女学生の同性心中からはじまった猟奇の「三原山ブーム」とは――沸き起こる“自殺熱”を盛り上げた報道

女学生の同性心中からはじまった猟奇の「三原山ブーム」とは――沸き起こる“自殺熱”を盛り上げた報道

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世界的話題となった猟奇とスリルの三原山ブームも、最初は女学生の同性心中からだった。筆者は当時の朝日新聞記者。
初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「三原山投身繁昌記」( 解説 を読む)

 大島の元村通信部から、こういう電報が社会部デスクへとびこんできた。

(大島元村特電)12日朝元村に入港した東京湾汽船菊丸から上陸した女学生風の美人2人は、すぐその足で白煙上る三原山への登山路をたどって行ったが、12日昼頃になってその内の1人の女学生は、突如噴火口に飛び込み自殺を遂げた、同行の女学生風の娘は警戒中の人々に助けられ、目下同村で保護中である。飛び込み自殺した女学生は本郷区駒込千駄木町、常盤松高女専門部松本貴代子(21)と見られる。

■「女学生、噴火口、しかも2人、こりゃすごい!」

 私は当時、社会部のデスク補助をやり、その夜――昭和8年2月13日、夜勤で出社したばかりだったが、給仕が抛りなげていったこの電文に目を通しているうち、思わず立ち上った。「女学生、噴火口、しかも2人、こりゃすごい!」私はデスクと相談してすぐウナ電を打ち返した。その頃はまだ電話が通じていなかった。「保護中のもう1人の女学生の身許並に事件の詳報送れ」――この打電と同時に、常盤松高女を管内にもつ渋谷署担当の金子喜蔵君(現在東朝調査研究室員)に調査を頼んだ。

 金子君は、「常盤松高女には専門部はないはずだが」疑問をもちながら金子君はすぐ常盤松高女に飛び、学生名簿をくったが該当者が見つからぬ。その足で駒込千駄木町へ――交番を調べ、駒込署の索引をくってみたがここにも該当なし。あの広い千駄木町を、そば屋から酒屋から八百屋から「松本」をさがし回って、やっと14番地に東片町79から引越してきたばかりの、ささやかな骨董屋松本市太郎さんをさがしあてた。白髯、69才の市太郎さんは「たった今さき、元村署から娘が死んだ、という電報をうけとりましたが、何で死んだのか、わしにはさっぱり分かりませんで」

■自宅に書き残されていた絶筆

 と首をかしげていた。しかし仏前には、愛娘の写真が飾られ、彼女が書き残していった短冊――

よそほはむ心もいまは朝かすみ、むかふかひなしたがためにかは

 その流麗の筆の跡には香煙が静かに立ち昇っていた。金子君はここで一切を取材した。小石川の淑徳高女を卒業して、実践高女専門部国文科2年に在学していること――道理で常盤松高女には該当者がないわけである。6年前母を失い、昨年は結婚していた姉が死んだ。この姉とは気が合っていただけに、とてもがっかりしていた。去る11日は紀元節の式から帰って、友達の処へ行くといって出ていったが、何となく気がかりになったので――「親に心配をかけないでくれよ」といったら、ウフフと笑いながら――「雲のよらなもんだわ」といっていた。

 雲のようなもの――今でもそれを考えているが、さっぱり分りませんナ、という老父の述懐。この述懐を聞きながら、金子君はじりじりしていた。市内版の締切時間が迫っているからである。もう1つの獲物――喜代子の写真と彼女の絶筆、これを借りうけるため、彼は仏前にうやうやしく一礼した。この一礼は老父の心を打ったらしい。彼は写真と短冊を手に、凍てつくような街頭にでると、すぐタクシーをひろった。

 元村からの後報はまだきていなかった。保護されたもう1人の女学生を追うて、彼は実践女学校へとんだ。宿直の先生はもうねていたが、事情をきくと池田みよ教諭がとびおきてきた。

■「姉は松本さんと三原山に登ったはずですが、何か……」

「松本貴代子さんと一緒に、きょう(13日月曜日)欠席している学生がおるはずですが一寸お調べねがいたいと思いまして」金子君の急所をついたこの質問に対し、池田教諭はわざわざ出席簿を調べてくれた。いた! 富田昌子(21)である。同居先は渋谷区中通り3-19佐藤方。そのまますっとんで佐藤方を叩き起すと、昌子の妹で、同じ実践高女に学ぶ弘子さん(19)がガタガタ震えながら起きてきた。

