肺結核、徴兵検査、夜這い……なぜ村の秀才青年は残酷すぎる「津山三十人殺し」を決行したのか

肺結核、徴兵検査、夜這い……なぜ村の秀才青年は残酷すぎる「津山三十人殺し」を決行したのか

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21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは から続く

< 21歳の青年が猟銃と日本刀で30人を襲撃……82年前の世界的事件「津山三十人殺し」とは  より続く>

 1935年の初めごろ、巡査採用試験か小学校教員検定試験を志して勉強を始めたが、病気が再発。経過がはかばかしくなかったところへ、「実母らの死因が肺結核にあったことを聞知したらしく、彼自身もまたその自覚症状に照らして同病にかかったものと自認するに至った」。その後も地区の医師から「左肺尖(せん)カタル」と診断され、自分で「開放療法」を実行したが、「肺結核をもって絶対不治の病と盲断する本人の信念はあまりにも強く、自己の症状を実際の程度以上に重患のごとく思い込んでいたように考えられる」と鹽田検事は書いている。

■「当時の町民の結核に対する嫌悪の気持ちは並大抵でなく……」

 戦前の結核の猛威については、連載「昭和の35大事件」の「三原山投身繁昌記」解説でも触れた。終戦直後までは国民的な疾病で、1943年の約17万人をピークに死者は毎年10万人超え。1935年以降は死因の第1位を占めていた。特に若い世代での感染は強烈で、「20〜24歳の死因の半分までが結核だった」ともいわれる。そのせいか、当時は一種ロマンチックなイメージさえ伴っていたという。睦雄も地域では秀才の誉れ高く、農家の青年にしては色白。イメージに合っていたのかもしれない。

 それに対して地域の反応はどうだったのか。戦後、精神病理学の立場から現地調査を繰り返してまとめられた中村一夫「自殺 精神病理学的考察」が触れている。「部落には肺病患者が多いというわけではないが、肺病と癩病(ハンセン病)に対しては極端に嫌悪する風習があった。現加茂町長三島氏は健康対策に非常に熱心な人で、例えば保健所の結核検診の際、昭和37年の受診人員は全町民の99%であったとのことであった。三島町長の語るところによれば、当時の町民の結核に対する嫌悪の気持ちは並大抵でなく、結核は遺伝であると信じ、肺病患者が住んでいる家の前を通るときは、口や鼻をハンカチでおさえて通るような状態であったとのことである」

■犯行の引き金になった、徴兵検査での「不合格」

 1937年3月、満20歳の成人を迎えた睦雄は正式に家督を相続。同年5月には徴兵検査に臨んだ。

「津山事件の展望」は、睦雄が「軍医より十分な静養をなすよう注意せられ、かつ書類に肺結核患者と記入せられたのを見てますます悲観し、自己の死期近きにありとなし、ここにかつて抱いた青春の夢はもちろん、闘病の気力や生きて行く希望すらも喪失し、全く自暴自棄の虚無の闇底に落ちていった」と書く。

「津山三十人殺し」は、睦雄が西加茂村役場に届けを出しに行った際、同じ地区の住民である兵事係職員に「わしは肺病ですけん、よろしくお頼みもうしますがの」と言ったと書いている。そして5月22日に津山市で行われた徴兵検査で軍医に結核と宣告されると、泣き出しそうな顔で「軍医殿、ほんまに結核ですけんの? もういっぺんよく診てつかあさい」と懇願。軍医に怒鳴りつけられると、服を着ながら「わしはやっぱり結核じゃった」と、同時に検査を受けた同じ村の男に話し掛けたという。それまで「肋膜炎」や「肺尖カタル」と診断されていたが、肺結核とは思っていなかったということだろうか。身体検査を総合した結果は「丙種」だったとされる。

 徴兵検査の結果は「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」の5種類に分かれ、乙には第1種と第2種があった(のちに第3種が加わる)。一ノ瀬俊也「皇軍兵士の日常生活」などによれば、1927年以降、甲種は「身長155センチ以上で身体強健な者」、乙種は「甲種に次ぐ者」とされた。甲種と第一乙種が「合格」で、その年12月以降に入営する「現役兵」として徴兵された。丙は「現役に適さざる者」など、丁は「兵役に適さざる者」などで、戊種は翌年再検査の対象。受験者の約半数が甲と乙だった。兵役には現役、第一・第二補充兵役、第一・第二国民兵役があったが、丙種は第二国民兵役に服するとされる。熊谷直「帝国陸海軍の基礎知識」は「丙種は徴集を免除されて国民軍の要員になるが、平時は名目的であった」としている。要するに「不合格」ということだ。

