石油生産量は約712倍

 当時も工業生産力を中心にした国力の比較はされていた。開戦9カ月前の1941年3月、陸軍省整備局は対米戦争の物的基盤の比較研究の結果、「2年以上の対英米戦は不可能」と報告していた。1941年、アメリカの国民総生産(GNP)は日本の約12倍、石油生産量は約712倍、粗鋼生産力で約12倍、自動車保有台数は約161倍。差は歴然だった。1941年9月5日、永野修身・海軍軍令部総長は、昭和天皇に「絶対に勝てるか」と問われ、「絶対とは申しかねます。しかし、勝てる算のあることだけは申し上げられます」と返答している。

 さらに、永野軍令部総長は戦後こう回顧したという。「当時の日本は瀕死の重症患者で、これを救う道は思い切った切開手術をほどこす以外にない。このまま放っておけば死は確実だが、手術すれば助かるかもしれぬ。開戦直後の戦には相当の自信がある。長期戦はどうなるか分からぬ。南方資源地域を占領し、鉄でも油でもどしどし持って来ることができれば、長期戦にたえる見込みがつく。一か八かやってみる以外に国を救う道がない」。つまり、戦争は南方の資源地域の占領を前提にした“バクチ”だったということだ。

■「対英米戦争を辞せざる決意の下に、戦争準備を完整す」

 1941年10月、近衛文麿首相の第3次内閣が総辞職。「軍を押さえられる」という理由から、後任に東条英機陸軍大将(陸相)が決まったとき、昭和天皇はこう言ったといわれる。

「いわゆる虎穴に入らずんば虎子を得ずということだね」

 1941年4月に始まった日米交渉で、日本は「アメリカ政府の斡旋による『支那事変』の解決」などを主張したが、アメリカは日本軍の中国大陸からの撤兵などを要求して難航。7月に日本軍が南部仏印(当時)に進駐すると、アメリカは態度を硬化させて対日石油輸出全面禁止に踏み切った。これが日米開戦を不可避にした。8月30日、陸海軍合意による「帝国国策遂行要領」がまとまる。「対英米戦争を辞せざる決意の下に、おおむね10月下旬を目途に戦争準備を完整す」。大きく戦争に傾いた方針だった。

■「支那の奥地が広いと申すなら、太平洋はもっと広いではないか!」

 9月5日、昭和天皇に報告した杉山元・陸軍参謀総長は、のちに有名になる会話を交わす。天皇に「日米に事起こらば、陸軍としてはどれくらいの期間に片付ける確信があるか」と聞かれた杉山は「南洋方面だけは3カ月で片付けるつもりであります」と答える。昭和天皇の追及は厳しい。「なんじは支那事変当時の陸相であるが、当時『事変は1カ月くらいで片付く』と申したことを記憶している。しかるに、4カ年の長きにわたっていまだに片付かぬではないか」。

 参謀総長が「支那は奥地が開けていて、予定通り作戦できませんでした」と弁解すると、天皇は声を張り上げて「支那の奥地が広いと申すなら、太平洋はもっと広いではないか!」と叱責した。

 近衛文麿首相は中国での日本軍の限定駐兵を日米交渉で持ち出そうと、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とのトップ会談を模索したが拒否され、東条英機陸相の強硬な反対にも遭って内閣総辞職。首相となった東条は天皇の平和意思を受けて一時は戦争回避を模索するが頓挫した。

「それには二つの障害があった。一つは参謀本部作戦課を中核とする強い戦争志向であり、もう一つはハル国務長官に代表されるアメリカ政府の非妥協的な原則主義的立場であった」と五百旗頭真「日本の近代6戦争・占領・講和」は指摘する。

■強硬姿勢を示した「ハル・ノート」と、開戦に踏み切った4つの理由

 11月1日、大本営政府連絡会議で「対英米蘭戦争を決意する」とした新たな帝国国策遂行要領を決定。日米交渉の期限を12月1日午前0時とした。この会議で東郷茂徳外相は「これ以上の武力進出は行わない」として南部仏印進駐以前の段階に戻す「乙案」を対米交渉の最終案として持ち出して認められた。

