東条英機の側近が「黙れ!」の一喝――恐怖の「国家総動員法」審議中に巻き起こった騒動とは

東条英機の側近が「黙れ!」の一喝――恐怖の「国家総動員法」審議中に巻き起こった騒動とは

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国会で「ダマレ!!」と叫んだ“東条英機の側近”が明かす、「国家総動員法」成立まで から続く

■解説:「黙れ!」国家総動員法はどう生まれたのか

 安倍晋三首相の政権も約7年。一定以上の内閣支持率を維持して「一強」といわれる半面、最近の「桜を見る会」問題のように、野党や一部メディアからの批判も根強い。

 自民党内での批判派の急先鋒・村上誠一郎元内閣府特命担当相は昨年9月の雑誌「月刊日本」で「国家総動員法の時代が来る」と題してこう述べた。「安倍政権は2013年以降、特定秘密保護法、国家公務員法改正、集団的自衛権の解釈改憲、共謀罪法を次々と強行しました。これらの法律を一つのパッケージとして見ると、戦前の治安維持法や国家総動員法のような機能を果しているようです。日本の民主主義が危機に瀕しているということです」。自民党が決定している「改憲4項目」のうちの緊急事態条項についても「国家総動員法のような全権委任法だ」という批判がある。

■「国家総動員法」とは何なのか

 安倍政権の評価は別にして、ここでいわれている国家総動員法とは何なのか。

 本論でのテーマは、その法律の制定過程の国会で起き、波紋を広げた不規則発言を、当の本人が約17年後に回顧した内容。日中全面戦争が泥沼化し、アメリカとの対立が深刻化する中、二・二六事件以降、軍部の専横が目立つ時代風潮を象徴する出来事とされた。一体彼はどんな人物で、発言はどんな意味を持っていたのだろう。ちなみに、安倍首相も、国会で野党議員に不規則発言を繰り返して問題になった。その点も81年前の出来事と共通するかもしれない。

 国家総動員法案は企画院と軍部の合議で作られ、1938年2月、第1次近衛(文麿)内閣が提出した。

 全部で50条から成り、第1条で「本法において国家総動員とは、戦時(戦争に準ずべき事変の場合を含む)に際し、国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう、人的及び物的資源を統制するをいう」と規定。第2条で「総動員物資」として兵器、艦艇、弾薬から被服、食糧、医薬品、船舶、航空機、車両、燃料、電力など、あらゆるものを挙げている。第4条では「政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは、勅令の定めるところにより、帝国臣民を徴用して総動員業務に従事せしめること」ができるとした。国会審議抜きで直ちに統制を発動できる権限を政府に与える法律。久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六〇年」はその権限を次のようにまとめ、「あらゆる経済活動に対する統制の権限を政府に『白紙委任』した」と解説している。

(1)国民を徴用し、総動員業務に当たらせる(労働統制)
(2)物資の生産、修理、配給などについて命令し、輸出入を制限・禁止する(物資統制)
(3)会社の設立や増資、合併を制限し、利益処分を命令したり、金融機関の資金運用にも介入する(企業・金融統制)
(4)モノの値段、運賃、保管料、保険料も命令する(価格統制)
(5)出版物の掲載を制限・禁止する(言論統制)

 当時の状況を勘案しても、なかなかすごい法案だ。元老の西園寺公望も「これは憲法無視の法案だから(議会を)通らない方がいい」と語っていたという。?

■「憲法無視の法案だから通らない方がいい」

 当時の状況を勘案しても、なかなかすごい法案だ。元老の西園寺公望も「これは憲法無視の法案だから(議会を)通らない方がいい」と語っていたという。国会でも当初から「国民の権利、自由及び財産、これを無限に拘束する。かくのごとき委任立法を出した例は憲法始まって以来ない」(民政党・斎藤隆夫議員)などの反対があった。

 2月28日には衆議院国家総動員法案委員会で政府の提案説明が行われたが、「近衛首相が病気欠席のため、広田(弘毅)外相が首相代理として詳細にわたり提案理由を説明し、滝(正雄)企画院総裁が逐条説明を行って」(3月1日付朝日朝刊)という状態(本編では滝を「法制局長官」としているが、前年企画院が発足して横滑りしていた)。

 広田外相は「政府においては、本法案は決して憲法に違反するものではないと堅く信じております」と主張したが、「委員会は首相の不出席にこぞって不満であるから、その前途は相当波欄を免れない」(同紙)とされた。以後は「法律問題である」として、主に塩野季彦・司法相が答弁。そして佐藤中佐の出番となる。

