1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏にいた“意外な人たち”

1932年に巻き起こった大相撲「春秋園事件」 革命の裏にいた“意外な人たち”

「檄文を背に秘策を練る天龍」(「大相撲八十年史」より)

マゲを切って料亭に立てこもる力士32人……90年前の大相撲を騒がせた「春秋園事件」とは? から続く

「春秋園事件」の主導者・天龍三郎は現静岡県浜松市出身。16歳で出羽ノ海部屋に入ったが、きっかけは、当時出羽ノ海親方となっていた明治の大横綱常陸山が直々足を延ばして勧誘に来たことだった。

■「こんな事態では相撲そのものがやがて衰微する」

「相撲風雲録」によれば、親方からは「常に力士は一個のサムライであるという毅然たる誇りを持って、まず技と共に精神を鍛えあげねばならぬ」と教えられた。

 そのためもあって、以前から強い問題意識を持っていたようだ。同書にこう書いている。「関脇となってみて、相撲の内部生活の不合理さがいよいよ身にしみるばかりであった。力士がどうしても一個の職能人として当たり前の暮らし方ができないように、相撲社会そのものができあがっているのである」「何とかいまのうちにせねばならぬ。こんな事態では相撲そのものがやがて衰微する」「私一個の存意はようやく固まってきた。後は同志の獲得である」。

 1931年3月、京都巡業の際に、「力士会の長老」大関大ノ里に話をした。「たしか10分か、いや15分間ぐらい考え込んでいたかと思う。やがて『やろう』と答えた」(同書)

■新興力士団に影響を及ぼしていたある組織

 一方、新興力士団には親方らを使った協会の懐柔工作以外にも手が伸びてきた。「関東国粋会」という右翼団体。以前から相撲界と関連があり、今回も仲介を買って出たとみられる。

 公安調査庁が1964年にまとめた「戦前における右翼団体の状況 中巻」によれば、頻発した労資紛争に刺激されて関東、関西の土建業者や顔役たちが結成した「大日本国粋会」から分離、独立。1930年に関東国粋会を名乗った。「もっぱら皇室中心主義を持し、国体に背馳する思想の撲滅に主力を注ぐ」が綱領。

 荒原朴水「大右翼史」は「事実上、関八州の関東侠客陣の流れを汲む純然たる任侠団体の集合であった」と書いている。1927〜28年の野田醤油争議に介入。春秋園事件にも登場する梅津勘兵衛はのちに理事長になるが、クリスチャンで「最後の侠客」と呼ばれた。そうした“圧力”が力士団にも影響を及ぼし始める。

■「悲劇の横綱」武蔵山の脱走

「武蔵山脱走す 脱退組から除名さる」。1月13日付東京朝日朝刊はこう報じた。

「風邪で医師の手当を受けていた武蔵山が12日夕6時ごろ、病院に行くと突然言い出し」、監視役を振り切ってタクシーで姿を消した。力士団の1人が本人を探し当てたが、武蔵山は「何とも申し訳ない。自分はそもそもこの運動の最初から、病気と称して避けようと思っていたが、諸君の熱情に引きずられて、自分を偽りながら、今日まで行動を共にしていたが……」と語ったという。

 武蔵山は決起前日の番付発表で兄弟子の天龍を追い越して新大関に昇進したが、1月7日付東京朝日夕刊の記事にあったように、以前から拳闘(ボクシング)界への転向が噂されていた。そこには右翼団体「大行社」の清水行之助と、北一輝の腹心の右翼活動家・岩田富美夫が介在していたとされる。

 しかし、結局その道もとらず、協会に復帰する。「裏切り者」という罵声を浴びながら、のちに横綱に昇進するが、ケガで不振のまま引退。「悲劇の横綱」と呼ばれる。

■「協会へは戻らない」意思表示として“まげを切る”

 関東国粋会の仲介で“手打ち”直前までいったが、天龍の強い抵抗で破談に。以後、関東国粋会の襲撃を恐れるようになる。そこで、天龍は驚くべき行動を起こす。

「天龍以下卅名の力士 今朝遂にまげを切る 悲痛な決意を表現」(1月17日付東京朝日夕刊見出し)。記事にはこうある。「(1月)16日午前5時、早くも力士団31名は本部楼上に全員集合。緊張した協議会を開き、その席上、突如天龍は隣室に退いたので、大ノ里、山錦の両名が後を追って入ると、天龍はやにわに隠し持ったはさみで自らのまげを切らんとしたので、驚いてさえぎりなだめたが、天龍は声涙共に『諸君の復帰を要望する自分だ』と一言血を吐くように言うばかり」。

