青アザや生傷が絶えない10年間……家庭内暴力に困り果てた家族がとった行動とは

青アザや生傷が絶えない10年間……家庭内暴力に困り果てた家族がとった行動とは

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「特効薬はありません」ひきこもりの家族に私たちはどう接すればいいのか から続く

 仕事に就かず、外出もせず、何年も自分の部屋に閉じこもったまま……そうした状態で日々を過ごす「ひきこもり」が全国に115万人存在するという驚愕のデータが厚生労働省から発表された。

 政府も対策に躍起になっている。しかし、ひきこもりになったきっかけが1人ひとり異なるだけに、全ての人に対して万能な解決策は存在しない。対策を推し進める一方で新たに「8050問題」が発生したり、東京都練馬区でひきこもりの長男を元農林水産省事務次官が殺害するという痛ましい事件が起こっていたりするのが実情だ。

 そんなひきこもりについて、私たちは実際のところどの程度理解しているのだろうか。ひきこもりの治療に携ること10年、精神科医として現場で蓄積したノウハウをまとめた1冊『 改訂版 社会的ひきこもり 』から、ひきこもり息子の家庭内暴力を解決に導いた1つのモデルケースを紹介する。

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■「避難」――ある家族の場合

 ここでは私の経験したケースにもとづいて、実際にどのようにことを運ぶべきかを解説しておきましょう。ケースはもちろんフィクションですが、細部はすべて実例にもとづいて合成したものです。

 もう10年以上もひきこもりと家庭内暴力が続いている事例でした。もちろん本人は、治療場面にはあらわれません。暴力の対象は、もっぱら母親と、五歳年下の高校生の弟でした。暴れはじめるきっかけは、常に些細な不満からです。母親の食事の支度が遅い、弟がTVゲームにつきあってくれない、風呂場のタオルが新しいものに交換されていない、自分がいないところで家族が楽しそうに笑っていた、そういったことの1つひとつが引き金となって、激しい暴力がはじまります。長男の部屋の壁はもう穴だらけで、無傷な家具は1つもありません。とりわけ被害を受けやすい母親は、青アザや生傷が絶えない状態です。

■ひとしきり暴力をふるったあとの謝罪

 しかし本人は、ひどく暴れた後ほど、泣かんばかりに母親に謝ります。母親の体を気遣い、もう絶対にしないと誓います。「そんな態度をみていると、つい不憫に思えてしまい、そばにいてなんとかしてあげたいと思う」と母親はいいます。このような献身的母親は少なくないのですが、まさにこうした関係こそが、さきにもふれた「共依存」関係にほかならないことは、あらためて強調するまでもないでしょう。

■本人に隠れて「避難」の準備が始まる

 長男の生活はかなり不規則で、起きている間中母親をそばにかしずかせて世話をさせます。おかげで母親は外出もままならず、ほとんど四六時中、長男に付き従わなければなりません。慢性的な寝不足が続き、家から緊張が絶えたことがありません。会社員の父親は、一度暴力を止めに入って手ひどく逆襲されてからは、ほとんど仕事に逃避してしまっている状態です。治療者は何度となく避難を勧めましたが、母親は次男のことを気遣って、逃げるに逃げられない状態が続いていました。

 しかし次男が大学進学を機に単身生活をはじめることが決まって、母親はやっと避難勧告に応じようという気持ちになってくれました。私はさっそく両親と会って、避難の計画を立てることにしました。父親の協力が得られるかどうかが心配されましたが、避難したい旨を話すと、喜んで協力してくれることになりました。

 長男の暴力は、ほとんど毎日続いていましたが、かなり強弱の波がありました。つねったり小突いたりする程度の弱いものが何日か続くかと思えば、突発的に母親の首を絞めたり、背中を強く蹴ったりするような、激しい暴力が起こります。避難にはタイミングが重要ですから、まずそれを慎重にはかることにしました。

■母親が救急車で運ばれる事態に

 ある日、大きな爆発が起こりました。弟が家を出てから、母親は毎週日曜日、洗濯や食事の差し入れに弟のアパートを訪れていました。その日はたまたま帰宅が遅れて、長男は苛立っていたようでしたが、母親が帰宅するなりつかみかかり、頭を強く殴りつけました。相当ひどい殴りかただったため、母親は一時目の前が暗くなり、その場に倒れ込んでしまいました。