 睦雄にとって徴兵検査「不合格」は大きなショックだったに違いない。吉田裕「日本の軍隊」は「この徴兵検査は重要な『人生儀礼』の場でもあった」と書いている。「『人生儀礼』とは、人が生まれてから死ぬまでの間に、身体の発達や精神的な成長に応じて体験しなければならない儀礼や儀礼的な意味合いを持った試練のことを指す。若者たちは、徴兵検査を終えることで初めて『一人前』の男とみなされたのである」。同書によれば、戦前の農村社会を記録した本には「男子は徴兵検査がすむか除隊してくると、結婚話が盛んに出る」という証言があるという。

 彼は「兵隊に行く」ことをそれまでの閉塞状態を一挙に解決する転機にしたかったのではないだろうか。「それ以来、彼の性格は一変し、極端に猜疑心深く、事物に対する認識ないし判断もはなはだしく偏奇(常識外れで風変わり)し、ことごとに偏執的な考え方をなし、ことに道義的感情が鈍り、極端に主我主義、自己中心主義的傾向を示し、自己の行為に対する反省力薄弱となり、その行動常軌を逸し、無暗に近隣の婦女子に手を出し始め、ために甚だしく部落民から嫌悪せらるるに至った」と「津山事件の展望」は認定している。

 そのころ、睦雄は田畑と山林を担保に600円を借り、7月にはその金のうちから津山市の銃砲店で猟銃1丁を購入。警察から狩猟免許を取得した。その後、別の猟銃と交換して改造。毎日のように射撃練習をするようになった。やはり徴兵検査の失敗が犯行の引き金になったのは間違いないようだ。

■自由恋愛だった「夜這い」という文化

「婦女に挑み、情交を迫り、応じないと恨み、応じても関係を継続しないと憤激し、いつしか世間にもうわさが広がって冷笑されるようになった」(岡山県警察史下巻)。睦雄を「色情狂」とした住民もいた。その背景として事件当初から言われていたのが、現場となった地域の性的な風土、具体的には「夜這(ば)い」の風習だ。

「この事件発生の有力なる原因の1つと思われる男女関係の淫風存否の問題である」と「津山事件の展望」で鹽田検事も書く。「でき得る限りの調査をしたのであるが、部落外の者が大部分、この悪習の存在を肯定するに反して、部落民の大半及び駐在巡査はその風習の現存することを否定し去って、この事件によって暴露されたいろいろの男女関係弛緩の事実は、この犯人の都井睦雄を中心とする例外のことたるにすぎないと主張し、ただ2、30年前まで夜這いの弊風があったことを認むるにとどまるのであるが……」。地元は徹底して否定したということだ。

「夜這い」とは「男が夜間、女のもとに通うこと。若者組の支援と承認を得ている場合もあった」(「精選日本民俗辞典」)。民俗学の泰斗・柳田国男は「男女の呼び合う(ヨバウ)歌垣の名残り」で中世以前の「通い婚」の一種と考えた。いまでは信じられないだろうが、家々がほとんど戸締りをせず、明かりもなかった時代、男が夜、女の家に忍び込んで性的交渉を持つ。地域によってそれぞれ「取り決め」や「条件」が違ったが、農村や山村などでほぼ全国的に行われていたとされる。

 立石憲利「岡山の色ばなし 夜這いのあったころ」も「相手の意思を無視して忍び込むという例もなくはなかったが、多くは事前に相手の同意を得て訪ねたもので、それも性交渉が必ず伴うというものではなかったようだ」とした。「ヨバイで関係ができ、結婚に至る例もあり、自由恋愛による結婚であり、性的には自由であったが無規律ではなかった」

