出てくる言葉は「お母さん」と「わかんない」……清水ちなみが語る「左脳の4分の1が壊死した私」

出てくる言葉は「お母さん」と「わかんない」……清水ちなみが語る「左脳の4分の1が壊死した私」

清水ちなみ ©Ichisei Hiramatsu

後頭部にピキッ!「OL委員会」の清水ちなみが語る「出産の3倍痛い」くも膜下出血の顛末 から続く

 出てくる言葉は「お母さん」と「わかんない」の2語だけ。旦那がお見舞いにきてくれるたびに、うれしくて、私はたくさんしゃべりましたが、「お母さんがわかんないからお母さんで、わかんないからお母さんでお母さんなの」。旦那にはまったく理解できなかったはずですが、それでも何だかおかしくて、ふたりでゲラゲラ笑っていました??。(全2回の2回目/ #1 より続く)

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■「手術はイヤ」

 検査結果はくも膜下出血でした。

「すぐ開頭手術しないと命に関わります」と脳外科の先生。私は「手術はイヤです」と言ったつもりでしたが、あれよあれよという間に手術室へ。連絡を受けた旦那が病院に到着した時には、準備万端整っていたそうです。

 私は手術用のガウンを着せられ、お医者さま数人と看護婦さん数人がベッドを取り囲んでいました。あとは旦那が手術の同意書にサインするだけです。

 旦那は、手術台に横たわる私にこう言いました。

「さっき脳外科の先生から説明を受けた。いま手術を受けないと、大変なことになるそうだ。死ぬこともあるし、水頭症で認知症になるかもしれないって。俺はそんなのはイヤだから、手術を受けてほしい。でも、どうしても手術を受けるのがイヤなら、君の気持ちは尊重するから」

 私は薬で少し朦朧としていたので覚えていませんが、「手術はイヤ」と言ったそうです。

「本人が拒んでいるのに、僕が同意書にサインすることはできません。その結果、何が起ころうと僕が責任をとります」

 と、旦那が言うと、お医者さまは信じられないという顔をして、何度も説得してくれたそうです。

■左脳の4分の1は壊死してしまいました

 なんでも「俺は手術なんかしない。そのまま死ぬ」なんて言っていた人が、いざ脳の病気で倒れると、「早く手術をしてくれ」と言うそうです。だから私たちが手術を中止して自宅に戻ったあと、お医者さまは「本当に帰った人は初めてだ」と言ったとか。

 今思えば、私は大馬鹿者ですねえ。その後、信頼できる先生に相談したところ「手術を受けた方がいい」と説得してくださり、1週間後に手術を受けることにしました。面倒くさい患者で申し訳なかったです。

 結局、手術は成功したものの脳梗塞が起こり、私の左脳の4分の1は壊死してしまいました。

 脳を休ませるために睡眠薬が入れられ、私は集中治療室で3日間眠り続けたそうです。その間、とても嫌な夢ばかりを見ました。しかも長い夢で、なぜかお医者さんが沢山でてきました。

■旦那の目が4つに見える

 目が覚めたのは4日目の朝。

 お見舞いにきてくれた旦那はマスクをつけていましたが、なぜか目が4つありました。

 まだ酸素吸入器をくわえていた私は、声を出すことができませんでしたが、心のなかで「なぜ、目が4つ?」と思っていました。左右の目のピントが合わなかったみたいです。

 私はそんな状態でしたが、旦那は、私の目を見て、むしろ安心したそうです。

「俺を見て誰だかわからないような状態になることが一番怖かった。それに比べれば車椅子だろうが寝たきりだろうがずっとマシ」と、あとになってから当時の心境を教えてくれました。

