戦前の武装共産党トップ「昭和のフィクサー・田中清玄」が生きた“転向の時代”とは

戦前の武装共産党トップ「昭和のフィクサー・田中清玄」が生きた“転向の時代”とは

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「最低限の生活を守るため」がなぜ血まみれの『武装メーデー』へ発展してしまったのか から続く

■解説:共産主義からの「転向」とは?

 今回のテーマは、この「昭和の35大事件」で既に取り上げた 「赤色戦線大検挙」 の三・一五事件(1928年)と、 「ギャング共産党事件」 で書いた大森銀行ギャング事件(1932年)の間に挟まった時期の共産党絡みの事件。本編の筆者は、「武装化」に反対し、戦後は日本共産党で衆院議員も務めており、スパイ「M」についての証言などは貴重。これ以上付け加えることはない気もするが、実際に暴力事件となった川崎での事件を公的資料から見てみよう。

「共産党は昭和5年5月1日のメーデーを武装メーデーとして大衆蜂起を計画した」と「神奈川県警察史中巻」は記述している。メーデーの会場は川崎稲毛神社境内。神奈川県警察部は警察官180人で警戒に当たった。「午前9時半、集合人員は2000名に達した。同9時55分、メーデー実行副委員長近藤武男が開会宣言のため、壇上に上がろうとした。

 その時、突如会場表入り口から黒詰め襟服を着た18〜19名の一団が『日本共産党日本共産青年同盟』と大書した数本の旗をなびかせながら乱入してきた。彼らの手にはそれぞれ竹やり、仕込み杖、大型ヤスリ、短刀、ピストルなどが握られていた。

 これを発見した(川崎署)内宮(藤吉)警部指揮の一隊は、ただちにこれを制止し、携帯凶器の押収にかかり、反抗する一団との間に乱闘が開始された」「突然銃声が響いて、内宮警部が倒れた。ピストルを撃ったのは首謀者、鶴見の日本石油の工員阿部作蔵(26)であった」(同書)。彼は逃げようとしたが、現場付近で逮捕された。

■「竹やり77本、大型ヤスリ3本……」党の再生と革命を焦った結果

 近藤副委員長も、青年同盟のメンバーを制止しようとして大型ヤスリで刺され、他のメーデー参加者2人も竹やりで突かれて負傷した。80人の警察官が応援に駆け付け、8人を逮捕。ようやく騒ぎは収まった。内宮警部が左頸部貫通銃創の重傷を負ったほか、警察官5人が負傷。現場で竹やり77本、大型ヤスリ3本、仕込み杖2本、短刀4本、ピストル1丁が押収され、逃走した10人も後日、全員逮捕された。

「首謀者阿部は日本共産党青年同盟京浜地区のオルガナイザーで、上部からメーデー対策の指示を受け、数回にわたって同志を集めて謀議し、メーデーの暴動化を計画した」「打ち続く検挙によって細るのみの共産党が、党の再生と革命を焦った結果の一種の自壊現象であったといえよう」と同書は指摘している。この事件の報道も記事差し止めとなり、解禁されたのは半年以上後の1930年11月29日付夕刊。「去るメーデーに 極左派の騒擾事件」「乱闘の限りを盡す」(東京朝日)、「竹槍・ピストルで警官襲う 記事解禁」(東京日日)などと大きく報じられた。号外を出した社も。

■「武装共産党時代」と名付けられるほどの武装集団へ

 当時日本共産党委員長だった田中清玄氏は戦後の座談会で、本編に書かれている通りに弁明したが、1993年出版の「田中清玄自伝」では微妙に変化する。

「再建後の日本共産党の書記長だった時に、スターリンは『日本共産党は武装すべし』という指令を出してきた。私自身がこの指令をモスクワから受け取ったんです。この指令にしたがって、後世の史家から我々は『武装共産党時代』と名付けられるほどの武装集団となり、官憲殺傷五十数件という過失も犯したんです」

「ところがスターリンは今度は『日本共産党は極左冒険主義だ。けしからん』と叱責してきたんです。私はこのモスクワからの、責任回避に終始した指令を受け取って『いまさら何を言うか』と心底から怒りが込み上げてきました」。これに対する反論は本編に書かれている。真偽は確かめようがなく、水掛け論だろう。

 田中清玄氏は事件から2カ月後の1930年7月、治安維持法違反容疑で逮捕され、3年後の1933年7月、獄中で転向する。「つかまる前に起きた母の諌死と、それをきっかけにした共産主義への疑問がありました」と「自伝」で語っている。田中の母は「お前のような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して、自分は責任がある。(中略)自分は死をもって諫める。お前はよき日本人になってくれ」という遺書を残して割腹自殺したという。