 この後、夜這いの文化は「大正から昭和にかけての青年会運動や官憲の取り締まりでほぼなくなり」(「精選日本民俗辞典」)とあるが、清泉亮「夜這いはかくして消えた」(「望星」2017年2月号所収)は事件現場と同様、中国山地の山中に位置する山口県周南市出身の男性の証言として「戦後も長らく夜這いが活発だったことを覚えている」と書いている。地域によって実態は異なっていたのだろうか。いずれにしろ、事件との関連性ははっきりしない。

■「克服されない肺結核に対する不安の感情である」

 遺書はあるものの、睦雄が死亡した結果、さまざまな分析が登場したものの、犯行の動機については遂に未解明のまま事件は終わった。「自殺 精神病理学的考察」によれば、事件前、睦雄の観察・指導を続けていた西加茂村担当の今田武司・加茂駐在所巡査(当時)は、睦雄が自殺を決意した原因に次の3つを挙げたという。

(1)?? ?徴兵検査に不合格だった

(2)?? ?祖父、両親とも肺結核で死亡し、彼の家系がいわゆる「結核筋(すじ)」(「労咳筋」とも呼ばれた)として嫌悪・白眼視され、自分でも再起不能と考えた

(3)?? ?恋愛、性生活が円満に行われず、うとんぜられた

 さらに「津山事件報告書」の中で内務省防犯課情報係の和泉正雄・係官は「犯行原因(動機)を主観的方面よりこれを見ると」として列挙している。

(1)?? ?犯人の変質的性格
(2)?? ?疾病よりの厭世観
(3)?? ?離反せる女に対する復讐心

 また「客観的諸原因」として次を挙げた。

(1)?? ?風紀頽廃
(2)?? ?部落民の自警心の欠けている点
(3)?? ?凶器の種類及び入手の容易なる点
(4)?? ?地理的関係(僻陬地=片田舎=たりし点)

「自殺 精神病理学的考察」は「客観的諸要因」のうち風紀頽廃は「部落の人たちは全面的にこれを否定している」、「特に指摘されるほどの乱れはなかったようである」とし、その他の項目についても「彼が殺傷事件を起こさねばならなかった原因ではない」と断言した。さらに、主観的原因3項目のうち、(2)は「殺人の動機というより、むしろ自殺しようと考えるに至った動機とみるべきであり」、(3)も「離反した女を殺害する動機であっても、33人殺傷の動機ではない」と断じた。(1)についても「原因・動機に密接に関連することではあっても、原因・動機そのものではない」とした。

 そして、第5の客観的原因として睦雄の性格と心理構造を取り上げている。「大量殺人者であった彼は、決して残忍性がその根本的な性格・特徴をなすものではない」と強調。「彼の犯行後の遺書は強い罪悪感で満たされており、憎しみよりもそれが強く強調されているのを見ても、冷酷無情な性格が彼の性格の根幹では断じてない」「むしろ繊細な、情味ある、神経の細い性格の持ち主を想起する方がよほど自然である」と主張した。さらに「一貫して彼に支配的に作用したものは、長い間悩まされ、脅かされ、しかも克服されない肺結核に対する不安の感情である」「彼の生涯は全て結核との闘いであり、屈辱・不安・絶望の連続であった。この慢性的な体験刺激が、彼の先天的な性質と相まって、彼の性格・精神現象に大きな影響を与えたものと考えられる」。

「自殺 精神病理学的考察」は最後に、「冷たい目で見られ」「悪口を言われ」「嫌悪、白眼視され」「憎しみさげすまれ」「つらく当たられ」るのは全て肺結核のためだと考えたとすれば、それは性格特徴からの妄想的固執傾向だと指摘し、こう結論づけた。「彼が肺結核に対して長い間、激しい抵抗を感じており、それに関連して関係妄想が発展し、遂には極めて苦しい内的葛藤のもとに自殺を決意し、道連れ的大量殺人事件に移行したのである」。これが事件の全てを解明する答えではないが、傾聴に値する意見だろう。事件直後からこれまで、こうした見方がほとんど顧みられなかったのには理由がありそうだ。