 倒れた母親をみて、長男はあわてはじめました。日曜日で家にいた父親を呼び、「すぐ救急車を呼べ、息子に殴られたといって呼べ!」と怒鳴りつけました。父親はいわれるままに救急隊に連絡し、自分も行くという息子を強く制して留守番を頼み、近くの救急病院に母親を運びました。病院で診察を待つ間、父親は私と連絡を取り、私は電話で次のように指示しました。

「お母さんの容態がさほどではなくとも、是非入院させてもらいたいと頼んでみてください。それがダメなら、ともかく今夜だけでも泊まれる場所を確保してください。ご長男には早めに電話を入れて、しばらく入院することになると伝えてください。それから、くれぐれもお説教だけは、絶対にしないでください」

■会いに行きたいと哀願し続ける長男

 幸い、母親は軽い脳震盪と皮下出血程度で、入院の必要はないとの判断でした。父親はとりあえず近くのホテルに部屋を取り、そこから長男に電話を入れました。本人はひどく動揺しているようでした。

長男「俺のせいで母さんが死んだり、障害が残ったりするようなら、俺は自首して刑務所に入る!」

父親「母さんはそれほど悪くはないが、ともかくしばらく入院して、いろいろ検査することになりそうだ」

長男「じゃあ俺が母さんの付き添いをするから、病院を教えてくれ!」

父親「お前に殴られたことを先生に話したら、当分は面会させない方がいいといわれた。だから入院先は教えられない」

 本人は、絶対にもうしないから教えてくれと懇願しましたが、父親は私の指示通り、頑として応じませんでした。

 翌日、母親が家に電話を入れました。長男は昨晩は一睡もできなかったようでした。

長男「母さん、ごめんなさい。まだどっか痛む? いつごろ帰って来れる?」

母親「怪我のほうは大したことないようだけど、いろいろ検査があるから、まだ帰れそうにないの。しばらくは父さんと二人でがんばってね」

長男「わかった。本当にごめんなさい。もう俺のこと嫌いになった? もう見捨てる?」母親「そんなはずないでしょう。でも先生の指示で、しばらくは面会もできないから、そのかわり電話は毎日するから」

 長男はそれでも母親に許しを乞い続け、会いに行きたいと哀願し続けて、なかなか電話を切らせてくれません。母親はやむを得ず、話の途中で受話器を置いてしまいました。これも私が「電話は定期的に入れること、ただし必ず5分以内で切ること」と指示した通りでした。

■父親と二人暮らしを始めると……

 母親は結局、しばらくは次男のアパートに同居することになりました。父親はそのまま自宅に戻り、長男と二人だけの生活がはじまりました。いざ二人だけになってみると、長男は意外なほど素直に家事もこなすようになり、暴力はすっかり鳴りをひそめてしまいました。母親は1日おきくらいに電話を入れ、長男もそれを待ちこがれているようでした。

 そのような生活が二週間ほど続いた時点で、私は再び両親と会いました。ここまでの経過は、ほぼ私の予想どおりの展開だったので、私は次の指示を出すことにしました。

■お母さんが退院する当日のこと

「そろそろ退院しないと不自然ですが、まだ家には戻れません。今戻れば、必ず暴力は再発します。お母さんがこんど電話する時は、次のように伝えてください。『検査の結果、大きな異常はなかったので、退院することになった。でもお母さんは、今度の入院中にいろいろ考えた。実は専門家にも相談してみた。もうお母さんは暴力はこりごりだ。あなたが本当に暴力を振るわなくなるまで、お母さんは家に帰らないことにした。お父さんも賛成してくれた』

 きっとご本人は怒るでしょうが、これは『相談』ではなくて『宣言』なのです。ご本人が泣こうがわめこうが、けっして譲らないでください。ここで折れたら、これまでの努力はぜんぶ水の泡です」

