天災で崩れても、やっぱり名城! 「石の要塞」と呼ばれる丸亀城を行く

天災で崩れても、やっぱり名城! 「石の要塞」と呼ばれる丸亀城を行く

4段の石垣の上に天守が鎮座する丸亀城

 丸亀城は、城ファンが「1度は訪れてみたい」とこぞって名を挙げる名城です。最大の魅力は、総高で日本一の高さを誇る石垣。JR予讃線の車窓から見える姿はヨーロッパの古城を連想させるほどで、「石の要塞」というべき威容を誇ります。

 丸亀城の石垣は、山麓の内堀から山頂の本丸まで4段に重なり、高さは合計すると60メートル以上に及びます。標高66メートルほどの山に曲輪をひな壇状に配置しているため、それを囲む石垣や建造物がおのずと密集し、石垣が折り重なって見えます。実際に訪れると、城の面積に対して石垣が多く、その迫力に驚くでしょう。

■讃岐の支城として築かれ、廃城を経て復活

 丸亀城を築城したのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のもとで乱世を生きた生駒親正です。讃岐(現在の香川県)を与えられた親正は、高松城(香川県高松市)を本城とし、西讃岐を押さえる支城として1597(慶長2)年から丸亀城を築きました。1602(慶長7)年には、ほぼ完成したとみられています。

 1615(元和元)年、江戸幕府がひとつの領国に1城のみを残してそのほかを廃城とする「一国一城令」を公布すると、讃岐では高松城が残され、丸亀城は廃城となりました。本来ならばここで城の歴史は終わりますが、丸亀城は異例の復活を遂げています。1641(寛永18)年、お家騒動(生駒騒動)により讃岐が分割され、丸亀藩が新たに成立したのです。

 5万石で山崎家治が初代丸亀藩主となると、1643(寛永20)年から丸亀城は現在の姿へと大改修されました。現在残っている石垣は、ほとんどが山崎時代の築造とみられます。1645(正保2)年に再築を願い出る際に幕府に提出した「正保城絵図」を見ると、縄張はほぼ現在と一致します。天守は山崎氏の断絶後に城主となった京極高和が、1660(万治3)年に完成させました。天守の瓦に京極氏の家紋である四つ目結紋がみられるのはそのためです。

■幕府から資金援助を得て再築か

 注目したいのは、家治が幕府から銀300貫の資金援助と参勤交代の免除を受けて丸亀城を再築していることです。例外的な措置が取られたのは、1637(寛永14)年の島原・天草一揆を受け、幕府が瀬戸内の島々に潜むキリシタンの蜂起を警戒したためでしょう。

 幕府は一揆軍の籠城を防ぐべく、キリシタンが多い九州や瀬戸内海沿岸の城を強化し、廃城になっていた拠点的な城の破却を徹底しています。瀬戸内海に面した丸亀城が築かれた背景には、そうした一面もありそうです。1670(寛文10)年まで、城の大手(正面)が現在とは逆の南側にあったのも、そのためでしょう。

■豪雨と台風で惜しくも大崩落

 そうした背景で築かれた立派な石垣でしたが、残念なことに2018年7月の西日本豪雨とその後の台風で大崩落してしまいました。崩落したのは、三の丸南西隅の坤櫓跡と、その下段にある帯曲輪の西面・南西面です。丸亀城は、山頂に本丸を置き、山麓に向かって曲輪がひな壇状に配置されています。城の南側は大きく3段になっていて、そのうち中段にある三の丸を囲む石垣の隅角部と、帯曲輪を囲む石垣の一部が崩れました。

 崩落は3段階に及びます。まず、7月7日の大雨で帯曲輪南面の石垣が崩落。これに少なからず影響を受けたのか、10月8日、台風により帯曲輪西面も崩落しました。石垣の内部に詰められた栗石が少しずつ落ちて石材の隙間が広がり、石垣が歪んだ結果、隅角部が外側に押し出されるようにして大崩落したようです。崩落範囲は南北約18メートル、高さ約16メートルに及びます。

 ここで終わればよかったのですが、さらに翌日、三の丸坤櫓跡の石垣も崩落してしまいました。崩落範囲は東西約25メートル、南北約30メートル、高さ約17メートル。三の丸の石垣は帯曲輪を土台にするように積まれているため、帯曲輪の石垣が崩落したことで安定性を失い崩れたのでしょう。三の丸と帯曲輪の石垣は以前から危険性が認識され、ようやく修復工事に着手する直前でした。工事を目前に控えていただけに崩落は悔やまれます。

■滑り落ちるように崩落か

 この場所のこの石垣だけが大きく崩れた理由は、地形に大きな関係がありそうです。丸亀城が築かれている山の地盤は、北側の3分の2が安山岩です。城内を散策していても、本丸をはじめ城内の至るところには岩盤が露頭していて、安山岩を削って曲輪がつくられていることがわかります。

 しかし、この岩盤層は南西方向へ傾斜しており、三の丸や帯曲輪のある城の南側3分の1は、風化花崗岩の上にかなり盛り土をして曲輪が構築されています。よって、雨水も南西方向に流れやすく、盛り土の上に積まれた南側の石垣は北側よりも崩れやすくなるようです。

 細かな崩落のメカニズムはこれから検証されますが、排水機能を含め、こうした地形条件の解明も、今後の修復工事計画において重要なポイントになりそうです。

■美しい石垣をよみがえらせるために

 今回の崩落で、解体が必要な石材は合計で約6000個(三の丸3300個、帯曲輪2700個)とされます。帯曲輪の石垣は昭和50年代に1度修理しており、修理した石材にはその際に位置を示す石材番号をつけてあります。資料も残っているため場所を特定でき、ほぼ元通りに積み直せる見込みです。三の丸石垣の石材に番号はついていませんが、滑り落ちるように崩落したため、位置は特定しやすいと見込まれています。

 本格的な復旧工事は、2024年3月31日まで、5年間の工期で計画されています。総事業費は31.5億〜35.5億円、7割が国の補助金で賄われる見込みですが、残りの3割は丸亀市の負担です。市は石垣復旧シンボルマークの作成や募金箱の設置、募金付きグッズの販売などを行っています。

 ふるさと納税制度「ふるさと丸亀応援寄附金」でも寄付が可能で、使い道も「日本一の高さを誇る丸亀城石垣を修復する事業」を選択できます。市民の誇りであり日本の宝でもある丸亀城の石垣が、美しさを取り戻し、後世に残ることを祈りたいと思います。

撮影=萩原さちこ

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 丸亀城をめぐる旅の模様は、「文藝春秋」5月号の連載「一城一食」に掲載しています。

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(萩原 さちこ/文藝春秋 2020年5月号)

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