 何日か経つと、酸素吸入器が外れた私は声を出せるようになりました。でも左脳の4分の1が壊れているので、言語障害が出た。失語症というそうです。

 頭の中には言いたいことがたくさんあるのに、出てくる言葉は「お母さん」と「わかんない」の2語だけ。

 旦那がお見舞いにきてくれるたびに、うれしくて、私はたくさんしゃべりましたが、

「お母さんがわかんないからお母さんで、わかんないからお母さんでお母さんなの」。

 旦那にはまったく理解できなかったはずですが、それでも何だかおかしくて、重病人と医療機械がズラリと並ぶ集中治療室で、ふたりでゲラゲラ笑っていました。

■自分の名前の漢字も読めず

 経過は順調で、手術から1週間後には集中治療室から一般病棟へ移りました。

 私の病名はくも膜下出血、脳梗塞、失語症。右手も動かないし、握力ゼロ。足も右半身も鈍い。感覚がないので右だけスリッパがすぐどっかへいっちゃう。視野が欠けているので、歩いているといきなりガンッとぶつかる。部屋のテレビも2つあるようにダブって見える。他人の目が4つに見える状態は半年ぐらい続きました。

 この頃の心境を思い出すと、「あれまー」です。

 乱暴な言い方かもしれませんが、薬はイヤだとか、大量に飲み食いするとか、私は好きなようにやって来たので悔いはありません。

 脳梗塞になると足が悪くなる人が多いそうで、6ヶ月の入院中、3〜4回病棟を移りましたが、私のように失語症になった人は1人いるかいないかでした。

 2ヶ月後、私は大きなリハビリテーション病院に移ります。

 私の左脳は、4分の3は残っているはずなのに、何もわからない。右も左も、湯呑みも急須も、トイレも鍵も、電車もバスも使い方が思い出せず、全てが初めての経験。赤ちゃんから再出発って感じですね。服を脱いでお風呂に入るとか、右手が使えない状態で洗濯バサミを取る方法とか、この病院ではあらゆることを教えてもらいました。

 数も言葉も文字もわからない。部屋には私の名札が貼ってありましたが、自分の名前の漢字も読めず、初めて見る記号みたいでした。

 なかでも一番難しかったのはひらがなです。これは、私が特別苦手だったということではなく、一般的に、失語症になった人には「ひらがな」が難しい。だからリハビリの先生は患者に最初に漢字を覚えさせるんです。面白いですね。

■料理の記憶だけは残っていた

 土日はリハビリがないので、土曜の昼から旦那が車で迎えに来てくれて、子供といっしょに自宅ですごしました。

 そして料理を作りました。「塩ってなに?」とは思うものの、なぜか料理だけは出来るものもあったのです。

 例えば卵とトマトの炒め物。コツはトマトを炒め、そのあと一旦鍋を洗うこと。そのあとまた油をひいて、溶き卵を入れて炒めるのですが、長年作っていた得意料理だったからかもしれません。

 鍋でご飯を炊くことも出来ました。私は30代から炊飯器を使わずに鍋でご飯を炊いていたのですが、そういう記憶は残っているんだなあと思いました。

 日曜日の夜には病院に帰ります。そして月曜日から金曜日まではリハビリをする。病院食が口に合わず、私はどんどん痩せていきました。やっぱりご飯は自分で作りたかったです。

■本1冊読むのには1年かかります

 当時、子供たちは小学校低学年と中学生。いま、高校生と社会人になった彼らとこの頃のことを話すと、「覚えてないけど、自分の意思を伝える分には困らなかった。だけどお母さんの言いたいことをくみ取るのはクイズみたいだった」と言います。いまでもそうですけどね。

 私が退院するとき、言語の先生は「日記ぐらいだったら書けるかもしれないけど」と言っていました。でも、実際には難しかった。本を読もうとしても、同じ行を何度も読んでしまって先に進めない。今でも、文字を読むとすぐ疲れてしまって、雑誌2ページぐらいでへとへとですし、語彙も乏しい。本1冊読むのには1年かかります。

 そんな私が、手術から10年たった今、何ヶ月もかけて初めて書いたのが、この原稿です。再び長い原稿が書けるようになるなんて、ちょっとあり得ない感じです。

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しみずちなみ/1963年東京都生まれ。青山学院大学文学部卒業後、OL生活を経て、コラムニストに。著書に『おじさん改造講座?OL500人委員会』(文春文庫)など。

(清水 ちなみ/週刊文春WOMAN 2020 春号)

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