80歳になった王貞治、アラーキー、立花隆…「幻の1940東京五輪」世代、なぜ巨匠ばかり?

80歳になった王貞治、アラーキー、立花隆…「幻の1940東京五輪」世代、なぜ巨匠ばかり?

5月28日に80歳の誕生日を迎えたノンフィクション作家の立花隆。この1940年生まれには、各界の巨匠がズラリと揃っている ©文藝春秋

 先週発売の『週刊文春』で、定年延長問題の渦中にあった黒川弘務・東京高検検事長がこの緊急事態宣言の発令下に賭けマージャンをしていたと報じられ、訓告処分されるにいたった。政官界にも向けて放たれる“文春砲”だが、そのルーツをさかのぼれば、『文藝春秋』1974年11月号(10月発売)に掲載され、当時の田中角栄内閣を退陣へと追い込んだ2つの記事……児玉隆也「淋しき越山会の女王」と立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」へと行きつくのではないか。

■「田中角栄研究」の立花隆が80歳に

 2つの記事は、時の権力者にそれぞれ女とカネの両面から迫ったものだが、そこでとられた手法は大きく違った。「淋しき越山会の女王」が、児玉と少数精鋭の記者たちが組んで、関係者に直接接触して証言を得るという伝統的な取材手法を主に用いたのに対し、「田中角栄研究」は、大勢のスタッフを動員して、会社や土地の登記などといったデータを徹底的に集め、それらを分析・整理することで田中のカネづくりのからくりをあきらかにしたものだった(このあたりの経緯は塩田潮『田中角栄失脚』※1にくわしい)。

 立花はこの記事によって一躍注目され、その後ロッキード事件で刑事被告人となった田中角栄を追いながら、ノンフィクション作家として多岐にわたる仕事を手がけていく。『日本共産党の研究』『中核VS革マル』『農協』など組織に切り込んだ作品のほか、『宇宙からの帰還』『サル学の現在』『脳死』など宇宙や生命科学の分野でも多くの著書がある。きょう5月28日は、立花の80歳の誕生日だ。

■「ブルー・ライト・ヨコハマ」「また逢う日まで」「強い気持ち・強い愛」……あの作曲家も80歳に

 きょう80歳を迎えたビッグネームにはまた、作曲家の筒美京平がいる。もともとレコード会社の洋楽ディレクターだった筒美は、作詞家の橋本淳の紹介で、すぎやまこういちから作編曲の手ほどきを受け、1966年に作曲家としてデビューした(会社は翌年に退職)。

 ヒットメーカーと呼ばれる作曲家や作詞家はたいていの場合、ヒット曲がある時期に集中しているのに対し、筒美は各年代でヒットを連発してきた。60年代末にいしだあゆみの歌う「ブルー・ライト・ヨコハマ」でヒットメーカーとして周知されると、70年代には日本レコード大賞を受賞した尾崎紀世彦「また逢う日まで」、ジュディ・オング「魅せられて」のほか、南沙織「17才」や太田裕美「木綿のハンカチーフ」などといったアイドル歌謡も多数手がけ、80年代に入ってからも近藤真彦や小泉今日子、少年隊など次々と登場するアイドルに曲を提供してヒットを飛ばし続ける。さらに時代は下り、2000年代にもTOKIOの「AMBITIOUS JAPAN!」などのヒットを生んだ。この間、日本の大衆音楽は、歌謡曲からニューミュージック、さらにはJポップへとめまぐるしく変化したことを思えば、ここまで息長く活躍しているのは驚異的である。一体、その秘訣は何なのか? いまから約30年前、筒美はミュージシャンの近田春夫との対談で、一時代を築いた作家がだんだん売れなくなってしまう理由を問われ、こんなふうに答えていた。

《どうしても人間、人に認められたら、そこをもっと追求したいと思うのが自然な流れじゃない。(中略)やっぱり、だれだって自分のやりたいことを追求すればさ、結果として相手に自分を押しつける感じになっちゃうでしょ。そうなると、どうしても時代と合わない部分が出るし、流行歌としてはちょっと、という結果になる》(※2)。

 筒美のやり方はこれとはまったく反対で、《自分が“新しくいる”ためには、何かを捨てていかないといけない》として、時代の潮流を常に採り入れてきた(※3)。デビューしてしばらくは自ら編曲もしていたが、70年代末から80年代にかけてディスコサウンドやテクノポップが登場すると、メロディをそれら新しいサウンドに乗せるべく、シンセサイザーなどを駆使できるアレンジャーに託すようになった(※4)。

