なぜ韓国語で会話をする前には必ず「序列」を確認しなければならないのか

なぜ韓国語で会話をする前には必ず「序列」を確認しなければならないのか

※写真はイメージです ©iStock.com

 韓国語は日本語と同様に、「敬語」の表現が発達している言語だといわれる。日本語で敬語といえば話しかける相手への敬意をあらわすための表現だが、韓国語の場合は事情が違うという。韓国語が持つ「尊待」「下待」「平待」という3つの敬語システムは、自分と相手との「上下関係」を端的に表現するためのものだ。

 敬意を表すという点では違いが無いように思えるが、両者の間には大きな隔たりがあるという。韓国に生まれた生粋の韓国人の目から、韓国と日本の文化を比較し続ける著作家・シンシアリー。その著書 『「高文脈文化」日本の行間〜韓国人による日韓比較論〜』 (扶桑社)より、一部を引用する。

◇◇◇

■韓国の「敬語システム」に何が起きているのか

 本章でまず紹介したいのは、日本語と韓国語の差、韓国語ではうまく表せない日本語の特徴、特に「敬」に関する話です。

 韓国語も敬語が凄く発達した言語です。でも、他人に敬を伝えるために存在したはずの敬語システムが、いまでは、多くの人々を傷つけるようになりました。

 敬の話は、本書冒頭の「神」の話に?がります。なぜ日本は、これだけ多くの神様が人と一緒に暮らしているのか。なぜ日本には神々が宿り、神国と呼ばれるようになったのか。

 それは、人が「敬」において?をつかないからです。ご存じですか。「神に敬を示します」としながら人への敬を示さない人は、?つきです。物を大事に出来ない人は、人を大事に出来ません。人を大事にできない人は、神を大事に出来ません。神は、そんな人たちと一緒に住むことを望みません。?つきと一緒に住みたいと思う人はいないでしょう。だから、神様もそうは思いません。

 神と人間の関係は、そこまでかけ離れたものではありません。善悪で二分されていない日本の神様は、特にそうです。人間もまた、同じように二元論的に分けられる存在ではないからです。

 さあ、それでは、最近の韓国語の敬語システムに、何が起きているのか。そんな話に移りましょう。

■「尊待」「下待する」「平待」

 私が、「韓国では、敬語をちゃんと使わない人が多くて社会問題になっている」と言うと、読者の皆さんは、どう思われますか。皆さんの中には、「えっ? 韓国って敬語いっぱいあるでしょう?」「この前、韓国に行ってきたけど、普通に韓国人も敬語使ってましたよ?」と驚かれる方もいることでしょう。ビジネスなどの理由で韓国人と結構頻繁に話している方なら、韓流ドラマのファン・元ファンの方なら、特にそうでしょう。

 でも、これは本章だけでなく本書を通しての、ちょっとした「著者からのお願い(ハートマーク付き)」といったところですが、「ちゃんと使わない」からといって、「韓国語に敬語が無い」「韓国人は敬語をまったく使わない」という意味ではありません。普通にあるし、使うときは使います。仮にも儒教思想を信奉している韓国に、敬語がまったく無いはずがありません。

 ここで社会問題というのは、日本で言う一般的な敬語関連の常識とはかけ離れた形で、敬語システムそのものが歪みつつあり、個人的にはどう考えても悪い方向に向かっている、いわば「崩壊しつつある」、という意味です。

■相手への敬意のレベルによって3つに分かれる「待遇」

 敬語をまったく使わないから敬語システムが崩れることもあるでしょうけど、この場合、間違った形で使っての崩壊となります。文法が変わったという意味でもありません。ただ、実生活でその言葉を使う人たちが、自らの意志でその敬語システムを崩しています。

 言語において敬語というのは、決して人の上下を決めつけるためだけに存在するものではありません。そんなものは、真の「敬」の意味を実現できません。とはいえ、あまり話が複雑になると困りますので、言語においての敬語を、三つのレベルに分けてみましょう。せっかくですから、韓国でよく使う「尊・下」の字をそのまま用います。

 まず、始めに、「私」が「相手」に尊敬語を使う場合、私から相手への関係を「尊」に相応する「待」遇という意味で「尊待(ジョンデ)する」と言います。

 次に、「私」が「相手」を見下す論調の言葉を使う場合、私から相手への関係を「下」への相応の「待」遇とし、「下待(ハデ)する」と言います。

 最後に、「私」と「相手」が、同等な立場で、例えば友だち同士でタメ口で話し合う、または丁寧語など適切な敬語を使い合う仲なら、二人の関係は「平(ピョン)」とします。相応の待遇を「平待(ピョンデ)する」と言います。