■「総動員法案に大波瀾 佐藤中佐“黙れ”の一言」

「3日午後の衆議院国家総動員法案委員会における陸軍省軍務局課員陸軍航空兵中佐・佐藤賢了氏の答弁中に『黙れ』と委員側を叱咤した言葉があったので、果然紛糾をきたし、同中佐の取り消しがあったが、委員側は納まらず、遂に紛糾のまま散会になった」。そう書いた1938年3月4日付朝日朝刊2面の記事には「総動員法案に大波瀾 佐藤中佐“黙れ”の一言 委員会沸騰裡に散会 直ちに取消す」の見出しが付いている。

 この日の同委員会では、政府委員を補佐する説明員として出席した佐藤中佐が約30分にわたって法案を説明。その間もヤジが飛んでいたが、同紙の「応答速記」によれば、その後の経過は次のようだ。

佐藤中佐 私は説明を申し上げるのであります(「委員長、いかなる限度にお許しになったのですか」「全く討論じゃないか」と叫び、その他発言する者あり)

小川委員長 まあ、もう少し……

佐藤中佐 皆さまが悪いとおっしゃればやめます。あるいは聴いてやろうとおっしゃれば申し上げます(「やめた方が穏やかだ」「やりたまえ、参考になる」と叫ぶ者あり)

佐藤中佐 しからば申し上げます(「やめた方が穏やかだ」、その他発言する者あり)

佐藤中佐 黙れ(「黙れとは何だ」と叫び、その他発言する者多し)

 その後、政友会所属の委員から「どういう意味か、誰に言ったのか」と問われた佐藤中佐は「大体のご意向が続けろというふうに思ったので」「私の発言に対して妨害するようなヤジに対して、静かに聞けという意味」だったと答弁。「取り消さないか」と委員長に言われて「委員長の仰せによりまして『黙れ』ということと、私の発言を妨害するという言葉は取り消します」と答えた。中佐は政府委員ではなく、補佐的な説明員で、委員長の許可がなければ発言できなかった。

■「陸軍省の一課員が議場で議員を怒鳴りつけるという異常な事件」

 翌4日、「委員会劈頭における杉山陸相の虚心坦懐な釈明によって、両者間に横たわる不快な気分は一掃され、総動員委員会の審議も再び元の軌道に復した」(4日付朝日夕刊)。「戦時統制法規の集大成ともいうべきものであった」=1969年3月3日放送の東京12チャンネル(現テレビ東京)報道部編「証言 私の昭和史(2)」=法案の審議をめぐって、「陸軍省の一課員が議場で議員を怒鳴りつけるという異常な事件」(「昭和世相流行語辞典」)は、「当時の政治情勢を象徴的に示した事件として話題を呼んだ」(「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」)。佐藤中佐は杉山陸相から叱責され、「登院を自発的に遠慮した」(「佐藤賢了の証言」)が、何の処分も受けなかった。

 法案は「乱用しないこと」という付帯決議付きだが、原案通り3月24日に可決、成立。本編に「支那事変中は使わない」と答弁した話が出てくるが、実際は約4カ月後に労働者の雇用・賃金などの統制が始まった。この前後には、右翼団体が武器を持って政友、民政両党本部を襲撃。「黙れ」発言と同じ日には社会大衆党の安部磯雄党首が右翼に襲われて負傷するなど、世情は騒然としていた。

■「黙れ」事件は“戦争に向かう流れ”を象徴するものだった

「いや、それはねえ、少し話がオーバーだと思うんですがね」。

「黙れ」事件からちょうど31年後の「証言 私の昭和史」で、佐藤賢了元中将(最終階級)は、「やはり、佐藤さんが軍服を着て『黙れ』と言われたことは、その(戦争に向かう)大きな流れを非常に象徴する一コマだったような気がしますね」と問われて、やんわり否定した。

「陸軍の一説明員の一喝でですね、陸軍の政治勢力が大きくなり、議会の勢力が衰えたなんて、そんなもんじゃないとわしは思うんですけれども。この総動員法がね、東京裁判で検事が大いになにか全体主義だとか独裁だとか、いろんなことを気負い込んで言いましたよ。そうするとね、裁判長がなんと言うたかというとね、『こんな法律は、戦時はどこの国でも作ってるじゃないか』と言われて、検事が振り上げたこぶしのやり場がなくて、モゾモゾしておりましたが、“ザマーミロ!”と叫びたいぐらいでしたね」。「一説明員」と言いながら、そこには“大向こうをうならせる”目立ちたがり屋ぶりが表れた。当時は雑誌などにも登場。“スター扱い”された。

 佐藤元中将は著書「佐藤賢了の証言」でも、「この事件を世間では大きく取り扱いすぎる感があった。まるで陸軍が議会を圧迫し、その勢力を衰頽させたかのようにいったのである。実にばかげたことである」と述べている。