 これに対し、アメリカのコーデル・ハル国務長官は11月26日、「仏印及び支那からの全面撤退」などを内容とする「ハル・ノート」を提示した。内容は日本の要求に対する「ゼロ回答」。軍部は「満州事変以前の状態に戻せという主張」と強く反発し、開戦への流れが決定した。東条首相は11月29日の重臣との懇談会で、石油などの資源・原料不足の危惧から開戦に否定的な意見を述べた若槻礼次郎ら元首相3人に「心配ない」を繰り返した。

「帝国は対米交渉に就いては、譲歩に次ぐ譲歩をもってし、平和維持を希望した次第でありますが、意外にも米の態度は徹頭徹尾、蒋介石の言わんとするところを言い、従来高調した理想論を述べているのでありまして、その態度は唯我独尊、頑迷不霊でありまして、はなはだ遺憾とするところであります。かくのごとき態度は、わが国としては、どうしても忍ぶべからざるところであります。もしこれをしも忍ぶといたしましたら、日清、日露の成果をも一擲するばかりでなく、満州事変の結果をも放棄しなければならぬこととなり、これは何としても忍ぶべからざるところであります」

 これは対米英開戦を決定した12月1日の御前会議で、原嘉道・枢密院議長が表明した意見。11月26日にハル国務長官が強硬な内容の「ハル・ノート」を提示したのを受けてのことだったが、「当時としてもっとも簡にして要を得た対米英開戦の『大義名分』のロジックであった」(黒羽清隆「太平洋戦争の歴史」。

 木坂順一郎「昭和の歴史 7 太平洋戦争」は、開戦に踏み切った理由を

(1)日本が中国から撤兵すれば、満州事変と日中戦争の成果が全てふいになり、「満州国」も朝鮮統治も危うくなるばかりでなく、多くの犠牲を強いられてきた国民に申し訳ない
(2)戦争回避に政策を転換すれば、国民の不満が爆発して、内乱や暴動が起こるかもしれないと危惧した
(3)合理的・科学的な判断を欠いた冒険主義的心情に基づき、恐るべき故意の楽観がまかり通った

 としている。要するに「座して死を待つより、一か八か打って出るべきだ。戦争によって死中に活を求めるべきだというのである」(同書)。

■戦争終結構想は実現性のない「取らぬタヌキの皮算用」

 一方で、戦争をどのように終結させるかについては、陸軍省軍務課が中心になって研究した結果を基に、開戦わずか1カ月前の1941年11月15日の政府大本営連絡会議で「戦争終結構想」の「腹案」として決定された。それはおおよそ次のような内容だった。

(1)フィリピン、マレー、シンガポールなどのアメリカ、イギリス、オランダの根拠地を覆滅し、重要資源地域を確保して自給自足態勢を整え、適時にアメリカ海軍主力を撃滅する
(2)イギリスを屈服させるため、オーストラリア、インドとイギリスの連絡を遮断してインドの独立を目指す
(3)アメリカの継戦意識を喪失させるため、フィリピンを占領して取引材料としてアメリカを懐柔し、対米通商破壊戦を徹底。アメリカとオーストラリアの離隔を図る

(4)戦争終結の機会として、南方主要作戦の一段落、中国の蒋介石政権の屈服時、ヨーロッパの戦局の変化の好機をうかがい、外交宣伝を強化する

 対アメリカの戦争に勝算が立たないため、長期持久戦を戦い抜いてアメリカの戦意を喪失させることに主眼があった。しかし、蒋介石政権相手でさえ苦戦を続けているのに、ドイツに対イギリス戦勝利を期待するなど、構想は実現性の疑わしい「取らぬタヌキの皮算用」だったといえる。

