「UNOがしたい」が叶わない 難病を抱える子どもたちの闘病生活の“しんどさ”

「UNOがしたい」が叶わない 難病を抱える子どもたちの闘病生活の“しんどさ”

TSURUMI子どもホスピスHPより

「もし明日死ぬとしたら、何がしたい?」

 私達が会話のきっかけを掴むためにしばしば口にする、ごくありふれた他愛ない質問だ。しかし、絵空事ではなく、その問いに現実として直面しながら闘病生活を送っている子どもたちが日本に約2万人いることをご存じだろうか。彼らの多くは制度の狭間で十分な支援を受けられないでいる。

 大阪市鶴見区にある「TSURUMIこどもホスピス(以下、TCH)」は、LTC(Life-threatening condition)と呼ばれる生命を脅かす病気を患う子どもたちがやってみたいと思うことを叶え、その子たちの人生がより自分らしく、豊かなものになることを目的とする施設である。病状や必要性、緊急度を基準とする審査で承認された子どもたちとその家族は無料で利用できる。日中の個別利用や宿泊などの利用形態、内容、頻度などを、それぞれの利用者と密にコミュニケーションしながら、一緒になって練り上げていく。

■一人の子どもが「雪で遊びたい」と

 筆者が初めてTCHを訪れた時、子どもたちはちょうど中庭に降らせた人工雪で雪遊びをしていた。地域のライオンズクラブの協力を得て、企画から2年間の月日をかけ、実現にこぎつけたのだ。そのきっかけとなったのは、今は亡き一人の子どもが「雪で遊びたい」と口にしたことだったという。発案した子ども本人が雪を見られなかったことを残念に思う一方で、その子の思いが受け継がれ、そのようにして痕跡を残していくことに不思議な感慨も覚えた。

 TCHを訪れた人は、病院にありがちな柵や貼り紙、ユニフォームや名札などが全く見当たらないことや、明るく開放的な雰囲気に驚くだろう。それもそのはずで、客観的に望ましい状態を目指す「治療」を目的とし、規則は多く楽しみは少なくなりがちな「病院」と、TCHとは明確に異なるからだ。

 私も長い間障害児病棟に入院していたので、病院の窮屈さは多少なりとも分かるつもりだ。したいことをする自由は全くと言っていいほど無い。ゲームをすることはおろか、中庭に散歩に出ることすら厳しく制限されていた。看護師や療育担当者の機嫌を損ねないよう常に神経をすり減らすうちにどんどん自発性を奪われ、次第に無気力になっていったものだ。

■「みんなでUNOがしてみたい」が叶わない

 もちろん全ての病院がこうではないだろうが、程度の差こそあれ、普段は不自由な環境下で辛い闘病生活を送っている子どもたちだからこそ、TCHでは、むしろ病院ではできないような好きなことを安心して目一杯楽しむことで、束の間でも「生まれてきてよかった」と思えるような充実した時間を過ごしてもらおうというわけだ。

 それは「みんなでUNOがしてみたい」とか「チョコフォンデュがしてみたい」など、決して大掛かりなものとは限らない。それでいて病院では難しいことである。もしTCHがなければ、そんなささやかな願いですらも叶えられないまま一生を終えることを強いられたかもしれない。それどころか、家族に負担をかけまいと気遣うあまり、自らの希望を口にできない子どもたちも少なくない。

 TCHには決まった支援メニューはなく、子ども一人一人の希望を本人に直接聞き、それを最大限尊重することを徹底している。「よりよく生きる」とはどういうことなのか、それを決めるのはそれぞれの子ども達自身にしかできない。そして、人生で叶えたい願いの形は子どもたち一人一人みんな違っていて、どれ一つとして同じものはないのだ。そのため、子どもへの関わり方が公的な制度体系に縛られることがないよう、行政からの補助金は受けず、運営資金の全てを民間団体や個人からの寄付で賄っている。