■「東条の側近」と言われた、元中将・佐藤賢了とは

 一方で国家総動員法については「国防に任ずる者は絶えず、備えのない平和というものは、これは幻ですよ。どうしても備えがなけりゃ、本当の備えがなければいけない。その備えを固めるためにも総動員法が必要なわけだったんです」と主張している。「私としてはね、ただ総動員法が議会を通ればいいというんじゃなしに、議会で政府と議員とが真剣に審議して、その議会の審議を通じて国民大衆に理解してもらいたい。国民大衆の理解なくして、総動員体制というものはできっこないんですね。私はそれを希望しておった」とも。

 しかし、二・二六事件後の軍部と政府、議会の力関係を考えれば、元中将の言葉は「建前」としか受け取れない。それでいて、そうした軍部主導の結果、悲惨な敗戦に至った責任を問われると、「国民に大きな犠牲を払わせまして、誠に申し訳ないと、心からおわびいたしております」と頭を下げている(「証言 私の昭和史」)。

 佐藤元中将は陸軍大学校在学中、兵学教官が東条英機・元首相で、卒業後の隊付将校の時、部下の入院費を借りた間柄だった(「東条英機と太平洋戦争」)。東条元首相が陸相から首相になる時期、陸軍省軍務課長と軍務局長を務め、「東条の側近」と呼ばれた。

■「誠に率直で純粋」「なまじ白紙の非アメリカ通より害をなした」

 昭和天皇の側近だった木戸幸一・元内大臣は東京裁判での国際検事局の尋問に、太平洋戦争開戦の年の1941年1月ごろのこととして、「陸軍の中心は軍務局、特に佐藤賢了軍務局長あたりでした」と証言。上法快男「陸軍省軍務局」も「誠に率直かつ純真、禅味のある大きな人物であった」と人物を絶賛している。

 これに対し、秦郁彦「昭和史の軍人たち」は、「戦時中、東条を取り巻く連中は『三奸四愚』の名が高かった」とし、「“四愚”は、木村兵太郎(陸軍次官)、佐藤賢了、真田穣一郎(参謀本部作戦部長)、赤松貞雄(秘書)の4人だという」と書いている。大尉時代に2年間、アメリカに留学したが、「昭和18年3月になっても衆議院の決算委員会で『……大体米国将校の戦略戦術の知識は非常に乏しいのです。幼稚であります』と述べているぐらいで、誤ったアメリカ通は、なまじ白紙の非アメリカ通より害をなした」としている。

■「東条に協力」A級戦犯で東京裁判に出廷

 佐藤元中将は敗戦後の東京裁判でA級戦犯となったが、起訴された28人中最年少で、起訴状付属書でも「東条と協力」とされた。弁護人の判断で自らは法廷に立たず沈黙を通したことから、「黙れの佐藤、今や沈黙の人」(朝日新聞東京裁判記者団「東京裁判」)、「『黙れ』がだまった」(読売法廷記者団編「25被告の表情」)と、ここでも過去の言動を引き合いに揶揄された。終身禁固刑を受け、1956年釈放。会社社長を務めながら、メディアにも登場した。

■政治的な思惑で動く軍人が多かったために悲劇が起こった

 ベトナム戦争でアメリカ軍が北爆を開始した1965年、月刊文藝春秋誌上で、かつての日中全面戦争と北部仏印進駐の「負の教訓」から「米国よ、小細工を弄せず、ベトナム施策の失敗を率直に認めて、黙って撤兵せよ」と提言して注目された。1975年2月、79歳で死去。戦後も「支那事変や太平洋戦争は、好まぬ戦争に日本が引きずり込まれたのである」(「東条英機と太平洋戦争」)と主張。昭和史研究者の間では評価は高くない。結局、画一的で不合理な軍人の視点からでしか戦争と国民を理解できなかったということだろう。

 強気一辺倒の同調圧力の下、政治的な思惑で動く軍人が多かったのが昭和の国民の悲劇だったのかもしれない。

本編 「総動員法問答事件」 を読む

【参考文献】 
▽久保田晃・桐村英一郎「昭和経済六〇年」 朝日選書 1987年
▽東京12チャンネル報道部編「証言 私の昭和史(2)戦争への道」 學藝書林 1969年
▽鷹橋信夫「昭和世相流行語辞典」 旺文社 1986年
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽佐藤賢了「佐藤賢了の証言」 芙蓉書房 1976年
▽佐藤賢了「東条英機と太平洋戦争」 文藝春秋 1960年
▽粟屋憲太郎ら編「東京裁判資料・木戸幸一尋問調書」 大月書店 1987年
▽上法快男「陸軍省軍務局」 芙蓉書房 1979年 
▽秦郁彦「昭和史の軍人たち」 文藝春秋 1982年
▽朝日新聞東京裁判記者団「東京裁判」 講談社 1983年
▽読売法廷記者団編「25被告の表情」 労働文化社 1948年

(小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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