■開戦への動きを知っていた人間はほんの一握り

 そして遂に開戦。幕開けとなった戦いは、厳密には真珠湾攻撃でなく、それより約1時間早いマレー半島東岸コタバルへの上陸だった。

 12月9日付の東京朝日朝刊は「米英膺懲 世紀の決戦」の見出しでこう「自衛戦争」を強調している。「隠忍自重ひたすらに太平洋の平和を念じていた帝国の努力も遂に空しく、八日未明、日米英間に砲煙が上がった。きょうぞわが無敵陸海軍の精鋭が、光輝ある歴史の行く手に立ちはだかる暴虐米英打倒のために堂々の猛進撃を開始したのだ」。開戦への動きを知っていた人間はほんの一握りだった。

 権力の中枢にいた人々の当日の行動は本編にある通り。筆者の星野直樹は、 「満洲皇帝擁立事件」の解説 でも取り上げた、「満州」で力を振るった「二キ三スケ」の1人で「満州国」総務長官を務めた。この時は内閣書記官長の要職にあり、戦後の東京裁判でA級戦犯として終身禁固刑に。1958年に釈放され、会社社長などを歴任。1978年まで生きた。

■「日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」

 一方、いまに残る国民の「十二月八日」の反応としてほぼ共通しているのは、「白樺派」の作家長与善郎の次のような感想だ。

「生きているうちに、まだこんなうれしい、こんな痛快な、こんなめでたい日にあえるとは思わなかった。この数カ月と言わず、この1、2年と言わず、われらの頭上に暗雲のごとく覆いかぶさっていた重苦しい憂鬱は、12月8日の大詔渙発とともに雲散霧消した」

 ほかにも同様の感想は数多い。

「私はもう新聞など読みたくなかった。今朝来たばかりの新聞だけれど、もう古臭くて読む気がしないのだ。われわれの住む世界は、それほどまでに新しい世界へ急展開したことを、私ははっきりと感じた」と書いたのは作家の上林暁。作家で評論家の伊藤整は「人々があまり明るく当たり前なので、変に思われる」「バスの客、少し皆黙りがちなるも、誰一人戦争のことを言わず」「『いよいよ始まりましたね』と言いたくてむずむずするが、自分だけ昂ふんしているような気がして黙っている」と書いている。

 詩人高村光太郎は、霊的な感動を味わい、高揚した気分で次のような詩を詠んだ。

記憶せよ、十二月八日。
この日世界の歴史あらたまる。
アングロサクソンの主権、
この日東亜の陸と海とに否定さる。
否定するものは彼等のジャパン。
眇(びょう)たる東海の国にして
また神の国なる日本なり。
そを治(しろ)しめしたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。

 作家・太宰治さえも、ラジオで開戦のニュースを聞いた後のことを「しめきった雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞こえた。二度、朗々と繰り返した。それを、じっと聞いているうちに、私の人間は変わってしまった。強い光線を受けて、からだが透明になるような感じ。あるいは、精霊の息吹きを受けて、つめたい花びらをいちまい胸の中に宿したような気持ち。日本も、けさから、ちがう日本になったのだ」と書いている。

 その中でも普段と変わらず無関心だったのは“変人”の永井荷風くらいだろう。「日米開戦の新聞号外出づ。帰途銀座食堂にて食事中、灯火管制となり、街頭商店の灯り、おいおい消えゆきしが、電車、自動車は灯を消さず。六本木行きの電車に乗るに、乗客押し合うが中に、金切り声を張り上げて演説をなす愛国者あり」。荷風以外の人たちのそうした心情はどこから来たものだったのか?

