第14回 月光に導かれイヌアフィシュアクまで50キロ――角幡唯介「私は太陽を見た」

第14回 月光に導かれイヌアフィシュアクまで50キロ――角幡唯介「私は太陽を見た」

©角幡唯介

 アウンナットの小屋を後にしたのは1月5日のことだった。相変わらず気圧が低いのか霧が立ちこめ小雪まで舞っていた。湿度は高く気温も氷点下18度と薄気味の悪い生暖かさにつつまれていた。

 ただ昨日まで見えなかった月は、月齢6.8と、人間でいえば20歳ぐらいにまで成長し、南の丘の稜線のうえに昇って姿を見せるようになった。

 久しぶりの月光で世界は息を吹きかえした。

■10日ぶりに月が再生すると気分も晴れた

 月は、新月前後の約10日間の死の潜伏期間を経てようやく復活・再生し、小屋のまわりの丘や断崖や海氷を青く、柔らかな慈光で照らし出した。それまでの月の無い〈真の極夜〉の10日間は暗く、みじめで、世界は死の闇に覆われ、小屋の前の海が凍っているかどうかさえ肉眼では判然としなかった。だが、月が出さえすれば海氷も見えるし、それどころかなんでも見えた。正確にいえばなんでも見えているわけではなく見えているような感じがするだけなのだが、なんでも見える気がしているので気分が晴れてすべてがうまくいく気がする。

 月が出るとその運行にあわせて1日を組み立てるので、ふたたび夜中の月の南中時刻を中心に1日約25時間制で行動することになった。満月は約1週間後、おそらくその前にイヌアフィシュアクのデポ地に着くだろう。イヌアフィシュクは海岸線が複雑で暗いとデポを置いた小屋の位置がわからなくなる可能性があるが、満月前後の明るい期間に着けばそのリスクも多少は軽減される。もちろんその月の満ち欠けのタイミングを計算してこの日に出発するわけで、要するに極夜世界において人間の行動のすべてを決定、支配するのは月なのだ。

■エロチックな月光が照らしだした兎

 月光の助けを得て私と犬は橇を引きはじめた。犬も久しぶりの運動が嬉しいらしく、小屋を出て橇をつないだ途端、興奮気味に駆けだした。犬に引っ張られるように定着氷から海氷に下りると湾内は厚い新氷におおわれており、エロチックな月光に照らされてどこまでも広がっていた。

 ふたたび定着氷を歩いていていると妙にまん丸とした雪の塊に気づいた。月光があるとはいえ、やはり暗いことは暗いので、私はかなり接近してはじめて、それが雪の塊ではなく兎だと気づき、あわててライフルを取り出した。

 イヌアフィシュアクに行けばデポがあるとはいえ、デポ食には肉等の蛋白質はほとんどないので、兎の肉は貴重な食料源になる。それに肉を現地調達できればそのぶん持ちはこんだ食料を節約できるので、万が一のトラブルの際にも対応するだけの余裕がうまれる。だからこういうチャンスを逃してはいけない。慎重に狙いを定めて丁寧に射殺した。その場で毛皮をむしり、肉を解体して、肝臓以外の部位をすべて犬にあたえて残りは自分の食料用に橇に積んだ。

 翌日からさらに状況はよくなった。天候が回復して靄がなくなり、月明りが全体におよび足元の雪の状態を照らし出した。ヘッデンを消しても雪の凹凸や前方の乱氷の影が手に取るようにわかり、一気に歩きやすくなった。

 アウンナットを出てまもなく気温が氷点下30度から40度近くにまで下がり、冬の北極らしい寒さがぶり返した。月は日に日に高度をあげて大きく、明るくなり、さらに視界もよくなってきた。定着氷の状態も申し分なくカリカリのスケートリンクのような状態がつづき、犬1頭で重い2台の橇をまるまる引いてくれた。