 結局31人中30人が一斉にまげを切ることに決定。午前8時、紋服姿に着替えて集まり、「かねて用意の四寸ぐらいのはさみを各自に配り、一同白紙を懐中から出し、膝の前に置き、一斉に断髪。直ちに白紙に包み、署名を行った」。まげを切るのは「協会へは戻らない」意思表示。調停を拒絶する文書とともに関東国粋会に届けた。

 ここで「30名」とあるのは、人気の巨漢力士・出羽ヶ嶽が「肉体その他の条件から、まげを切らすに忍びない」(東京朝日)ということになり、1人だけまげを残したからだ。「『おれはまげ切ったら何にもできねえ。これだけは勘弁してくれ』と6尺8寸(206センチ)の巨体を震わせてワアワア泣いたという」(「昭和大相撲騒動記」)。

■新興力士団の旗揚げ興行「大成功と言っても過言でない」

 そして紆余曲折の末、新興力士団の旗揚げ興行が同年2月4日、東京・根岸の邸宅跡地に突貫工事で造られたテント張りの相撲場で開催された。大相撲の東西制や横綱、大関などの名称を廃し、6日間の個人競技に。31人をABCの3クラスに分け、総当たりでそれぞれ優勝と順位を決める方式。

「何もかも新味横溢 華々しい旗揚げ 楽隊、観衆の声援も賑はしく ザンギリ頭の大熱戦」。2月5日付東京朝日夕刊は好意的に報じている。東京日日も「人気上々、新興力士団の旗揚げ興行」の見出し。「新興力士の意気まさに衝天、相撲場付近の町は紅白の幕を張ってお祭りのような騒ぎ」と伝えた。

 相撲ファンの“判官びいき”もあってか、「昭和大相撲騒動記」によれば、初日だけで入場者は4700人超。「天龍は『大成功と言っても過言でない』と評価した」(同書)。

■天龍の方針に対する反発が強まった

 しかしこのころ、別な動きも起きていた。大相撲で残った東側力士のうち14人が伊勢神宮参拝に行き、そこで「革新力士団」を結成。名古屋の支援者宅に籠城して協会に反旗を翻した。

 これに対し、大日本相撲協会は幹部の体制を一新して、延期していた春場所を2月22日から8日間開催。番付から幕内、十両が計22人いなくなったため、十両から3人、幕下から5人を幕内待遇に引き上げた。西十両6枚目から引き上げられたのが、のちに69連勝を記録する名横綱・双葉山だった。

 新興力士団は革新力士団との提携に成功。3月19日から大阪で新興・革新合同大阪場所を開催し、好評だった。東京・蔵前でも両団体合同場所を開き、両力士団は新たに「大日本相撲連盟」を結成。帯同して全国巡業に出た。しかし、その前に出羽ヶ嶽が、義兄弟の歌人・斎藤茂吉らの協力で協会に復帰。さらに巡業中に革新力士団の間に天龍の方針に対する反発が強まった。結局、革新力士団の力士の多くは協会に復帰。新興力士団からも復帰する力士が出た。

 それでも天龍たち残った力士32人は大日本相撲連盟を解散して、大阪を拠点に「関西角力協会」を設立。1933年に独自興行を大阪、次いで東京でも実施した。そして、「満州・朝鮮慰問巡業」に出る。「昭和相撲騒動記」は「国内での興行が頭打ちになり、大陸に目を向けざるを得ない状態になったのだろう」と想像する。

■大ノ里の死と、革新的な相撲興行の限界

 大陸での巡業は兵隊たちには好評だったが、その中で大ノ里が発病。大連の病院に入院し、長い闘病の末、1938年1月、肋膜炎で死亡する。それに先立つ1937年1月、関西角力協会は大阪で7日間の興行を打ち、それを最後に同年12月、解散する。

「関西角力突如解散 天龍、山錦は引退 新進力士は東京方に復帰」。12月5日付東京朝日の見出し。「苦節五年土俵を割る」が物悲しい。「革命」は成就しないまま終わった。17人が協会に復帰。10人が廃業した。

「力士の生活権を確立しようとして動いた天龍一派の行動には明らかに時代的な合理性があった」と尾崎士郎「時代を見る眼」は述べる。

「昭和大相撲騒動記」は、天龍らの革新的な相撲興行について「新鮮味の追求は同時に『常に新しいものを開発しなくてはならない』という泥沼にはまり続けることを意味した」と分析。存続が危ぶまれた大日本相撲協会が、復帰組を迎えて曲がりなりにも興行を続けているのと対比して「本家の相撲協会で行われている『伝統の相撲』に勝てるのはほんの一瞬でしかなかったのだ」と述べている。

「日本の相撲界が続いてきたのは、保守性の中にある種の納得性が存在していたからだと思う。いわゆる『偉大なるマンネリ化』を観衆が認めてくれているのだ」とも。

■天龍には強力なブレーンがいた

 これに対し、天龍は「相撲風雲録」で地方巡業でのトーナメントなどの方式を「最良・至上のもの」と強調する一方、挫折の最大の原因として「協会の目に見えぬ圧力」を挙げている。