■日米開戦の契機は「日中戦争の構造そのもの」

 一般に言われてきたのは、「満州事変」(1931年)から既に10年が経過。日中全面戦争に移って(1937年)から「東亜新秩序建設」という抽象的なスローガンを加えたものの、依然として目的がはっきりしない戦争だったことだ。日本軍は広大な中国大陸の「点」しか制圧できず、中国軍との戦いは泥沼化。国民の生活にもさまざまな制約が加わっていた。「国民精神総動員」、国家総動員法、国民徴用令、物資の配給統制、「ぜいたくは敵だ」のスローガン、隣組制度……。想像以上に頑強な抵抗を続ける中国軍の背後にアメリカとイギリスがいることは、日本国民のほとんどが知っていた。

「太平洋戦争の歴史」は「日米開戦をもたらした決定的な契機の一つは、日中戦争の構造そのもののうちに存在していた」と分析している。それでも「紀元2600年」の1940年、文藝春秋が12月号に掲載した世論調査では、「日米戦は避けられると思うか」という問いに「避けられる」が412人(60%)で、「避けられない」262人(38%)を大きく上回った。当時の人々もまだ「アメリカと戦う」ことが想像できなかった。

 その根底に「勝てるわけがない」という不安があったのは間違いないだろう。その不安が消えたのは、緒戦のハワイ真珠湾攻撃とマレー半島電撃戦で日本軍が「赫々=かっかく=たる(華々しい)戦果」(当時の慣用句)を挙げたのを「大本営発表」で知ってからだった。

■「結果はどうあれ、これで決着がつく」という世論も

 この間、国民の多くは一向にらちがあかない日米交渉にいらだちを隠せなかった。それが開戦となって、「いよいよ真の敵との勝負。結果はどうあれ、これで決着がつく」という気持ちになったのかもしれない。さらに、そこには日米の歴史的な関係も絡んでいた。

 開戦から8日後の1941年12月16日付から3回続きで東京朝日朝刊4面に「米・英撃滅、最初の誓」という署名記事が掲載された。筆者は当時、国学院大教授で統制機関「大日本言論報国会」理事の歴史学者・秋山謙蔵。「今から八十八年前、紀元二千五百十三年、日本に対する『遠征』を敢行し、もって不平等極まる条約を『和親』の名において与え、イギリスの獲得していた上海貿易に介入せんとしたアメリカは、いまや八十八年の野望を微塵に破砕されたのである。その最初の日がまさにわれらの光栄ある日―紀元二千六百一年十二月八日である」。1回目の「わが歴史の確認」ではそううたい上げている。

■ペリー来航を「不本意な開国と条約締結」と認識

 秋山は琉球貿易史研究の草分けだったが、戦時中は軍国主義の時流に乗ってジャーナリズムの売れっ子に。2回目の「隠忍まさに百年」で、10年前の1932年12月8日(とすると、本当は9年前だが)に「日本が国際連盟総会で「日本民族の進むべき道を断固として全世界に表明した日である」と記述。松岡(洋右)全権が「日本は東亜を救うために腕一本で闘っているのだ」と叫んだとしている。しかし、実際に松岡が連盟脱退を表明したのは翌1933年2月24日。その前にそうしたことがあったのだろうか。

 3回目の「無限の躍進へ」では「過ぐる五十年、アメリカの東亜進出の拠点であったハワイ、フィリピンその他、全てわれらの日章旗の下に制圧された」とするなど、緒戦の勝利に気分が高揚したまま書いた印象。興味深いのは、「88年」を恨みや怨念を持ち続けた期間としている点だ。マシュー・ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が1853年に浦賀に来航して通商などを迫ったのを、軍事的圧力による砲艦外交と捉え、日本にとっては脅迫されて応じた不本意な開国と条約締結だったという認識だ。

■「88年の怨念」を晴らすために開戦した

 清沢洌は「暗黒日記」の中で、秋山のことを「右翼歴史家」「盛んに元寇の役と神風を説いている」などと何回か記述。1945年4月6日の項では、「大東亜戦争を導いた民間学者の中で最たるものが二人ある。徳富蘇峰と秋山謙蔵だ。この二人が在野戦争責任者だ」と名指ししている。