 アウンナットから50キロ先にあるイヌアフィシュアクの地がいよいよ近づいてきた。

 イヌアフィシュアクに行けばデポがある。私は早くデポ地に到着したくて仕方がなかった。デポさえ発見できれば、もうこの旅の7割方は終わったも同然だと私は考えていた。

■残り2カ所のデポも残っている確率は半々くらいか

 イヌアフィシュアクのデポは2カ所である。1カ所は自分で橇を引いて運んだ1カ月分のデポで、これは半島の先端にある昔の朽ちかけた小屋に置いた。もう1カ所が英国隊のデポで、こちらは小屋から約4キロ離れた半島の付け根の小さな湾の海岸近くに岩を積みあげて保管されている。アウンナットの小屋が襲撃されたことから分かるように、当然、イヌアフィシュアクのデポも100パーセント安全であるわけではなく、というか自分で運んだ小屋のデポのほうに関していえば、残っている確率は半々ぐらいだと踏んでいた。小屋の窓や入口はかなり古く、釘打ち等で補強してきたとはいえ白熊がその気になれば簡単に引き剥がしてしまえそうな状態だったからだ。ただ、英国隊のデポは臭いの漏れない頑丈なプラスチックの樽に密閉されていたうえ、大量の岩でがっちり覆われていたので、襲撃される可能性はほとんど考えられなかった。その意味で私はデポについてかなり楽観的に考えていた。小屋のほうがダメでも英国隊のほうは絶対に残っていると思っていたので、早くデポ地に到着して、とりあえず計画通りに旅がおこなえる切符を得て安心したかったのである。

 1月8日未明、海岸の荒れた乱氷にわずかなルートを見出し定着氷から海氷におりたった。岸沿いの海氷が闇の中でぎしぎしと不気味に軋んだ。そこからイヌアフィシュアクの半島までは十数キロと、もうあと少しだった。ただ、半島の周辺は海岸線が入り組んでおり、明るい時期でも迷いこみそうになるほど複雑な地形になっている。月が出ているとはいえ地形を完全に読み取れるほどの光量はなく、暗い状態のなかで迷わずにデポ地を発見できるかどうかが今回の極夜の暗黒下における最後のハードルだと思われた。

 私はまず半島の先端をめざし、襲撃されている可能性のある小屋デポのほうを目指すことにした。天気は快晴、月もほぼ満月に近い状態となり小屋を探すには申し分なかった。

 イヌアフィシュアクの半島の手前の右手側の陸地からは、イヌアフィシュアクの〈半島もどき〉ともいえる小さな岬がごにょごにょ突きだした嫌らしい地形になっている。そのため、そこに迷いこまないようにしなければならない。私は慎重にコンパスで進行方向を確かめ、星を目印にしながら、慎重にも慎重をかさねて絶対に〈半島もどき〉に入らないように心がけて真の半島の先端をめざした。

■地図的にありえない方向に伸びていた海岸線

 そのうち月光に照らされて、闇の向こうに真の半島らしき陸地の影が朧気に浮かんできた。

 これだけ月の光があると、さすがにどんな間抜けでも間違いようがなかった。私はその陸影をめざして真っ直ぐ進み、少し早いなと思ったが、約4時間で半島の先端と思われる、そのずっと見えていた陸地にたどり着いた。

 だが、たどり着いてみると様子がおかしかった。地図を見ると半島の先端の近くには小島があるはずなのだが、それが見つからないのだ。それに私の記憶では半島の先端はもう少し平らだったはずだが、そこは妙にごつごつとして切り立っていた。半信半疑のまま私は茫洋とした暗がりのなかを岸沿いに進んだ。すると私の神業的ナビゲーションは今宵も冴えていたようで、さきほどのおかしな感じは解消、半島の先端の小屋の前にある深い入り江らしき入り江が現れ、やはりルート取りが正しかったことが判明してきた。

 よかった。あの先の陸地の突端を回りこめばたぶん小屋だ。そうホッとして突端を回りこむと、しかし、その先で海岸線はまったくおかしな方角に伸びていた。

 なんだこれ? 何度もコンパスを確認したが、海岸線は地図的にあり得ない方向に伸びていた。私は混乱した。おかしい。俺は一体どこにいるのだ? もしかしたらイヌアフィシュアクの岬の先端のだいぶ手前にいるのだろうか。それともまったく別の場所にいるのか?

(角幡 唯介)

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