「姉は松本さんと三原山に登ったはずですが、何か……」

 これで確証は上った。一刻も早く電話へ、心せく彼ではあったが、玄関先にヘタヘタに坐りこんでベソをかきだした彼女の、姉を思う心を考えると、記者ダマシイばかりでもおられなかった。元村特電を話してきかせ、昌子さんは警察に保護されているから絶対大丈夫夜があけたら姉さんを引取りに行きなさい――と元気をつけると、彼女のベソも漸く消えた。それを見とどけて電話ボックスにとびこんだのだが、全くの市内版ギリギリの追いこみだった。

 三原山噴火口で 女学生同性心中 実践女学校専門部の二生徒 一名は危く救助

 翌日の朝日の社会面は、写真入りのこの特種で飾られた。――後に世界的話題となった三原山事件はこうして発足したのである。

 14日になると、貴代子の実兄謙二氏(32)実践高女から池田みよ、須田千恵子両教諭につれられた弘子さんらが元村に着き、昌子さんはその夕刻東京に引きとられていった。元村通信部からは、噴火口における2人の生と死の模様も送られてきた。

■2人が約束していた「死の立会」

 貴代子をめぐる親友グループは4、5人いた。その1人、渋谷区幡ケ谷本町1-60松岡福子(21)――紀元節の式から帰宅した貴代子は、父にナゾの一語を残して同女を訪れた。前々から貴代子が――「自分の気にいった歌が一つできたら、いつ死んでもいいわ」と万葉集を讃美したり、突然「これ上げるわ」とつけている素晴らしい半エリをむしりとって、グループの誰かれに贈ったり、昨年10月末学友二十数名と三原山に登ったときの感激を歌に書いては――「三原山の煙をみたら私の位牌と思って下さい」と熱にうかされたような三原山嘆美の言葉をはいたり、考えると気になることが多かった。

 というのも母のいない淋しさがそうさせるのだろうと、福子の母ちかさんは、母代りになって彼女を慰め、この日も――「今度の日曜には切符を買っておくから、2人で新橋演舞場を見にいらっしゃい」と散歩に出てゆく2人に約束した位だった。2人は貴代子の実兄が経営する東片町のかねまん食堂を訪れ、その帰り本郷通りをブラついて神田松住町で別れたが、2人そろって実兄宅を訪れたことは、貴代子にとって、彼女が最後の念願としているものを果したいためだったらしい。

 貴代子はその足で富田昌子を訪れた。2人の間には、かねて約束ができていた。三原山を自らの墓場としたい貴代子のため、彼女の死の立会人たることを昌子は承諾しており、貴代子の青春を焼いたその白煙が、位牌として立ち昇るのを彼女は見届けることになっていたのである。その夜、2人は霊岸島発、翌12日元村着、すぐ山道をたどった。その山道にはツバキが咲きこぼれていた。頂上に着いた時には陽春のように熱した太陽が光っていた。火口壁は轟々たる鳴動とともに、むせるような白煙を噴きあげていた。その火口壁に立った時、今まで高笑いさえあげていた貴代子の表情が青白く引きつった。

■貴代子は泳ぐように火口へ消えていった

 道々――「行きづまったわ、駄目、駄目!」とやんちゃ娘のように身を震わせるので――「何をいうの、お互いにこれからじゃないの、生きてこそ人生だわ」と昌子が叱るようにいうと――「この歌――ねえ、知ってるでしょう。花の色はうつりにけりないたずらに、我身世にふるながめせしまに、これどう思う。小野小町が乞食のようにうらぶれて、88まで生きた、その生き恥の歌よ、女として醜態の極みと思わない?」――いつの間にか頂上へきていたが、まさか、という昌子の油断もあった。それに生地獄の鳴動にすくんで昌子の足は1歩1歩退っていた。