 そこで取り上げているのは、4月4日付読売に掲載された秋山の文章。幕末の下関戦争と薩英戦争について「ペルリ(ペリー)の意図、すなわちアメリカの意志が薩英戦争となり、馬関砲撃から今日の大東亜戦争にまで一貫する敵米の決意なのだ」と主張。「この八十余年というものは、日本が米英と対等の立場にあって戦える、すなわち東亜保衛の実力を蓄積するための歳月であった」「大東亜戦争は必然の運命であったのだ」と、敗戦4カ月前に至っても、「八十余年」を繰り返している。

 そうした認識は秋山だけではなく、ある程度、当時の人々の間に共有されていたようだ。開戦直後にはほかにも文化人やジャーナリストの何人かが「88年」という言葉を使っている。

■国家意識の重要性と精神主義の勝利をうたった映画も

「八十八年目の太陽」という作品は、「浅草オペラ」以来の劇作家・高田保の戯曲が原作で、開戦の1年前の1940年12月、新国劇が上演。東宝で映画化もされ、開戦直前の1941年11月15日に公開された。

 沢村勉脚色、滝沢英輔監督で、出演は、当時の東宝のトップスター大日向伝と、この「昭和の35大事件」の 「反トーキーストライキ」 にも登場した元活動弁士の徳川夢声らだった。ペリーが来航した神奈川県・浦賀を舞台に、浦賀ドックの工員が増産活動を通じて人間的に成長していくストーリー。最近、横須賀市の市民グループが上映活動を続けている。筆者は未見だが、映画版は工員の父親を重要な役割で登場させ、工場全体が短期間の強行作業の結果、軍艦と商船の艤装、進水に成功。作業を通して国家意識の重要性と精神主義の勝利をうたっているという。

 古川隆久「戦時下の日本映画」は「軍艦建造を題材とし、『時局の重大性とこれに処する従業員の心構えとを教える点』を評価されて文部省推薦となった国策映画であるが、やはり興行的には惨敗した」と書いている。原作の時点では対米戦争はまだ現実的ではなかったが、映画化の時点では多分に意識していたと思われる。

 そうした人たちばかりではなく、多くの日本人にとって太平洋戦争開戦は、アメリカから長年加えられた重圧をはねのけ、恨みを晴らす一撃だったことになる。しかし、戦争は日本の敗戦に終わり、その意識も手ひどいしっぺ返しを食らう。1945年9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で、日本のポツダム宣言受諾・無条件降伏の調印式が行われた。

■連合軍側の戦勝は「文明の勝利」とマッカーサー

「勝者」の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥はあるものを本国から取り寄せていた。それは92年前のペリー来航時、旗艦に掲げられていた星条旗。それを額に入れたまま艦上に飾ったという。それはこういう意味だろう。「92年前、アメリカは日本に近代化の道を開いてやった。ところが、日本はその恩を忘れてアメリカに歯向かい、こんな結果を招いた。いまあらためて文明の恩恵を与えてやろう」。その通り、この時のマッカーサーの演説は、連合軍側の戦勝を「文明の勝利」とうたった内容だった。

 それから74年。1941年からだと78年になる。アメリカ文化と風俗は日本人の血肉となり、大多数の日本人はアメリカとアメリカ人が好きだ。一方で、政治、経済、軍事などでの対米従属、対米追随は依然続いている。もう一度考えるべき問題だろう。

本編 「太平洋戦争開戦す」 を読む

【参考文献】
▽有馬学「日本の歴史23帝国の昭和」 講談社 2002年
▽黒羽清隆「太平洋戦争の歴史」 講談社現代新書 1985年
▽五百旗頭真「日本の近代6戦争・占領・講和」 中央公論新社 2001年
▽木坂順一郎「昭和の歴史 7 太平洋戦争」 小学館 1982年
▽朝日ジャーナル編「昭和史の瞬間 下」 朝日選書 1974年
▽ドナルド・キーン「日本人の戦争」(角地幸男訳) 文藝春秋 2009年
▽清沢洌「暗黒日記」 東洋経済新報社 1954年
▽古川隆久「戦時下の日本映画」 吉川弘文館 2003年
▽「決定版昭和史10太平洋戦争開戦」 毎日新聞社 1983年

(小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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