 田中は戦後、政財界に食い込んでインドネシアの石油利権などをめぐって暗躍。「右翼の大物」「フィクサー」と呼ばれるようになった。

■すごみと愛嬌の落差から見えたフィクサーの片鱗

 田中清玄氏には1度会ったことがある。1983年10月初め。ロッキード事件での田中角栄元首相に対する一審判決を10月12日に控えて、メディアは東京・目白台の田中邸前に「張り番」態勢を敷いた。地方から記者の応援をもらい、交代で人や車の出入りをチェック。私はその「仕切り」を担当した。

 先輩記者の命令で、張り番のシフトを終えた記者は、陸運局で田中邸を訪れた車の所有者を調べ、電話で「何の目的で行ったか」を聞く。ある日、外から社に戻ると、後輩の「張り番記者」の1人が電話口で目を白黒させている。1台のライトバンの所有者として登録されていた会社にかけたらしい。代わって電話に出ると、ドスの効いた声で「おまえら、何の権利があってこんなことをしてるんだ!」とすごい剣幕。「合法的な取材活動です」と答えたが、「けしからん。説教してやるから、すぐこっちへ来い」。

 教えられた表参道のマンションの一室に行くと、秘書兼護衛らしい身長190センチ近くの若い男が。しばらくして現れたのは、小柄で枯れ枝のようにやせているが眼光の鋭い、70代と思える和服の男性。趣旨を説明したが、すぐ「何を!」と怒り出す。どうなるかと思っていると、「ちょっと付いて来い」。連れて行かれたのは近くの割烹。コロッと態度が変わり、笑いながら「さあ、飲め」と言う。「実は最近本を出してなあ」。

 要するに紹介記事を書いてほしかったようだ。「田中元首相を激励に訪問」という短い記事と、本の紹介記事を出したが、そのすごみと愛嬌の落差からはフィクサーの片鱗を見た気がした。

■思想が「命を懸けて守るもの」だった時代

 1930年代は「転向の時代」と呼ばれた。いま手元の辞書を見ると、「転向」は「(1)方向・針路・方針・立場・態度・好みなどを変えること」とあり、その意味で普通に使われる用語だ。しかし、(2)には、この事件の時代に特別の意味を与えられた解釈が書かれている。

「それまでの思想的立場、特に共産主義思想を捨てて、他の思想を持つようになること」。

 思想の科学研究会編「共同研究 転向」の鶴見俊輔「序言」は、転向を「『権力によって強制されたためにおこる思想の変化』と定義したい」と書いている。

 軍国主義が進み、治安維持法が存在した時代、特高(特別高等警察)などの脅迫や拷問を受けて強制的に、あるいは自発的に思想を捨てた人がいれば、非転向を貫いて敗戦まで獄中に留まった人もいた。中には思想に殉じたかのように命を落とした人も。転向した人も、多くはそれを「罪」や「恥」として抱えながら、その後の人生を生きた。転向は形の上では「自発的だった」ことが重い意味を持っていたといえる。

  現代の多くの人間は、「思想とは命をかけて守るものなのか」と驚き、考えさせられるだろう。そうしたことが日常だった時代だった。

■センセーショナルに報じられた「転向声明」

 三・一五事件に続いて、共産党員ら約600人が検挙された「四・一六事件」(1929年)で逮捕された日本共産党委員長の佐野学と委員の鍋山貞親が、統一訴訟での一審判決後、控訴審開始前の1933年6月8日、「共同被告同志に告ぐる書」と題した「転向声明」を発表。10日付の朝刊各紙でセンセーショナルに報じられた。

 声明で2人は、モスクワのコミンテルンが諸国の労働者の生活と闘争から離れいて、指令が有害だとして「民族的一国社会主義」を主張。中国大陸への侵略戦争を肯定し、戦争への積極的参加が進歩的行動だとした。さらに、天皇制についても、民族的統一を表現するものとして支持することを表明した。

「共同研究 転向」所収の高畠通敏「一国社会主義者」は、その転向を「それから既に四半世紀経過した今日、われわれはこのニ人の転向が及ぼした時代への影響の深さを充分に測り知ることができる」と書いている。「日本帝国主義が満州への侵略を開始することによって、その後十五年打続く戦争への口火を切ったのは、そのニ年前のことだった。そしてそれ以来日本共産党は、戦争に対する唯一の積極的抵抗勢力だった」。その「輝ける指導者」とされた2人の思想の放棄が社会に与えた影響は甚大だった。田中清玄氏の転向表明は約1か月後。「直接のきっかけは佐野・鍋山の転向声明」と語っている(「田中清玄自伝」)。