 しかし、この事件の新聞記事や資料を読んでいると、もう少し裏があったような気がしてならない。

 天龍には強力なブレーンがいた。後援会「天龍会」会長で、前・東京市会議員の茂木久平。早稲田大在学中、のちに有名作家となる尾崎士郎とともに学内の勢力争いに絡んだ「早稲田騒動」に加わり、大学を中退。尾崎とともに社会主義者堺利彦が経営していた出版社「売文社」に入った後、市会議員選挙に出馬し、当選した。尾崎の人気小説「人生劇場」に登場する高見剛平のモデルとされる。

 この名前を見たとき、筆者は思い出した。「昭和の35大事件」の「 東京都大疑獄事件 」で、京成電鉄の都心乗り入れに絡んで、同社の実情を革新倶楽部の志村清右衛門衆院議員に伝え、京成から志村を通じて現金を受け取ったとされた市会議員。相次ぐ汚職事件で市会議員が大量逮捕されて市会が解散命令を受け、失職。有罪判決を受けた。

 茂木には逸話が多い。ロシア革命直後に現地に行き、レーニンから活動資金300万円をもらう約束をしたことを自分で書いている。佐野眞一氏は「畸人巡礼怪人礼讃」で茂木を一種独特の魅力を持つ人物として取り上げている。

■事件をめぐって動いた人たちの意外な共通点

 またこれより前、社会改革に関する意見交換の場として1918年に生まれた「老壮会」という組織があった。「戦前における右翼団体の状況 上巻」などによれば、アジア主義の思想家・大川周明と満川亀太郎が発起人で、毎月1回程度集まって時局を語り、講演会を開くなどしたが、1921年ごろには自然消滅状態になったとされる。

 参加者は国家主義者から社会主義者まで雑多で、国家主義者系では北一輝、権藤成卿、笠木良明、社会主義者系は堺利彦、下中弥三郎、その他として大井憲太郎、草間八十雄ら。実はそこに茂木久平も社会主義者系の1人として加わっている。

 そして、春秋園事件で武蔵山復帰をめぐって登場する岩田富美夫、清水行之助も国家主義者系として参加。さらに、参加者の1人で「純正国家主義」などの著者・角田清彦も天龍側の人物として事件に絡んでいる。つまり、事件をめぐって動いた人間たちはお互いに知り合いだったわけだ。

 そこから筆者は、彼らが暗黙の了解のうちに“手分け”して協会側と天龍側に立ち、調停を図ったのではないか、という疑いを持つ。その場合、目的は相撲への愛に加えて、やはり金だったのではないか。

■戦後の国会でも改革の必要性を訴え続けた天龍

 茂木は、アナーキスト・大杉栄を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦と偶然知り合って親しくなり、敗戦まで、甘粕が理事長を務めた「満州映画協会」の東京支社長の役職にあった。のちに首相となる岸信介(当時「満州国」総務庁次長)とも知り合いだったことが「岸信介の回想」に書かれている。

 天龍は引退後、「満州」に渡り、満州国政府の体育事業に関わる。それには満州国総務長官だった星野直樹の力が大きかったと「相撲風雲録」に書いているが、茂木と甘粕のつながりも背後にあったのではないか。

 大日本相撲協会はその後、双葉山の快進撃や、騒動後に登場した新鋭力士の活躍で息を吹き返す。戦争を挟んで現在の日本相撲協会に変わり、繁栄と沈滞を繰り返すが、天龍らの訴えのうち、茶屋制度と親方問題、そして組織の体質はいまも本質的には変わらないままのように思える。メディアもその点に深くは踏み込まない。

 天龍は戦後、協会と関係を修復しつつ、国会でも改革の必要性を訴えた。1989年8月、85歳で死去。朝日の訃報は社会面ベタ(1段)だったが、見出しは「『春秋園』事件 反骨の元関脇」だった。

#1  マゲを切って料亭に立てこもる力士32人……90年前の大相撲を騒がせた「春秋園事件」とは?  

【参考文献】
▽和久田三郎「相撲風雲録」 池田書店 1955年
▽尾崎士郎「相撲を見る眼」 東京創元社 1957年
▽大山眞人「昭和大相撲騒動記」 平凡社新書 2006年
▽日本相撲協会博物館運営委員「近世日本相撲史第一巻」 ベースボール・マガジン社 1975年
▽「戦前における右翼団体の状況 中・上巻」 公安調査庁 1964年
▽荒原朴水「大右翼史」 大日本国民党 1900年
▽佐野眞一「畸人巡礼怪人礼讃」 毎日新聞社 2010年
▽岸信介・矢次一夫・伊藤隆「岸信介の回想」 文藝春秋 1981年

(小池 新)

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