7年前、秩父の廃村はなぜ燃えたのか? 山村で生きる公民館長が語る「無人集落のリアル」

7年前、秩父の廃村はなぜ燃えたのか? 山村で生きる公民館長が語る「無人集落のリアル」

©文藝春秋

12の集落が“消滅”……過疎化が進む秩父市山中の「廃村地区」に広がる異世界 から続く

 ここは埼玉県秩父市・浦山地区。別名「秩父さくら湖」とも呼ばれる浦山ダムからすぐ近くの山村だ。私と編集者Tは、浦山地区に広がる“廃村銀座”の現場を取材するため、ここを訪れた。

 浦山公民館長の浅見(あざみ)俊一さんに案内してもらい、最初に辿り着いた集落「嶽(たけ)」では、かつて3軒の廃屋が焼け落ちる火事が起こったという。それは、2013年8月のことだった。(全2回の2回目/ 前編から続く )

◆◆◆

 浅見さんが語る。「家の近くにいたら、見知らぬ人が近寄って来て、『煙を見た。火事が起きている』というんだ。あとで聞いたら、その人は隣町の影森(かげもり)で養蜂の仕事をしている人だった。それですぐに消防団に連絡したんだ。2人が駆け付けてきたから、私の軽トラに乗せて、教えてもらった方角に3人で向かった。現場は練馬のキャンプ場だと思ったんだけど、もう少し先だった」

■「誰かいませんか」「逃げ遅れていませんか」

 嶽に到着すると、手前の2軒が既に炎に包まれていた。結構な火勢だ。廃屋とはいえ、中に人がいないとも限らない。「誰かいませんか」「逃げ遅れていませんか」と3人で声を嗄らしたという。幸いなことに誰もいないようだった。

 しばらくすると、柱が折れたのか、手前の家が崩れ落ち、あたりに無数の火の粉が舞った。その火の粉が風にあおられて後方に移動し、すぐ上にあった3軒目に燃え移った。「通称、村長の家と言われていてね、立派な家だったよ」。それも今は跡形もない。

 現場を確認した後は、すぐにポンプを持ってきて、消火活動に入らなければならない。そのポンプの運搬に再び浅見さんの軽トラが活躍した。

■自殺を試みた男による放火

 火事の原因は放火で、犯人はほどなく捕まった。山を下りたあと、自ら警察に電話したのだという。浅見さんはたまたま犯人が警察に連行される場面も目撃した。「両脇を警察官に抱えられて、パトカーに連行されていった。茶髪でサングラスをかけた若い男で、近くに住む知り合いの孫に似ていてね。うわぁ、やっちまったんだと思ったら早合点で、東京の男だったよ」

 当時の報道によると、その男は自殺するためにここを訪れたそうだ。家屋に火をつけ、自分もろとも……と考えていたようだが、結局は怖くなって逃げ出した。誰の目も届かない廃村は、よからぬことを考える人物の標的になるリスクがあるのかもしれない。ここには確かに誰も住んでいないが、少し山を下った場所には、有人の民家が何軒も残っている。火事の被害が拡大しなかったことは、不幸中の幸いだった。

■廃村で出会った“映画のセット”のような光景

 火事の現場を後にして上郷道を再び歩き出すと、今まで見たことのない光景が目に飛び込んできた。左側に完全にひしゃげた家、奥のほうにはなんとか原型をとどめる家がある。一瞬、人の手でつくった映画のセットかと思ったくらいの眺めである。

 台所の炊事台、流し、洗濯機、桶……人が住んでいた痕跡があちこちにあった。土壁の倉もとっくに崩れ、下地の竹が見えている。おそらくシカが土壁を食べてしまったのではないか、とのことだ。

 ここでは興味深いものを2つ発見した。ひとつは半紙を綴じて作った金貸し帖のようなものだ。達筆の毛筆で名前と金額が書きこまれている。浅見さんいわく、その家は御方(おかた)さんと呼ばれ、確かに裕福だったらしい。

 もうひとつは昭和3年の日付がある火災保険証券である。保険金額は1700円。時代は少しずれるが、『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社)によれば、昭和10年における巡査の初任給が45円だから、その約38倍。現在の巡査の初任給を25万円とおき、当時に換算すると、950万円ということになる。