 だが、一瞬、貴代子の血の引いた表情をみた時――「いけない、貴代子さん、いけない!」と叫びながら袖にすがったが、もう遅かった。彼女は懐中していた封筒を抛りなげると――「クラスの皆さんによろしく」の一語を残して、泳ぐように火口へ消えていった。御神火番人の雨宮甚松(24)が、後で語ったところによると、2人のもつれを遠くからみているうち、1人は紫の着物をフワーッと浮かしながらとびこんでいったが、それが陽光に映えて、まるでセミがとんでいるようだったという。昌子は、まもなくかけつけたこの雨宮に保護されたのである。

 貴代子が火口に残した封筒には松岡福子とその母ちかさん宛の2通の遺書があった。福子宛には――「あの色好みの業平も遂に、思うこといはでぞただに病みぬべき、われに親しき人しなければ、と感じました。紫室寺端風」とあった。紫室寺とは万葉好みの彼女のペンネームだった。ちかさん宛には――「私のもっとも嫌っている私といふ人間を殺して了います、それが他方の私の最善だと思われてなりません」とあった。ともに身をなげた2月12日付だった。

 昌子はいく度か死を思い止まらせようと諫言したろうが、結果としては「死の立会人」となってしまった。新聞で「女学生の猟奇自殺」と騒がれ、批判がきびしくなると、実践高女では、下田歌子校長を中心に善後策が講じられ、昌子は帰京するなり郷里の埼玉県忍町に身をかくした。丁度その日、読売新聞は――「学友の噴火口投身を二度も道案内、三原山に死を誘ふ女」として昌子の奇怪な行動を報じた。

■自殺の立会いは貴代子が2度目だった――

 昌子の1級上に真許三枝子(24)というのがいた。本所区太平町4-7、運送業杵次郎さんの三女だが、この女学生が、貴代子事件の約1ヵ月、1月7日の夕刻友達の処へゆくといったまま帰ってこない。学校からは長期欠席を問い合せてくるし、不審に思って家人が彼女の部屋を調べてみると――「自活のため家出するが心配しないで下さい」という遺書がでてきた。同家ではそれを信用していずれ帰ってくるものと考えていたが、元村署で昌子を調べているうち、意外にも、この三枝子も彼女が死の案内をしたことを自供した。

 それによると、かねて三枝子の病身に同情しているうち、三枝子は「三原山で死にたい。だが1人では怪しまれるから、一緒にきて頂戴」といわれるまま、去る1月8日元村につき、三原山に登った。火口にきた時――「あなたがいてはとびこめないから下りて頂戴」といわれ、昌子は気になりながらも山を下りたが、その時――「このことは5年間誰にもいわない」という固い2人の誓いだったという。元村署ではその後三枝子について調べたが、昌子のいう通り投身したものとみている。5年間の秘密は、貴代子の三原山讃美によって破られた。貴代子が校庭での語らいで――「天国にゆく日が近づいたわ」と死をうちあけた時、昌子はうっかり三枝子との誓いを破った。貴代子は――「ね、お願い、私とも一緒に三原山に登って頂戴、でないと……」暗に三枝子との秘密約束を皆に話しちまうわ、と匂わせた。

■昌子が三枝子の母に送った手紙

 昌子はさすがに2度目の自分の行為に心の震えるのを禁じ得なかったろう。貴代子と大島に向う前夜、三枝子の母静子宛にこういう手紙を書きおくった。

 三枝子様には休学との御事、私心配でなりません。3年生の方々やクラスの皆様に御住所を聞かれましても、私存じませぬ故に申し上げられませぬので、小母様お手数ですけれど御知らせ下さいませ。お伺いさせて頂こうか知らとも考えておりますれど、もし失礼にでもなりましてはと御遠慮申しておるのでございます。

 第2の罪を犯そうとするものが、第1の罪を偽装した手紙である。尤も罪ではあるまい、自殺幇助とはほど遠い、女学生の小さい感傷に過ぎなかったろうが、この感傷が行為をともなって重なった時、世間はこれを許さなかった。親友2人までも死に誘った女として、彼女の非常識な異常神経を極めつけた。