■「自分が決行しようとする犯罪との間に、常にある葛藤があった」

「自殺 精神病理学的考察」も指摘しているが、睦雄の3通の遺書には国家や時代を意識した記述がある。「小さい人間の感情から一人でも殺人をするということは、非常時下の日本国家に対してはすまぬわけだ」(自宅に残された宛て先のない遺書)。これについて「津山事件報告書」に収録された「三つの遺書に現は(わ)れた犯人の倫理観」で林隆行・岡山地裁検事局思想係検事は、「犯人のどこかに、国民的道徳がメスのようにではないが光っていて、自分が決行しようとする犯罪との間に、常にある葛藤があったことだけは確かである」と評した。姉宛ての1通には「こういうことは日本国家のため、地下にいます父母には甚だすまぬことではあるが……」、「同じ死んでも、これが戦死、国家のために戦死だったらよいのですけれども、やはり事情はどうでも大罪人ということになるでしょう」という部分も見られる。林検事はこれを「犯罪史上稀有の大罪人といえども、生を皇道日本に受くる以上、国民的感情に捉われずにはいられないのである」とした。

 しかし、一方で「犯人は徹底的に自己中心であり個人主義的である。彼はあくまで利己主義的にものを解釈している」、「全く非社会的な犯人の生活態度は、前述した犯人の国民的心情と決して一致するものではない」と断言。「言葉としては『国家』を論じ『非常時』を論じてはいるが、その言葉ほどに犯人は『国家』を考え『非常時』を考えたかどうか」、「そういうふうに問題を進めてみれば、われわれの誰一人、犯人の倫理を信用することはできない」と切り捨てている。

■ここまでの大事件があまり詳しく報道されなかったのは……

 この検事の姿勢に時代が表れている。時は日中全面戦争に突入して2年目。事件の前々日、5月19日には、戦略上の要地である徐州が陥落し、新聞紙面は沸き立っていた。津山事件を取り上げた松本清張「闇に駆ける猟銃」(「ミステリーの系譜」所収)は「新聞は連日のように敵兵の大量死者数を発表し、日本軍隊の勇敢を報道していた。1人の機関銃手が数十人の敵兵を皆殺しにしたという『武勇伝』も伝えられた。これが睦雄の心理に影響を与えていなかったとはいえない」と言う。睦雄の“武装”したスタイルも、前年の「少年倶楽部」に掲載された「珍案歩哨」という中国戦線の兵士を描いた漫画がヒントだったとされる。

 ここまでの大事件があまり詳しく報道されなかったのはどうしてだろうか。それは、国家にとって津山事件のような出来事は銃後の国民の在り方からみて、絶対にあってはならなかった。士気に影響するからだ。新聞の扱いはそうした国民に共通する意識を反映していたように思える。地域にとってもそうだった。あまりの異様さ、残虐さに、社会的背景などを追求するより、容疑者に異常のレッテルを張って、なるべく早く一件落着させることが優先されたのだろう。そうしてこの事件は、どこか現実離れした悪夢のような殺人伝説として言い伝えられてきたのではないだろうか。

 1975年に刊行された「加茂町史本編」は事件についてささやかにこう記述している。「戦争に非協力的な者は非国民よばわりされ、徴兵検査での甲種合格は成年男子の華であった。このような風潮の中で都井睦雄事件も発生したのであった」

【参考文献】 
▽「岡山県警察史下巻」 岡山県警察本部 1976年
▽加太こうじ「昭和犯罪史」 現代史出版会 1974年
▽筑波昭「津山三十人殺し 村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか」 草思社 1981年
▽「津山事件報告書」 司法省検事局 1939年=事件研究所編著「津山事件の真実第3版」(2012年)収録
▽石川清「津山三十人殺し最後の真相」 ミリオン出版 2011年
▽中村一夫「自殺 精神病理学的考察」 紀伊国屋新書 1963年
▽吉田裕「日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実」 中公新書 2017年
▽吉田裕「日本の軍隊」 岩波新書 2002年
▽「精選日本民俗辞典」 吉川弘文館 2006年
▽赤松啓介「夜這いの民俗学」 明石書店 1994年
▽立石憲利「岡山の色ばなし 夜這いのあったころ」 吉備人選書 2002年
▽土井卓治ら「岡山の民俗」 日本文教出版 1981年
▽清泉亮「夜這いはかくして消えた」=「望星」(東海教育研究所)2017年2月号所収
▽松本清張「闇に駆ける猟銃」=「ミステリーの系譜」(中公文庫1975年)所収
▽「加茂町史本編」 加茂町 1975年

(小池 新)

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