 家の隅に石が敷き詰められた一角があり、石臼らしきものが置かれていた。「こなし小屋といって、こういうところで、粉をひいたり味噌をつくったりしていたんだ」と浅見さん。

 外には石棺のようなものが埋められた場所があった。野だめというらしい。「屎尿はそこに捨てていたんだ。畑にまいたら立派な肥料になるからね」

■ホラーゲームの舞台となった嶽集落

 そこからさらに上郷道を進むと、黄色に色づいた林の中に鳥居が見えてきた。十二社神社である。境内には樹齢何百年もあるだろう杉の大木が何本も生えている。時計を見ると12時を廻っていた。

 近くの武甲山で修行した修験が祀った神社で、社殿の横には12の小さな祠が横一列で並んでいる。天神が七代、地神が五代で合計12社だ。浦山の総社にあたるが、神社が位置する嶽集落の住人がゼロになってしまい、現在は大谷、日向の両集落で共同管理を行っている。

 境内に立ち、3人でしばらく休んでいると、鳥居の向こうに人影が現われた。黒いウィンドブレーカーをはおり、携帯で写真を撮っている。女性一人のようだ。「ハイカーですかね」と尋ねると、「違うよ」と浅見さんが答えた。

 実はこの嶽集落は、一部では有名な場所だ。そもそもの始まりは、ここが2003年に発売されたホラーゲーム『SIREN―サイレン』(プレイステーション2)の舞台、羽生蛇村(はにゅうだむら)のモデルになったことにある。ゲームの製作者が訪れて、情景を参考にしたのだ。

「それからどんどん若い人が来るようになった。今でも年間100人を下らないね。最初の頃はネットで仲間を募って、西武秩父駅に集合して4、5人で歩いてきたんだ。最近は軽トラや四駆で県道沿いの駐車場まで乗り付けてくる。嶽集落はどこですかと聞くと住人に嫌な顔をされるから、十二社神社はどこですか、って聞くんだ」

■肝試しにやって来る若者たちの集団

 そう話す浅見さん、苦虫を噛み潰したような表情だ。ゲームの発売からは既に20年近く経っているが、今も“訪問者”が途切れることはないそうだ。

 多くは午後3時過ぎにやって来る。辺りが薄暗くなったほうが、怖さが増して面白いと考えるのだろう。わざわざ寝袋を持ってきて、十二社神社の境内で“キャンプ”をしているグループを発見したこともあるという。

「肝試しでもするつもりだったんでしょう。とんでもないことだよ。火事も起こったし、何かあったら取り返しがつかないので、警察に巡回を強化してもらうよう頼んだんです」

 嶽までやって来るには、途中で大谷や日向といった、有人集落を通る必要がある。過疎化と高齢化が進み、なかには一人暮らしの家もあるはずだ。そんな静かな暮らしの中に、突然見知らぬ若者が集団で踏み込んできて、挨拶もなく目の前を通り過ぎていく。その光景は確かに、見ていて気持ちの良いものではないのだろう。

■上郷道は崩れかかっていた

 休憩を終えた私たちは、最後の目的地である茶平(ちゃだいら)集落に向かった。ここからは傾斜はさほどではないものの、上郷道は道幅が狭まって土の部分が減り、本格的な山道に突入する。めったに人が通らないからだろう、道の平坦部が崩れ、山の斜面という自然に還りつつある。

 途中、打ち捨てられた何台もの自転車があった。かつてはこの山道を自転車でも走れたのだろうか。

 辺りは一面の杉林で、ここが昔は日当たりのいい段々畑だったなどとは信じられない。石ころだらけの沢を渡る。赤い頭巾とマフラー、よだれかけをした、お洒落で重装備のお地蔵さんの横を通っていく――。いつしか道は下りとなり、踏みしめる葉が広葉樹のケヤキに変わった。そこからしばらく行くと、茶平に着いた。十二社神社から40分ほどの道のりだった。

廃村の水道はまだ生きていた

 茶平は沢に沿って開けた集落で、沢の両側に十数軒の家があり、かつては雑貨屋も営業していた。今は廃屋のみで、住人は1人もいない。先の嶽と比べ、原型を留めている家が多い。庭先に墓石がいくつか並んだ家もあった。ここを離れるにあたっては先祖の骨も持参したことだろう。

