第24回 暗闇の中に光るふたつの緑の光を追う――角幡唯介「私は太陽を見た」

第24回 暗闇の中に光るふたつの緑の光を追う――角幡唯介「私は太陽を見た」

©角幡唯介

 次の日も正直いえば動きたくなかったが、そうも言ってられなかった。今日もまたヘッデンをつけて歩かなければならないのかと思うと、私は発狂しそうだった。 

 翌日はテントを出発してしばらく定着氷の上を歩き続けた。天気がよかったので昼前後になるとまた太陽の光が滲んで空がうっすらとわずかに白んだ。太陽の存在が感じられるだけで私の精神の内側に巣食った憂鬱の靄はとり払われて気分は上向きになった。だが薄明るかった時間はわずかで、すぐにまた辺りは闇のベールに閉ざされていった。

■ついに獲物が現れた!

 行く手にはもろい岩質からなる高さ数百メートルの岩壁が伽藍のようにつらなり、薄暗闇のむこうで巨大船の船首のような岬が雄々しく海にせり出しているのが見えた。岬の手前でそれまでつづいていた伽藍の岩壁は切れ、比較的大きな谷が陸地の内側に切れこんでいた。

 その谷間に差しかかったときだった。暗闇の中で2つの小さな緑色の光がゆらゆら怪しげに蠢いているのが見えた。光は定着氷の右側の端っこをゆっくりとした動きでこっちに近づいてくる。

「なんかいる……」

 2つの光が、動物の目玉がヘッデンの光に反応して輝いているものだというのは、すぐに分かった。ついに獲物が現われたのだ。狼か? と一瞬思った。だが暗いせいでヘッデンで照らしても目玉の正体は見えず、ただ小さな緑色光が闇のなかで独立して浮遊しているように見えた。動きがのろいので狐だろう。私はそう判断した。狐1匹獲ったところで犬の数日分の餌にしかならないが、それでもないよりはマシだ。私はライフルを肩から下ろし、腰を落とした。狐らしき光はこちらの様子を見つめているのか、20メートルほど先で動きをとめた。肉食動物は好奇心が旺盛で、おかしなものがあれば様子を見にくる傾向がある。もう少し近づいてきそうだ。ただでさえ狐は的が小さいのでこの距離では絶対にあたらない。私は限界まで目玉の光を引きつけることにした。

 だが、光の玉は動きを速めたと思ったら、突然どこかにパッと姿を消した。定着氷を下りて脇の海氷の中に逃げこんだのだ。あわてて定着氷の端に駆け寄りヘッデンで海を照らしたが、狐の目玉らしき緑色の光は乱氷帯のなかにまぎれ込んで薄闇のなかに消えていなくなった。

「くそー。行っちゃったよ」

 私はぼやきながら橇にもどった。犬は無表情で私の様子を見ていた。私たちはまた橇を引きはじめた。狩り目的で出発してから初めて見た動物の姿だっただけに、仕留めそこなったことが悔しくてならなかった。……ならなかったのだが、しかし驚いたことに、100メートルも進まないうちに、また左手の大きな谷間で緑色の光がゆらゆらと浮遊してくるのが見えた。

 しかも今度の光は4つだ。つまり2匹である。

 うわお、と思った。これまであんなに獲物の姿を見つけることができなかったのに、今日は突然降って湧いたかのように次から次へと光の玉が降臨してくる。2匹もいる以上、今度は絶対に逃すわけにはいかない。私は即座に橇のロープを外し、肩からライフルを下ろした。

 4つの緑の目玉は小さな霊魂のようにゆらゆらと闇のなかを漂い谷を下りてきた。そして50メートルほど離れたところでぴたりと止まった。私の様子を観察しているのだろう。さっきは必要以上に狐を引きつけようとして失敗した。これだけ距離があれば明るくても当てるのは至難の業だが、また逃げられるよりはマシである。私は膝を立ててライフルを構えた。ヘッデンの光で照星と照門をあわせてその先に緑色の光が来るようにかぶせる。無理だ、遠すぎると思ったものの、まぐれでいいから当たってくれと祈り、9割方神頼みで引き金をひいた。

■狼を仕留めれば、犬は助かる!