 前後して、中尾勝男、高橋貞樹、三田村四郎、風間丈吉らの日本共産党幹部も次々転向を表明。翌1934年の控訴審判決で佐野、鍋山、三田村は無期懲役から懲役15年に減刑された。「司法省行刑局が佐野・鍋山の転向声明を『思想教化の好材料』として全国刑務所に謄写配布した結果、約一カ月のうち、未決囚の三〇%(一三七〇人中四一五人)、既決囚の三四%(三九三人中一三三人)が転向を上申した」(「一国社会主義」)という。

■「世間は軍国主義に塗りつぶされていく」

 塩田庄兵衛「家族国家の重み―『転向』―」は「転向の筋書きはおよそ次のようなものであった」と紹介している。

「共産主義運動に参加した労働者、農民、知識人、学生が治安維持法違反で特高警察に検挙される。拷問で痛めつけられ、不衛生な留置場や孤独な監房でさいなまれる。職を失い、学籍を失う。肉親は世間を恥じ、獄中の安否を気遣って面会所でかきくどく。『家』の問題は最も悩ましい。中国での戦争はエスカレーションを続け、世間は軍国主義に塗りつぶされていく。革命は遠のいた。不動の星座に見えた佐野、鍋山も転向したではないか。獄中で読まされた両巨頭の転向声明は、共感できる点を含んでいる。自分は生きねばならない。教誨師が説教に来て仏教の本を貸してくれる。深遠な精神の世界がそこに開けている。

 悪うございました。マルクス主義は間違っていました。これからは日本人の心に立ち返ります、とお辞儀して、この心境、思想の変化を手記にしたためる。自己批判不十分と認定されると、何度でも書き直しをさせられる。こうなれば五十歩百歩、当局の気に入るように書くほかない。『誠意』がお上に通ずると、起訴留保、あるいは執行猶予、仮出獄などの『温情』で報いられてシャバに出られる」

■「転向の文学」という言葉が生まれた

 1930年代以降、転向を指摘されたり、噂されたりした思想家、社会運動家、作家、芸術家は枚挙にいとまがない。水野成夫(戦後、フジテレビなど社長)ら日本共産党関係者をはじめ、江田三郎(戦後、社会党書記長)、三木清(哲学者)、大宅壮一(評論家)、太宰治(作家)、中野重治(作家)、埴谷雄高(作家)、三好十郎(劇作家)……。

「転向の文学」という言葉まで生まれた。鶴見の「序言」は「『転向』という言葉は、司法当局のつくったものであり、当局が正しいと思う方向に個人の思想のむきを変えることを意味した。ここには、個人の側からすれば屈服の語感がこもっている」「かなりの地位を占める政治家、学者、宗教家が、まずはじめには非転向でとおしてきたかのように論陣をはり、誰かからその転向点に関する資料を提出されると、急にくるりとむきなおって、『生活のために仕方がなかった』と言う例を、戦後の日本は数多くもっている」と指摘する。

「家族国家の重み」は転向しなかった例として宮本顕治(戦後、日本共産党委員長)や河上肇(元京都帝大教授)を挙げているが、やはりそれは少数派だった。

■「転向の時代」から80年経った今の日本は

「序言」が転向研究の共通の価値観として挙げているのは次のようなことだ。

(1)転向は必ずしもそのままでは悪いことではない
(2)転向の道筋をはっきりさせる手続きをとることが、本人にとっても公共に対しても有用
(3)転向を研究・批判する者にとって観点の自由な交流を図っていく集団的努力が必要であり、従って、転向の批判も最終的結論に達せず、いくつかの観点が残ることもあり得るし、今後の改訂に対しても開かれている
(4)転向の事実を明らかに認め、その道筋も明らかに認めるとき、転向は私たちにとって、ある程度まで操作可能になり、転向体験をいままでよりも自由に設計し操作する道が今後開かれるようになるだろうし、そのとき、転向体験はわれわれにとって生きた遺産になる――。

「転向の時代」から80年以上がたち、「序言」の指摘からも60年。転向の全体像は明らかにならないまま、歴史の闇に消えて行きつつあるのかもしれない。しかし、はたして転向は、いまの時代の人間とは全く無関係の過去のことと片づけられるだろうか。

本編 「『武装メーデー』事件」 を読む

【参考文献】
▽神奈川県警察史編さん委員会「神奈川県警察史中巻」 神奈川県警察本部 1972年
▽田中清玄「田中清玄自伝」 文藝春秋 1993年
▽思想の科学研究会編「共同研究 転向 上」 平凡社 1959年
▽塩田庄兵衛「家族国家の重み―『転向』―」=「昭和史の瞬間 上」(朝日選書 1974年)所収

(小池 新/文藝春秋 増刊号 昭和の35大事件)

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