■「子どもホスピス」の取り組みに心惹かれた理由

 筆者は11月にNHKの関西ローカルの番組「かんさい熱視線」をきっかけにTCHを知って以来、毎月の寄付をしたり、現地を数回訪問させていただいたりしている。ちなみに、同番組は2月15日(土)16:15から、Eテレで全国放映される予定だ。

 社会問題は無数にあり、またそれらに対する取り組みも数多くある。その中で、何故とりわけこの活動を支援していきたいと思ったのか。「子どもたちが可哀想だと思ったから」などでは決してない。真の理由は、TCHを知ったことで、はじめて本当の意味で自分が生まれてきたことを肯定的に捉えることができたからだ。誰の命にも、自分のような救いようのない人間の命にも価値があって、生きていこうとすること自体に意味があることを心の底から信じさせてくれたからだ。そして、この気持ちをより多くの人に味わってもらいたくなったからだ。

 とはいえ、大仰な美辞麗句を並べるだけなら誰にでもできる。薄っぺらい建前論ではなく、いくらかでも意味のあるものとして受け取ってもらうには、やはり上記の心情に至った経緯やその背景を具体的に述べる必要があるだろう。

■行政による公共サービスでさえ、決して「無償」ではない

 ところで、普段私たちが人に対して何かをしてあげる時、直接的にせよ間接的にせよ、何らかの見返りを期待するものだ。労働や財・サービスをして金銭をもらうのが一番わかりやすいが、そうした金銭を介したものに限った話ではない。例えば一見無償で人に奉仕したり親切にしているように見える場合でも、やはり心のどこかで無形の対価を求めてしまうものだ。

 それは、将来的リターンへの期待かもしれないし、相手の歓心や恩義や感謝かもしれないし、自らの自己顕示欲や名誉欲の充足かもしれない。私たちは無意識のうちに、行為の対象となる相手からどれだけの便益を引き出せるか、冷徹に値踏みしているのだ。つまり、人間を目的ではなく手段として扱ってしまっている。言い換えれば私たちは、互いに相手を便益を引き出すための道具として扱っているということだ。

 行政が行う公共サービスも、決して無条件の一方的贈与ではない。子どもに対する教育や医療・福祉を例に取ってみても、それを行うことで将来子どもたちを優良な労働力・納税者にしようという側面があることは否定できない。また、健康で優良な国民を育成することは、将来的な生活保護費・医療費・介護費などの社会保障関係支出の削減につながるという思惑もあるだろう。筆者は元公務員であるが、税金を投入する以上、コストに対してどの程度のリターンがあるかは一定程度必ず精査されるし、目的指標の設定がない政策というものはありえない。

 かつて、特定の人々を「生産性が無い」と貶める発言で炎上した政治家がいたが、これは人間を目的ではなく道具として見る意識が顕在化した分かりやすい例だ。しかし、どのような物差しを用いるかに多少の違いはあるにせよ、私たち一人一人も、公共セクターも、人間を多かれ少なかれ道具としての有用性で測る傾向があることは心に留めておくべきだろう。

 しかし、TCHのスタッフやボランティアは違う。この施設の利用料は無料であり、行政からのインセンティブもない。もちろんいくばくか給与を得ている人もいるだろうが、少なくとも、子どもの一つ一つの願いを叶えてあげることが、直接的に経済的利益を生み出すわけでは全くない。

 それだけではない。残念なことではあるがTCHの子どもたちは、平均的な子どもたちと比べ、成人前に亡くなってしまう可能性が圧倒的に高い。従って、優良な労働力や納税者を育成するためにやっているわけでもない(注)。ではなぜ、あそこまで必死に子どもたちの願いを叶えるために奔走できるのか。雪遊びを行うために、60万円の費用と、2年という歳月、そして膨大な労力を注ぎ込むことができるのか。

 それは、子どもたちを、人間を、命を、手段ではなく目的として捉えているからだ。たとえ短く終わってしまう命であっても、その子の主観的な喜びが増えること、人生が充実したものになることに、意味があると本気で信じている。それはとりもなおさず、命自体に価値を認めているということに他ならない。