 銃声が闇夜の沈黙を突き破った。その瞬間、4つの緑の光はさきほどとは全く異なった素晴らしくダイナミックな動きで流れるように谷の奥のほうに移動しはじめた。暗黒の中で尾を引くかのように、つむじ風のごとき見事な速さで浮遊しながら谷の向こうに消えていく。

 その動きを見た瞬間、途轍もない後悔が私を襲った。しまったああ、と思った。そのスピード感はどう考えても狐ではなく、狼のそれだった。

 私はスキーを履いたまま目玉の光が逃げた闇にむかって走り出した。

 くそお。狼だった。狼だった。失敗した。激しく悔やみながら私は闇の奥に消える緑の光を追った。私が後悔したのは、狼というのは放っておけばどんどんこっちに近づいてくる習性があるからだ。昔、カナダ北極圏で長期徒歩旅行をしたときに狼とは何度も遭遇したが、彼らは必ずといっていいほど様子を見るために接近してきた。中には頭を撫でることができるんじゃないかというぐらい近づいてきたのもいた。あの緑の光が狼なら、そのまま待てば5メートルぐらいまで近寄ってきたはずだ。5メートルならさすがに暗くても当たる。つまり、もっと引きつければ確実に撃ちとめられたのだ。しかも狼は身体もでかい。体重50キロぐらいあるので、少なくとも村に戻るぐらいの犬の餌には十分になる。何という馬鹿なことをしたのだ。

 私は必死に目玉の光を追いかけた。幸運なことに4つの光は100メートルぐらい浮遊移動したところでまた止まった。50メートルぐらいまで近づいて、私はまたライフルの引き金をひいた。銃声がとどろき、光の玉はまた谷の奥にむかって浮遊を再開した。その見ている者をうっとりとさせるほど優雅かつ滑らかな動きを見ていると、とても弾丸があたったとは思えなかった。雪面の上に血痕を探したが、やはり真っ白な雪面が広がっている。ぐおおおお、また外したのだと思い、私はふたたび走って追跡をはじめた。恐怖は微塵も感じない。狼に逆襲される可能性に思い至ることもまったくない。絶対に撃ちとめる、絶対に撃ちとめる、それだけ考え、闇のなかを自由に浮遊する4つの発光体を追った。背後から犬がうおおん、うおおおんと吠えるのが聞こえた。銃声を聞き、私が何か獲物を仕留めたと勘違いし、俺も連れていってあんたが手に入れた肉を食わせてくれと叫んでいるのだ。

 4つの浮遊発光体はUFOのようにウイーンとスムーズなカーブを描いて右手の岩壁のほうに上昇していった。ある意味、奇怪な動きであったが、狼が岩場をこともなげにクライムしているのだろうと考えると合点がいった。発光体は闇の宙空、すなわち岩場の途中でまた止まり、私の様子を観察しはじめた。

 これがたぶん最後のチャンスだ。私は片膝をついて三度ライフルを構えた。距離は推定50メートル。慎重に照準の先に浮遊発光体を重ねあわせ、微妙にその下を狙ってトリガーをひいた。しかし銃声とともに浮遊発光体は闇の宙空を漂いはじめ、グイーンという擬音語を想起させる動きであっという間に谷の奥に姿を消していった。

■なんという情けない飼い主なのか……

 今度は本当に姿を消した。二度と戻ってこなかった。ダメだった。とても無理だ、こんなんで当たるはずがないと思った。極夜の主が与えてくれた唯一の望みを逃したのだ。私は肩を落としてとぼとぼと橇にもどった。

 犬がうおおおん、うおおおんと裏返った声で吠えまくっていた。戻ってみると、犬は私が獲物を捕らえたと完璧に勘違いし、異常興奮をきたして、一頭で重たい橇を50メートルぐらい引っ張って雪の盛りあがった丘のところに突っこんで動けなくなっていた。

こいつ、まだこんなに力が余っていたのか、と私は逆の意味で驚愕した。

「すまん、ダメだった」

 そう声をかけると、犬はとろんとした目にもどり不満そうな小声をもらした。なんという情けない飼い主だろうか。犬は橇を引き、白熊対策の番犬としての役割をはたしているのに、私はその犬の労働の対価に見合う報酬をあたえることができていないのだ。

 私と犬は再び橇引きを再開した。定着氷を移動しながら私は何度も背後を振りむいて狼の現れた谷を見つめた。浮遊発光体がまた現れて、後でもつけてきてくれないかと期待したが、それも虚しい願いだった。

(角幡 唯介)

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