 ここでも面白いものがあった。毛筆で「昭和八年七月拾五日 保寿堂薬房 備付器」と書かれた木箱である。富山県云々という詳しい住所も書かれている。いわゆる富山の置き薬の薬箱だ。秩父のこんな山奥まで、定期的に薬を届けに来た薬屋がいたのだ。

 日当たりのいい斜面を切り開いてつくった場所らしく、あちこちに石積みがある。すべて住民たちが協力して積んだものらしい。飲料水を含め、生活用水は沢の水を利用していたようで、プラスチック製の黒い管が散らばっている。中にはごぼごぼと水を吐き出しているものもあった。主の人間はいなくなったが、水道は生きているのだ。

 先を行っていた浅見さんが後方の高台を指差す。「あそこに、太いケヤキの木があるでしょう。中が洞(うろ)になっていて、子供の頃、そこを伝って上まで登って遊んだもんです。その後、木自体が変化してしまって、今はもう登れませんけれどね。この茶平は子供たちが多かったんですよ。親友もいました。かなり前に引っ越してしまったけれど」

 道は徐々に下りになり、最後の廃屋の前を行き過ぎると、ガードレールのついた林道に出た。時刻は午後1時半前だった。そこに前もって置いておいた浅見さんの車がある。

 出発が10時過ぎだったから、後で地図で確認すると、われわれは3時間半かけて、標高400〜600メートルの上郷道を約3.3キロ歩いたことになる。途中、バランスを崩したら大怪我してしまいそうな箇所や、壊れかかった橋などもあり、鼻歌混じりのハイキングというわけにはいかなかった。

■浦山の魅力は「不便なところ」

 車のそばで浅見さんが持参してくれたサンドイッチをいただき、3人で立ったまま頬張った。浅見さんは2014年から翌年にかけ、浦山出身の元教員による講義と現地見聞によって浦山の歴史を理解する講座「浦山楽」を主宰。その成果を冊子にまとめた。浦山愛に満ちている人なのだ。改めて浦山の魅力を尋ねたら、「何ていうんだろうなぁ、不便なところかなあ」と、意外な答えが返ってきた。

「一番大変なのは病院がないこと。子供の頃は病気になると、親父が隣町までおぶっていってくれたもんだ。そうやって鍛えられているから、例えば仕事をしていても、都会の人が大変だ大変だっていうことは、あんまり大変に感じない。不便だから皆で協力する。協力するから絆が強くなる。都会はそういう人と人のつながりがないもの。家を建てるのだって、大工さんには1人来てもらうけれど、他は皆で手伝って、それで1軒建てたもんだよ。材料だって山の木を使って、皆で木挽きしてつくった。石積みもやるしね。だから自然に器用になるんだ」

 でも皆が皆、そういう生活を望んでいるわけでない。「娘がアメリカに嫁に行っちゃったんです。どうせ出るなら東京なんかより、海の向こうがいいと」。そう言って浅見さんは笑うのだった。

■過疎化が進む故郷を守り抜く

 帰りがけに浦山ダムにもう一度立ち寄る。3時間半かけて歩いた距離も、舗装された県道を車で行くと、ものの5分もかからない。

 車窓の下に広がるきれいな道に目をやりながら、この車道が“駆逐”してしまった、先ほどの上郷道を思い返していた。そういえば、道中、先を歩く浅見さんが、腰を屈め、道に落ちた枯れ枝を一つずつ丁寧に横にどかしていた。

 山村に生きる人にとってはごく自然の行為で、後から来る私たちが躓かないように、という配慮だろうが、その後ろ姿からは過疎化が進む故郷を何とか守り抜こうという、浅見さんの決意がにじみ出ているようだった。

 徐々に天候が回復し、顔を覗かせた太陽の光を受けて、ダムの水面がきらきら輝いていた。この湖底にも2つの集落が沈んでいる。「この時期、こんなに水位が下がるのは珍しいよ」と言いながら、浅見さんは時折まぶしそうに、視線を湖面に向けていた。

撮影=文藝春秋

※今回の取材で訪れた埼玉県秩父市・浦山地区の「上郷道」は、急な斜面や、地面が崩れかかっている箇所が複数あり、事前の準備なく歩くのは非常に危険です。また、周辺の廃集落には今も私有地が多く、許可なく足を踏み入れてはいけない場所が点在しています。

(荻野 進介)

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