■「自分はいないほうがいい人間なのだ」という負債感が軽くなった

 唐突な自分語りで恐縮だが、筆者は介護・医療費など合わせて月間数十万円の税金を投じられることでかろうじて生かされている。公務員時代でも手取りは約20万円、ライターの今では収入は更に低く、結果として納税額は雀の涙ほど。「生産性」で言えばマイナスもいいところだ。口では「関係ない、なんともない、気にしない」と強がってみても、心の隅では「自分がいることで社会に迷惑をかけている」「自分は本当はいないほうがいい人間なのだ」という負債感を抱えてきた。しかし、TCHと関わるようになってから、そうした心の中の錘が少しずつ軽くなりつつあることを実感している。

 TCHのスタッフからもらった贈り物が自己肯定感のようなものだとすれば、TCHの子ども達から学んだのは「生きる」ということに対する真摯な姿勢だ。

注……もちろん、全ての子どもが幼少期に亡くなるわけではない。また、誤解の無いように言っておくと、TCHでは子どもの「成長」も非常に重視している。ただ、それは子どもたちを有用な人間に育成するために型にはめて躾けるような姿勢とは全く異なる。

■思い返すと、「生産性」云々よりも恥ずかしいこと

 彼らは、人間の生が有限であることや、生には苦しみが付きまとうことを私たちにはっきりと示している。しかしそれは決して彼らのみが抱える問題ではなく、程度の差こそあれど、私たちも共有している問題である。当然、筆者自身もいずれは死にゆく存在であるし、障害・虐待・度重なる手術など、人並みには辛い人生も送ってきたつもりである。しかしTCHの子どもたちは、病に起因する苦痛や死への恐怖に直面しながらも、いや、それだからこそより一層、短いかもしれない生涯の一瞬一瞬を楽しむことに真剣だった。

 生と死は表裏一体である。筆者がお会いしたご遺族の一人は、お子さんが、亡くなる直前まで、最期までやりたいことを伝えてくれたことに感銘を覚えたという。子どもたちは「今を生きる」を意識した時間をTCHで過ごしている。

 翻って自分はどうか。日々の暮らしの中で、与えられた命の有限性に思いを馳せ、本当に自分がやりたいことを真剣に考える機会を、どれだけ持てていただろうか。「つらい、死にたい」と口癖のように嘯きながら、その実、死を直視したことなど一度も無かったのではないか。裏返せば、一人の人間として、命の主体として、自分の生に積極的な意味を見出そうとすらしてこなかった。「生産性」云々よりも、そちらの方こそよほど恥ずべきことだったように思う。

■彼らがやりたいことをやるために

 この文章が「文春オンライン」に掲載されれば、私には原稿料としていくばくかが支払われるはずだ。今回だけは、その全額を握りしめてこどもホスピスに持って行こうと思う。それは、月数十万円の税金を使って生きている私の、その何十分の一かの、偽善と自己欺瞞と名誉欲と自己顕示欲にまみれたお金かもしれない。しかし全く無意味だとも思わない。そのお金がどう使われてもいい。絶対に無駄になることは無いと確信しているからだ。死と表裏一体の生に誰よりも真摯に向き合い、命の価値を体現する子どもたち。彼らがやりたいことをやる。そのために費やされるよりも有益なお金の使われ方を、私は知らない。

 この世は逆説に満ちている。自分の意思で生まれて来た人はいないが、生まれてきたことに意味を見出せるのは自分以外に居ない。生に意味を見出すためには自分の意志が必要だが、その姿勢を他者から学ぶこともある。生に意味を見出そうとする姿勢を教えてくれた他者は、死と隣り合わせの子どもたちだった。TCHは直接的には、純粋にその子どもたちや家族の生を支えるための施設である。しかし、そういった施設が世の中にまぎれもなく存在しているという、まさにその事実自体が、今日も見知らぬ誰かを、社会を、私たちを、いくらか救ってくれている。

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※ 雪遊びの費用は数百万円ではなく、60万円でした。お詫びして訂正いたします。(2020/02/19? 13:53)

(ダブル手帳)

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