 今度は昌子の番である。

 あれ以来、忍町の自宅に引きこもり、2人の冥福を祈っていた昌子は、4月29日朝10時急死した。ずっと風邪気味だったらしいが、医師の診断書は脳底脳膜炎とあった。枕頭には2人の写真を飾り、香煙が立ち昇っていたという。5月2日葬儀が営まれたが、実践高女から親友3人が参列した。これで3人の登場女学生は相ついで世を去ったわけである。翌3日行われた実践高女の春の旅行、東京湾一周の船旅では、全校生が貴代子らの位牌――三原山の白煙を望んで黙祷をささげたといわれる。

 生前、貴代子が念願していたもの――それは兄謙二と親友福子が結ばれることだったが事件が収まって間もなく福子は松本家の人となった。位牌と兄嫁――貴代子の遺志は2つともかなえられたのである。

■死のう団が三原山に次々とおしかけた

 三原山が万葉集的耽美の墓場となってから天下の死のう団がおしかけてきた。そのトップが――

(その1)貴代子事件から10日目、三原山で自殺の恐れありと元村署に保護されていた岩本富正(25)という神奈川県の男が、身柄引取りにきた実兄と義兄を、折角きたんだから火口を見物しようと誘い、2人の兄が火口をのぞきながらたまげているスキに、蛙のようにとびこんでしまった。

(その2)4、5人の見物客に交っていた一青年、火口から5、6間はなれた時、忘れものでもしたように急に回れ右をし、オーバーと上衣をぬぎすてると、火口めがけて走幅跳、一同がオヤッとふりかえった時には、助走で勢いをつけた彼の身体は宙に浮いていた。上衣の中に明治製菓雇員大森義衛(26)の辞令があった。

(その3)御神火茶屋の写真屋が一青年の挙動を怪しみ追うと――「これ以上おれを苦しめるナ」といって上衣をなげつけ「その洋服でおれの身許は分るはずだ」と言い残して見事ジャンプ。だが身許は分らずじまい。

(その4)昭和8年5月7日の日曜は朝から大賑いだったが、飛びこみ患者も6名という新記録。その4番目にジャンプしたのがロイドめがねの青年、その青年が火口に呑まれると、その場に立ちつくして一心に頭を下げている青年があった。危ないとみて元村署員が保護したが、これが死の立会人男性NO.1、大阪の木箱商岡田茂(28)といい、親と衡突して上京の汽車中で、京都の自動車業山田常太郎(28)と知り合った。山田から三原山で投身するから立会ってくれといわれ承諾、約束通り山田の死を見届けていたもの。

 こうして三原山での自殺熱は毎日上昇、平日で霊岸島を出る船には150人余、日曜日はこれが1500余名にはね上る。元村署は上野署長以下たった4人しか警官がおらず、毎日毎夜保護されてくる自殺病患者で署内は小使室まで超満員、中には――「火口への投身相かなわずイカン千万、やむなく署内で服毒す」という厄介な重症患者も出るにおよんで上野署長はとうとう悲鳴をあげ、警視庁へ増員のSOSを発する始末。一方、御神火小屋の高木久太郎、雨宮甚松両君は朝から晩まで一刻も目がはなされず、怪しいと思って「もしもし!」と声をかけると「ふざけるナ」と食ってかかった上、ハデにとびこんでゆくタンカ型まで現われて、山上また処置なしの日もある。

■探険により明らかとなった凄惨な生地獄

 この三原山ブームに最初に目をつけたのが時事新報だった。多くの生霊を呑んだこの火口底を探険することになり、4月30日、同社の久保開作、秋田貞男両記者が防毒用酸素マスク、防熱用皮服に身をかため、一人ずつ針金入りナワ梯子を伝わって下降していった。一人は120尺まで下降したが、頭上から小石や熱砂が崩れ落ち、大変な苦しみだったらしい。両記者の見たところによると、火口壁は、地底まで切り立ち、何一つとして投身者の身につけたものは引っかかっていなかったという。

 それから1ヵ月後、今度は読売新聞社が周到な準備と大がかりの設備の下に大探険をやった。火口にクレーンをすえつけ、ゴンドラで下降することになり、岩田得三記者と真柄秋徳写真班がこれも別口に決死その任に当った。ゴンドラと地上とは電話で刻々に連絡し岩田記者は1250尺まで下降、その火口底で、16、7歳の小店員風の死体を発見したという。両社の探険によって、凄惨な生地獄の実相が伝えられ、三原山病患者の熱は冷めるものとみられていたが、死のう団にとってはむしろ魅力とさえなったらしい。三原山の声望いよいよ高まってゆく。

