「歩けないのはやる気が無いからだ」 虐待された障害者の私が、植松被告に覚える既視感

「歩けないのはやる気が無いからだ」 虐待された障害者の私が、植松被告に覚える既視感

横浜地検から捜査本部のある神奈川県警津久井署に戻った植松聖容疑者(左)=2016年6月27日午後、神奈川県相模原市緑区 ©時事通信社

「意思疎通できない障害者には生きる価値がない」と言い放つ植松聖被告に対して、あなたならどう答えるだろうか。

 私の名前はダブル手帳( @double_techou )。身体障害者手帳1級(重度脳性麻痺)と精神障害者手帳3級(発達障害)を持っていることから思い付いた安易なペンネームを使って執筆している。生まれつき歩くことができず、背筋は湾曲し、右手も自由にならないため、電動車椅子で生活している。

 両親に「ドーマン法」という障害者に対する苛烈な訓練を強いる民間療法(またはエセ医療)を受けさせられ、虐待されて育ってきた。本稿のキーワードである「ファシリテーテッドコミュニケーション(以後、FC)」と「ドーマン法」には密接な関係があり(注1)、そのことが本稿を執筆するきっかけの一つにもなっている。

■障害者施設で「指筆談」が行われていた

 相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた連続殺傷事件から2年経った頃、ある記事が私の目に留まった。

「やまゆり園 利用者との意思疎通 『指筆談』広がりの兆し」
https://mainichi.jp/articles/20180728/k00/00e/040/165000c

 津久井やまゆり園で「指筆談」によって重度障害当事者の意思を汲み取ろうとする職員が現れ、園内ではその取り組みに共感が広がっている、との内容であった。

 津久井やまゆり園の名誉のために記しておくと、『文春オンライン』を通じて津久井やまゆり園での「指筆談」の現状について質問したところ、「指筆談に取り組んでいた職員が退職したため、現在園内で指筆談は行われていない」との回答があった。経緯はどうあれ、現在津久井やまゆり園において指筆談が行われていないことは大変健全なことであり、筆者も深く安堵した。

 しかし、この記事を読んだ当時の私の第一印象は「とてつもなく危うい事態が起っている」というものだった。「指筆談」がそれくらいに問題含みのものだからである。

■学会が「証拠がない」「非倫理的」と批判するFC

 前述の記事にある「指筆談」は、FCの手法のうちのひとつと言える。FCとは、介助者がコミュニケーションに障害を持つ人物の手・腕・肩などに触れ、一緒に言葉を綴っていく技法のことを指す。

 実は、FCは障害当事者から意思を汲み取る方法としては不適切であるというのが専門家の間では通説になっている。

 FCについての公式な声明・勧告をいくつか挙げると、アメリカ青少年児童心理学会は「複数の研究により、科学的に有効な手法でないことが繰り返し実証されている」としているほか、国際行動分析学会は「有益であることを実証する十分かつ客観的、科学的な根拠がないことから、使用は不当かつ非倫理的である」、アメリカ小児科学会障害者委員会は「有効でないことを示す、良質な科学的データが存在する」、日本児童青年精神医学会は「FCの有効性を示すエビデンスはほとんどなく、その有効性を否定するエビデンスが多く報告されている」など、概して否定的なスタンスを取っている(邦訳は「文春オンライン」編集部によるもの)。

 ここで、各学会の見解がFCを批判する根拠となっている研究とはどのようなものなのか、軽く紹介しておきたい。もちろん実際は、公平性・客観性を期すためにより複雑で厳密な実験であるが、それらの核となる考え方を単純化して表現すると、次のようになる。

注1……2002年に『NHKスペシャル』で放映され「内容に虚偽があるのでは」と疑義が呈された番組『奇跡の詩人』では、重度の脳障害を持つ少年がドーマン法の訓練に励みながらFCで執筆活動を行う様子が描かれた。

■FCの有効性を否定した実験って?