 80年代末にはバンドブームが起こり、その影響でヒットチャートから職業作曲家の名前が消える。そのころにはレコード会社と作曲家がチームをつくって歌手を育てるという体制も崩れていた。そんな変化のなか、筒美は、アーティストと1対1で向き合いながら曲をつくるようになる。90年代にはNOKKO「人魚」や小沢健二「強い気持ち・強い愛」など、Jポップのアーティストとのタッグでヒットを生んだ。70歳をすぎてからも、声優の竹達彩奈に曲を提供するなど、新しいジャンルに挑み続けている。

■「王貞治が痔になったらどうするんだ」

 立花や筒美と同じ1940年5月生まれには、彼ら以外にも各界で大きな足跡を残した人物が目立つ。米メジャーリーグ記録を上回る通算868本塁打の大記録を持つ王貞治は5月10日(戸籍上は20日)、写真家の“アラーキー”こと荒木経惟(のぶよし)は5月25日に誕生している。王は、中華料理店を営む中華民国籍の父と日本人の母の次男として、現在の墨田区八広に生まれた。荒木も同じく東京の下町、台東区三ノ輪の生まれ。写真を撮り始めたのは、下駄屋だった父の影響だという。高校は進学校だった都立上野高に通い、千葉大卒業後、電通のカメラマンを経てフリーとなった。なお、上野高の同級生には、水戸一高から転入してきた立花隆がいた。

 荒木は全盛期の王を撮影したことがある。このとき、王が甲子園にも出場した早稲田実業時代には投手だったと知った荒木は、フリーバッティングが終わったあとに、ピッチャープレートに座ってほしいと頼んで撮らせてもらった。 

 これには球団の広報担当者から「王が痔になったらどうするんだ」などと怒られたが、本人には気に入られたのか、自宅にまで誘われる。家ではさらに風呂に入っているところまで撮らせてくれた。そんな王について荒木はのちに振り返って、《野球をしているときの彼は、もちろん気の張ったいい顔だったけど、仕事を離れたら離れたで、とても肩の力が抜けたいい顔をする。そういう人はなかなかいないよ。やっぱり天才なんだよ、あの人。好きだなア》と語っている(※5)。

■「巨人・大鵬・卵焼き」の大鵬も

 王は1959年に巨人に入団し、4年目の1962年に一本足打法に開眼して以来、ホームランを量産するようになり、長嶋茂雄との“ON砲”で巨人の黄金時代を築いた。やはり60年代から70年代にかけて国民的スーパースターだった横綱・大鵬も1940年5月29日生まれである。その全盛期には「巨人・大鵬・卵焼き」という流行語も生まれたが、大鵬はこの言葉に複雑な思いを抱いていたという。人以上の努力を重ねて横綱になったという自負があった彼としてみれば、団体と個人を同じレベルでは語れないと思っていたからだ(※6)。

■「幻の東京五輪」の年に生まれた“1964年の銅メダリスト”

 王や大鵬たちが生まれた1940年は、『日本書紀』に記された神武天皇即位の年を元年とする紀元(皇紀)でいえば2600年にあたった。大鵬の本名は「納谷幸喜」だが、その名は皇紀にちなんでつけられたという。この年には東京でのオリンピック開催も、さかのぼること4年前、1936年に決まっていたものの、翌年に始まった日中戦争の激化にともない1938年に返上された。

 この幻の東京オリンピックについては、これまでにさまざまな本や映像作品などでとりあげられてきた。1980年にはNHKでラジオドラマ『昭和15年まぼろしの東京オリンピック』、1988年にはテレビ朝日でドキュメンタリー『今日蘇る幻の東京オリンピック』が放送されている。いずれも河内紀(かなめ)という脚本家・ディレクターが手がけた番組だ。河内もまた1940年生まれで、このオリンピックに関心を抱いてきたという。「紀」という名前も皇紀2600年に由来する(※7)。

 河内と読みは違えど同じ漢字一字の名前を持ち、昨年亡くなったドイツ文学者・エッセイストの池内紀(おさむ)も1940年生まれだった。ほかにもこの年に生まれた著名人をあげていくと、元国会議員の田中直紀(田中角栄の娘婿、田中眞紀子の夫)、写真家の篠山紀信、『1940年体制』という著書のある経済学者の野口悠紀雄など、思いのほか名前に「紀」の字の入る人物が目立つ。全員が全員、皇紀にちなんでの命名ではないのかもしれないが、あながち偶然とも思えない。そういえば、やはり同年生まれで、1964年の東京オリンピックのマラソン銅メダリストである円谷幸吉の名前にも「こうき」が入るが、こちらはもともと彼の父親が、自分の名前がいやで若い頃に幸吉と名乗っていたのを息子に与えたもので、皇紀はとくに関係ないようだ(※8)。