 母親は同意し、さっそく次の電話で、私の指示通りのことを長男に伝えました。はじめ長男は「もう絶対に絶対に暴れないから戻ってきてほしい」と、何度も懇願しました。それでも母親の決意が変わらないとみるや、案の定怒りはじめました。

 長男「お前は俺を見捨てるのか。俺をこんな風に育てた責任もとらずに逃げるってのか。弟ばかり可愛がりやがって。そんな卑怯者はもう帰ってくるな!」

 母親「お母さんはあなたに10年間も叩かれながらお世話をしてきたから、もう償いは十分にしたよ。これからは貸し借りなしでいきます。しばらくは帰れそうにないけど、でもそこはお母さんの家でもあるから、気が向いたら帰るし、電話も入れるよ」

■希望を捨てず本人の変化を待ち続けた家族

 長男はそれでも、絶対帰ってくるな、もう二度と電話するな、といきり立っていましたが、母親はそれには取り合わず、電話を切りました。

 その後も母親は定期的に電話を入れ続けました。はじめは電話を拒否していた長男も、数日後にはまた話すようになりました。本人の話題は相変わらずで、「帰ってきてほしい」と懇願するか、「もう帰ってくるな」と怒鳴るかのいずれかでした。面と向かうとすくんでしまって長男のいうがままだった母親も、電話ではほぼ理想的に対応してくれました。必ず定期的に電話を入れ、本人に何をいわれようと冷静に応じる。これをひたすら繰り返すことが、ここでの重要なポイントでした。

 別居生活が二カ月ほど続いた頃、長男の態度も次第に鎮静化してきました。もうあまり怒鳴るようなこともなくなり、変わって皮肉や嫌みが増えてきました。「帰ってきてくれ」ともいわなくなり「逃げちゃった人は気楽でいいねえ」「あんたの家なんだから、帰りたければ好きにすれば」といった調子になってきました。そろそろ次の対応に移る時期です。私は母親に、時期をみはからって、ちょっと帰宅してみるようにと勧めました。

■母親が帰宅を決めたとき……長男は何を思うのか

 母親は最初、かなりためらっていました。無理もありません。十年ぶりに暴力のない平和な日々を味わってしまうと、もとの生活の異常さや恐怖が、いっそう強く感じられるものです。しかしこれは母親の救済であると同時に、長男の治療が最終目的なのです。私はかなり強硬に母親を説得して、やっと同意を取り付けました。

 家を出て二カ月とちょっと経ったある日、母親はいつものように長男に電話を入れ、ごく当たり前のように「明日用事があるから家に行く」と伝えました。長男は驚いたようでしたが、「わかった」といったんは答えました。しかし少し話すうちに、だんだん腹が立ってきたのか、「逃げ出したヤツが今更なんだ、帰ってくるなといったろう、家に来ても絶対に入れないから覚悟しておけ!」などといいはじめました。しかし母親はあくまでも冷静に「そういわずに、久しぶりに一緒にご飯でも食べましょう」と応ずるのみにとどめました。

 翌日、意を決して母親が家に帰ってみると、長男は出かけていていませんでした。母親を締め出すわけにもいかず、かといって顔を合わせるのもしゃくにさわるということでしょうか。母親は少し長男を待ってみましたが、夕方になっても戻らないので、あきらめて帰りました。しかし、何度かそういうやりとりを繰り返した後、長男はやっと母親を迎え入れる気持ちになったようでした。「父さんのつくる飯はもう飽きたから、たまには夕飯つくりに来て」という言葉が、そのサインでした。

■三カ月ぶりの親子の対面

 その日ようやく、三カ月ぶりに母親は長男に対面しました。本人は照れくさそうでした

 が、あまり憎まれ口も利かず、母親のつくった夕飯をきれいに平らげると、そのまま自分の部屋に入ってしまいました。これを機会に、母親は頻繁に帰宅するようになりました。やがて私の指示を受けて、何日か泊まることも試みました。長男は時おり「逃げられるやつは気楽でいいよなあ、俺みたいなダメ人間には、逃げ場もないもんなあ」などと嫌みをいうことはありましたが、もう二度と暴力を振るうことはありませんでした。

(斎藤 環)

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