 障害当事者と、普段からFCによって当人の意思を代弁している介助者のペアが被験者である。まず、2人をそれぞれ別の部屋に入れ、障害当事者にAという物体を見てもらう。一方、介助者には、Bという別の物体を見てもらう。その上で二人を一緒にして、障害当事者に対し、「さっきあなたが見たものを答えて下さい」と問いかけ、それに対する応答を、介助者がFCによって代弁する、というものである。

 FCが正しい手法であれば、難なく「A」と答えられる筈である。ところが実際には何故か、当事者が目にしていない物体であるはずの「B」という答えが返ってきてしまうのである。つまり、介助者は障害当事者の意思を読み取ることなどできておらず、単に介助者が障害当事者の腕を動かして自身の言葉を表現しているに過ぎないことが明らかになったのだ(注2)。

 こうした研究に対するFC擁護派からの反論、及びそれに対するFC批判派からの再反論などをここで詳述することは本稿の趣旨から逸れるため割愛する。興味のある方は是非ご自身で双方の主張を比較した上で判断して欲しい。

 これらを踏まえた上で私個人の結論を述べれば、各学会の声明と同じく、FCが障害当事者の意思表出手段として適当であるとは到底考えることができない。よって以降、本稿では筆者はFCに批判的なスタンスから記述していることをご了承いただきたい。

■「少しでも可能性があるなら」という善意が否定されるべき理由

 FCを肯定する意見の中には、「FCが科学的に疑義があるものだとしても、そこに少しでも障害当事者の意思を読み取れる可能性があるならば良いことではないか」というものもある。もちろんこの意見が少しでも障害当事者の意思を汲み取ろうとする善意から発せられていることは理解できるし、そうした心情には多少なりとも共感できる部分もある。しかし、私はこの立場も取らない。何故なら、FCが仮に誤った手法であった場合、二つの甚大な悪影響があるからだ。

 一つ目は、障害者の周囲の人間を傷つける可能性があること。1990年代のアメリカでは、FCによって数十件もの虚偽の虐待の告発がなされ、何の罪もない多くの障害者家族が計り知れない社会的・精神的ダメージを被った(注3)。これはFCに含まれうる介助者の恣意性が実害を伴って顕在化した事件と言えるだろう。

 二つ目は、より重要な点だが、障害当事者本人の尊厳を踏みにじっている可能性があることだ。障害当事者が意思を表出する手段は、何も言語的なものだけとは限らない。表情、体の動き、声、全てが重要なシグナルである。現に、FCに依らずとも、それらを丁寧に読み取ることで、可能な限り本人の意思を汲み取ろうと日々地道に取り組んでいる介助者はたくさんいる。

 FCという極めて疑わしい手法に時間を割くことで、前述のような丁寧な関りがおろそかになりはしないだろうか。その結果、重要な意思決定が本人の意図しない形で行われているのだとしたら、非常に憂慮すべきことである。

 また、仮に本人の意思が全く読み取れない場合でも、本人にとって最善と思われる決定を周囲が周囲の責任において行うのと、本人が思っているかどうかわからないことを「本人が言ったこと」にしてそれを理由に行うのでは、結果的に同じ決定をするのでも全く違う。後者は、あえて強い言葉で言わせてもらえれば、一人の人間への冒涜である。

注2……FCの有効性に関する実験をメタ的に分析した論文は、 Jacobson, Mulick, & Schwartz(1995) や Mostert(2001) 等いくつもある。

注3……代表的な例として、ウィートン事件が挙げられる。1992年、16歳の自閉症の少女ベッツィの介助者であったジャニス・ボイントン氏は、FCによって得られた内容に基づき、ベッツィの家族であるウィートン家がベッツィに対し性的虐待を行っているとの虚偽の告発を行った。同氏は後に誤りを認め、事件に至る経緯についての介助者側からの貴重な証言を残し、FCに警鐘を鳴らしている。

■なぜそれでも多くの場所でFCが続くのか

 とはいえ、やまゆり園に限らなければ、ネットで「指筆談」と入力して検索すると分かる通り、多くの場所でFCの取り組みや勉強会が現在進行形で行われていることが分かる。なぜ人々は、科学的根拠に乏しいFCにここまでこだわるのだろうか。

 ふと、あるテレビ局のディレクターをしている友人がこぼしていた話を思い出す。彼は、FCに傾倒していく障害者家族の深層心理に焦点を当てた番組を作りたいと提案したが、残念ながら企画が実現することは無かったという。