■第一線で活躍する巨匠たちに忍び寄る病魔

 上にあげたうち篠山紀信は、同い年の荒木経惟と長らくライバルと目されてきた。90年代初めには、写真の虚実をめぐり2人が激しく論争を繰り広げたことが思い出される。60年代に活動を始めた両者は、いまだに第一線で活躍を続けている。

 ただ、エネルギッシュに活躍してきた1940年生まれにも病魔は忍び寄る。大鵬は引退後、一代年寄となり大鵬部屋を開いたのち、1977年に脳梗塞で倒れた。それでも懸命のリハビリによって克服する。この入院中にリハビリを見てくれたインターン生と、それから25年ほどして医師として再会したときには、《自分はガンになりました。だけど、大鵬さんの一生懸命な姿を思い出して頑張り、最近、博士号を取ったんです》と御礼を言われたという(※6)。その大鵬も、2013年に心室頻拍のため、72歳で死去した。没後、国民栄誉賞が贈られている。

 荒木経惟は70歳前後に前立腺がんや軽い脳梗塞に見舞われ、2013年には利き目だった右目を失明した。それでも、この体験から着想を得て、撮った写真の右半分を黒く塗りつぶしたり、カメラのレンズをわざと壊して撮影したりといった独自の手法で作品を発表し続けている。

■「だんだん死が怖くなくなってきた」

 王貞治は2006年3月の第1回ワールド・ベースボール・クラシックで日本代表の監督を務め、見事優勝へと導く。その直後、胃がんが見つかり、福岡ソフトバンクホークスの監督をシーズン途中で休業すると、全摘出手術を受けた。術後は順調で、翌2007年には監督に復帰し、翌シーズンまで務めあげた。ホークスではダイエー時代よりじつに14年間監督を務め、退任後も会長として球団運営に携わる。戸籍上の誕生日である今月20日には、今夏の甲子園の中止決定を受け、《出場する学校、選手たちだけでなく日本国民の心のよりどころであった大会が中止となって、出場経験者としてこんなに寂しいことはありません。選手たちには次の目標に向かって新たな一歩を踏み出してほしいと思います》とのコメントを寄せた(※9)。

 立花隆も、2007年に膀胱がんが見つかり、手術を受けた。のちには、このときの体験を記録するとともに、がんを総合的に論じた『がん 生と死の謎に挑む』(NHKスペシャル取材班との共著)を著している。もともとさまざまな生活習慣病を抱えており、がん手術の翌年には、今度は心臓の冠動脈に梗塞が見つかり、再び手術する。病気とつきあううちに、だんだん死が怖くなくなってきたという彼は、2015年には『死はこわくない』を上梓した。

 今年1月に文春新書より刊行した自伝『知の旅は終わらない』では、《僕自身としては、もうそれほど生きのびるための努力をしようとは思っていません。自然に死ねる日がくれば、死ぬまでと思っています》と述べつつも、別のページでは、かねてより構想してきた未完の作品のうち『立原道造《最期の旅 盛岡から長崎へ》』『形而上学』の2冊がとくに気がかりだと未練もうかがえる(※10)。このうち『形而上学』は、metaphysics(形而上学)とは、現代のphysics(物理学)の最先端の知見の上に立つべきものだという持論から構想され、すでに初めの20行ほど書いてあるという。もともと理系志望で、文学青年でもあった立花は、執筆活動を始めてからというもの文系と理系をまたぐような仕事をあまた手がけてきた。その集大成となるであろう著書が、無事に完成することを祈りたい。

※1 塩田潮『田中角栄失脚』(文春新書、2002年/朝日文庫、2016年)
※2 『FM fan』1988年2月8日号
※3 『日経トレンディ』2013年7月号
※4 『日経トレンディ』2013年8月号
※5 荒木経惟『いい顔してる人 生き方は顔に出る!』(PHP研究所、2010年)
※6 大鵬(納谷幸喜)『一流とは何か』(KKロングセラーズ、2008年)
※7 橋本一夫『日本スポーツ放送史』(大修館書店、1992年)
※8 沢木耕太郎『敗れざる者たち』(文春文庫、1979年)
※9 「full-Count」2020年5月20日配信
※10 立花隆『知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと』(文春新書、2020年)

(近藤 正高)

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