10万両の借金を8年で返済 備中松山城を支えた2人の“改革者”とは?

10万両の借金を8年で返済 備中松山城を支えた2人の“改革者”とは?

二の丸から見た備中松山城。奥が現存する天守。

 備中松山城の最大の魅力は、中世の城と近世の城の姿が共存することです。中城のある標高約480メートルの臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、前山の四つの峰からなります。鎌倉時代に大松山に築かれた砦が備中松山城のはじまりで、戦国時代には全山が一大要塞化され、関ヶ原合戦後に小松山だけが改造されて、石垣や天守のある現在の姿になりました。中世の城から近世の城へとリフォームされた、新旧ブレンドの城なのです。

■「備中兵乱」で落城も経験

 数々の転機を迎えながら廃城にならず存続したのは、重要な場所にあるから。江戸時代になると山麓に御根小屋が築かれて政庁としての機能は移りましたが、それでも山上の城が維持され続けたのは、山城そのものが特別な存在だったからかもしれません。

 戦国時代の天正3年(1575)には、「備中兵乱」と呼ばれる愛憎入り混じる大乱の舞台になり、落城も経験しました。慶長9年(1604)に城主となった小堀遠州がつくった庭園のある頼久寺に、毛利・宇喜多連合軍に敗れて自刃した三村元親のお墓があります。

 城塞化された寺町が残る城下町も備中松山城の見どころのひとつですが、この道筋も備中兵乱のときの敵の進軍路を意識してつくられているのだとか。備中兵乱を知ると、備中松山城歩きはより深く楽しく感じられるはずです。

■城主よりも有名な「山田方谷」とは?

 備中松山城へは数えきれないほど訪れているのですが、何度か訪れるうち、「山田方谷」なる歴史上の人物が地元で誰よりも慕われていると気づきました。なんと、2019年10月には、大河ドラマ化を目指す署名が103万人を突破した人気ぶり。地元では呼び捨てではなく「方谷先生」と呼ばれるほど尊敬され、JR伯備線には方谷駅もあります。かの有名な、長岡藩の河井継之助も師事したほどです。

 備中松山城の最寄り駅である備中高梁駅前に建つのも、方谷の銅像です。戦国時代に備中兵乱で落城した際の城主・三村正親でもなく、備中国奉行として城と城下町を整備した小堀遠州(政一)でもなく、現存する天守や石垣を築いた水谷勝宗でもありません。

■10万両に膨れた藩の借金を8年で返済!

 方谷は幕末の陽明学者で、逼迫した備中松山藩の財政再建と藩政改革を成功させた人物です。10万両に膨れた藩の借金を8年で返済し、さらに10万両の蓄財を成し遂げたのですから、まさに伝説の改革者。幕末の備中松山藩は、公称5万石でありながら実際には2万石と、現代でいうなら粉飾決算を繰り返した末の破産状態でした。その状況を巻き返したのが、方谷というわけです。

 良質な砂鉄が採れる地域特性を生かし、鉄工場を設立。輸送船を使って江戸で鉄釘などの鉄製品を直売し、藩の専売事業にして利益を上げました。藩を挙げての大倹約令を断行しつつ、一方で農民の保護策を徹底。新田開発や殖産により財政が豊かになると、税を軽減して生産意欲を刺激させるという庶民ファーストな計らいもしています。

 本誌で紹介した「柚餅子」も、方谷に関係する高梁名物です。方谷は、城下の家々に柚子の木を植えることを奨励。採れた柚子を使って柚餅子を大量に製造し、江戸、大坂に販売したのです。

■藩の財政に潤いを与えた名君・水谷勝隆

 方谷のほか、私がもっとも推したい備中松山城ゆかりの人物は、寛永19年(1642)に城主となった水谷勝隆です。備中松山藩の発展はこの人の功績にあると言っていいでしょう。勝隆が目をつけたのが、備中松山藩の飛び地だった高梁川河口付近の玉島(倉敷市)。広大な干潟だった玉島新田を本格的に開発したことで、繁栄に成功しました。

 高梁川と瀬戸内海を結ぶ、高瀬舟の整備を行ったのも勝隆です。備中松山城の麓を流れる高梁川は古くから流通を支えてきましたが、高瀬舟の整備により、さらに瀬戸内海と備中の内陸部の交通が円滑になりました。鉱山業を振興し、近隣の阿哲(新見市阿哲地区)や成羽(高梁市成羽)の鉄、吹屋(同)の銅などを高瀬舟で流通させたのです。玉島を瀬戸内海の玄関口として、鉱物のほか、和紙や漆、煙草などの物産が運ばれました。

 なかでも、煙草は江戸で大ヒットしたようです。松山往来や新見往来など陸路もありましたが、大量輸送には舟運のほうが効率がよく、高瀬舟は大活躍して藩に潤いをもたらしました。

 備中松山城に、現存する天守や累々と残る壮大な石垣を築いたのは、勝隆の子の勝宗です。勝宗がこれほどの城の大改修をできたのは、藩の財政が潤っていたからでしょう。水谷時代の石高は5万石でしたが、実際には10万石以上だったともいわれます。

 備中松山城の石垣の積み方を見ると、先進先鋭な織田・豊臣系の城の技術ではなく、1680年代に築造されたわりには洗練された石垣とはいえません。政権の流れを汲まず、地元の職人が技術を駆使して積み上げたのでしょう。やはり、それだけの人を動かす経済力が当時の藩にあったのだと思われます。社会背景も読み解ける、野趣に富んだオリジナリティ溢れる備中松山城の石垣が、私は大好きです。

撮影=萩原さちこ

※備中松山城をめぐる旅の模様は、 「文藝春秋」12月号 のカラー連載「一城一食」にて、計5ページにわたって掲載しています。

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(萩原 さちこ/文藝春秋 2019年12月号)

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