「なんで皆そんなに『何かができる』ことにこだわるんだろう。なんでそう思いたがるんだろう」

 彼が心底不思議そうに口にした言葉が、今でも私の耳に残っている。

 ただ私は、障害によってできないことをどうしても「できる」と思いたい親・支援者の心理には心当たりがある。というより、私の両親がまさにそのような人物であった。

■私の障害を、両親は受け入れられなかった

 私の両親は、私が脳性麻痺で歩くことができないと告げられた時、それを受け入れることができなかった。そこですがったのが、前述のドーマン法という民間療法によって障害を「治す」という道であった。

 0歳から12歳ごろまで、毎日毎日、朝から晩まで「訓練」という名の虐待が続いた。具体的には、頭上梯子というぶらさがり器のような器具を使って歩かせる、ひたすら高這いをさせる等である。これらには回数やタイムのノルマがあって、それを達成するまでは泣こうが喚こうが決してやめることは許されない。

 できない場合は容赦なく殴られ、罵倒される。ひどい時には家の外に叩き出されて数時間放置されたり、食事を与えてもらえなかったりする。1か月間風呂もシャワーも許されなかったことはざらである。また、食事の際は特殊な器具を使って無理やり立ったままの状態に常にさせられたし、体に良いということで天井から逆さ吊りされたりもした。

 そうした訓練でボロボロになっても休めるわけではない。「お前は障害者で人より劣っているのだからその分何かで突出して天才にならないと生きていけない」ということで、訓練の合間には異常な早期教育を受けた。主には数学で、小学校に入る前から中3くらいの内容をやらされていた。他にも物理、プログラミング、3Dモデリング、絵、新聞作りなど、父が思いつくことは何でもやらされた。しかしどのようなことであれ訓練と同じで、与えられた課題をこなせなければ容赦なく殴られ罵倒されるので、楽しいとは感じられなかった。

 小学校にいる間だけは訓練から解放されるのだが、「学校に行くと馬鹿になる」という親の方針で、週3日しか通わせてもらえなかった。

 当然ながらそんなことをいくらやったところで、いつまでたっても歩けるようにもならないし天才にもならない。「それはお前にやる気が無いからだ」ということでまた殴られるのだが、これは半分正しい。意外かもしれないが、そもそも生まれつき歩けない私は、「歩けるようになりたい」とか「歩けなくても代わりに天才になりたい」などと自分から思ったことは一度も無いからだ。

「歩けるようになりたいか?」と聞いてくるのはいつも親だった。私は間髪入れずに「はい、歩けるようになりたいです」と答える。でないと殴られるからだ。私が歩けるようになりたいのではなく、親が私を歩けるようにしたいだけであるにも関わらず。

■「何かをできること」にこだわる価値観から、私たちは自由か?

 FCによって意思疎通を図ろうとする支援者、ドーマン法や異常な早期教育にこだわった私の両親、そして植松被告。三者に共通する根本的価値観は、「障害者が何かをできること」にこだわり、そこに「命の価値」を結び付ける考え方である。端的に言えば、三者とも、障害者に最も近い場所に居ながら、優生思想を内面化してしまっている人達であるということに他ならない。

 もちろん、三者の悪辣さが同程度だというつもりは全く無い。それでも、内なる優生思想を克服しない限り、誰もが私の両親のようになり得るし、もっと言えば植松被告のようにもなり得ることを肝に銘じるべきだ。

 長くなったが、そろそろ冒頭で示した問いに対する私なりの回答を示したい。「意思疎通できない障害者には生きる価値がない」に対する応答は、決して「いや、この人達も意思疎通できているかもしれない」であってはならない。「意思疎通の可否と生きる価値は関係がない」であるべきだ。前者と後者では、言っていることは全く違う。ここを絶対に間違えてはいけない。その理由は、ここまでお付き合いいただいた皆様にはお分かりであろう。

 私は、全ての命に価値があるという信念を曲げない。日々の生活の中で常に色々な物差しで優劣を判定され続けるこの社会では、私もついその信念を見失いそうになる。それでも、いくらきれいごとだと言われようと、命の価値にいかなる留保条件もつけたくない。そのきれいごとが力を失った社会では、もはや誰も生きることを許される保証はない。私も、そして、あなたも。

(ダブル手帳)

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