 そこへ奇蹟が起った。

■発見された2人の生存者

 それは昭和8年9月28日、御神火は漸く暮色に包まれていた。と、火口壁から1人の女が全身血まみれになって這いだしてきた。つづいてもう1人。その夜、かけつけた元村署員が島村病院に収容手当した結果、2人とも3週間程度の負傷ですんだ。2人は神奈川県健康診断の看護婦で三原松枝(23)中沢久子(21)といい、奇蹟の生還をこう語った――この日の午後3時頃抱き合って投身したところ、三丈位のところに突きでている岩磐にうけとめられ気絶したらしい。そのうちに急に寒さをおぼえて松枝が息をふき返した。見ると自分は岩磐に腰かけるような姿勢、すぐ足許から下は果てしない噴煙の絶壁、その底から赤い火が悪魔の舌のように立ち昇っていた。抱き合ってとびこんだ時は夢のようだったが、さて、自分が生き返ったとなると、この生地獄の恐しさで身体がガタガタ震えだした。そばで久子さんがねむったように横になっているのを、叩いたりさすったり、やっと息を吹き返させた。ともすればズルズルに崩れ落ちて、断崖と戦うこと3時間、やっと這い上ったというのである。

■3時間逆さ吊りから生還した少女

 つづいて第2の奇蹟。

 昭和10年1月27日、日曜の朝10時頃、すでに2人の投身者をだして、火口は人で埋まっていた時、17、8歳の少女がとびこんだ。二百尺下の岩磐にマリのように叩きつけられ、そのはずみで一転、岩磐下の裂目に、頭を下にたれ下った。火口からみると、丁度スベリ台で頭を先に、逆さにすべっているような恰好である。人々が――「みえる、みえる、あんな姿でかわいそうに!」と騒いでいるうち、少女の手が動いた。「生きている」期せず助けよう! という声が上った。

 村の青年が漁業用のロープをとりに馬で元村へとび、元村署から警官2人もかけつけた。しかしこの間に3時間が経過した。火口の人々は声を限りに「助けにゆくから、しっかりするんだぞオ」と叫びつづけていた。やがて村の青年金森千代治君(28)が、消防用の刺子帽をかぶり、ロープを十文字にまきつけ、声援をうけながら下降していった。三百尺のロープはもうあといくらも残っていなかった。金森君が現場につくまで、少女はとびこんだ時の姿勢――逆さ吊りのままだった。少女はやがて金森君の背中にしっかと背負われた。この少女は富山県生れの岸本美津枝(17)といい、東京で女中をしていたが、恋人の病身を悲観、心中にきたもので、相手の青年もとびこんだらしいがはっきりしない。少女は鼻底骨と前額部を岩磐でうちくだかれ、目もあてられぬ重傷だった。

■島に建てられた「一寸お待ち下さい」の立看板

 こうして御神火にイケニエが備えられる毎に、大島は客で賑わった。旅館がふとり、ツバキ油が売れた。だが、それでよいのか。時まさに非常時、村の中には漸く反省の色もでてきた。島の郵便夫に関口三郎という老人がいたが、自殺防止に老いの一心をもやしたらしい。彼は村から村へ歩く道中、こういう看板を背負っていった。

 国家非常時に際し、あなたの生命は万金に替へ難し、爰に自分は国家の為に(一寸お待ち下さい)御相談に応じます。関口三郎

 やがて火口にも「一寸お待ち下さい」の立看板が建った。山道にも、村にも、三原山病患者は目に見えて減少していったようである。尤も日本が三原山で湧いている時、欧洲はヒットラー内閣が成立して緊張を加えつつあり、やがて日本は国際連盟を脱退した。内に神兵隊事件、満洲国に帝政、ついで二・二六事件の突発――物情騒然たるにおよんで、三原山は完全に青少年から見すてられた。

 三原山は静かになった。反省するが如く、冥想するが如く、寂として声がなかったが、やがて呑みこんだ不潔物を吐きだすが如く、昭和15年8月19日未明、突如数十丈の白煙を冲天に噴きあげた。三島山自らも人間を寄せつけなかったのである。

(木下 宗一/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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