■平待はあまり議論に上らない

 韓国語に知識がある方なら、「尊待と下待なら聞いたことあるけど、平待というのもあるのか」と思われるかもしれません。実はそこが、本書の内容とも密接に関わっている部分ですが、尊待語と下待語は韓国語関連でよく目にしますが、「平待」はあまり議論の対象になりません。平待語は「平語」とも言います。

 まとめますと、AとBの二人が会話するとして、A氏がB氏に尊敬語を使い、B氏はA氏に見下すような語調しかしないなら、AはBを尊待する、BはAを下待する、になります。AとBがこれといって上下区別なしに話し合う仲なら、それは平待し合う関係になります。分けようとすればもっと細かくできますが、本書での趣旨を論ずるにはこの三つのレベルで十分でしょう。

 ビジネス関係や、集団内の職位による関係、または会ったばかりの人との会話(会ったばかりの人にタメ口をきく人はいないでしょう)を除外するなら、読者の皆さんの周辺には、どんな人がどんな人に対して、尊・平・下のうち、どんな語法、どんな論調を使っていますか。また、そのニュアンスはどうですか。

■韓国語の敬語は、「お互いの序列を証明する」身分証明書

 私が肌で感じた韓国語と日本語の敬語表現の差は、それらの方向性が、一方通行なのか、双方通行なのかにあります。韓国では、AがBを尊待すると、BはかならずAを下待します。AとBが尊待し合うことはまずありません。未成年の友だち同士でタメ口を使う(平待し合う)ことはもちろんあります。でも、本当にマブダチでもないかぎり、大人同士で「平」の関係で話し合う、お互いに尊敬語またはタメ口を使い合うことは、そうありません。

 どれだけ些細なことでも、どれだけ下らないことでも、かならずAとB、二人はお互いの序列、上下を決めます。そして、それをお互いに確認し、ある種の釘を打っておくために、序列の低い人は高い人に尊待語を、高い人は低い人に下待語を使います。言わば、韓国語での敬語は、「お互いの序列を証明する」ための、身分証明書のようなものです。これが、少なくとも「実用」の中での、韓国語と日本語の「敬」の本質的な差です。

 こう書いても、日本の皆さんにはピンと来ないでしょう。参考になればと思って、この問題に関する、専門家の寄稿文を一つ紹介します。著書や論文などで、韓国内の嫌悪(ヒョモ、相手へのヘイト表現)問題を指摘してきた、原州(ウォンジュ)大学の多文化学科キム・ジへ教授が、市民記者として「オーマイニュース」(2009年6月14日)に書いた寄稿文、「バンマル、彼らの身分社会」です。バンマルについては後述しますので、引用部分では普通に「タメ口」に訳しました。

■会話の前に自分と相手の「上下」を決める

<……韓国人は、人に会えば、まず年齢を聞く。言葉遣いをどうすべきかを決めるため、すなわち相手の名前に「氏」を付けるべきか、文章に「です、ます」を付けるべきかを決めるには、年齢を知る必要があるからだ。年齢だけではない。韓国語で相手と会話を始めるには、その前に、相手について知っておかないといけないことが、あまりにも多い。職業、教育水準、結婚したかどうか、親や配偶者の職業、経済的能力、乗っている車の種類、住んでいる街、着ている服、などなど。もちろん、男か女かも会話の前に知っておくべき重要な要素だ。

 職業といっても、韓国では全ての職業に貴賎があるため、その職業において、どれほどの職位にまで登ることが出来た人なのか、その点も知っておかなければならない。それらの項目で、これといって他人より優れたものが無かった場合、その人は、タメ口をきかれなければならない。私が「タメ口でいいですよ」と先にことわっておくことも無くはないが、ほとんどの場合、私にタメ口をきくかどうかは、私に話しかける人が一方的に決める。

 だからこそ、だろうか。他人より上を行くものが「年齢」しか無い人たちは、わずか1、2年差にも、ものすごく敏感に反応する。いや、数カ月、数日の差すらも、重要である。1月に生まれた私のような人は、その前の年の12月に生まれた人と友だちになるためには、「生まれた『年』はあなたより後ですが、早い時期(1月)に生まれましたので」と、かならず強調しておかなければならない。わずか数日の遅れで、その相手からずっと「下待」される関係にはなりたくないからだ……。

 いまの時代において、韓国語のタメ口というものは、社会においての関係ではなく、身分の違いを表す。カースト制度のように、社会全体の固定された身分を意味するものではない。代わりに、韓国には、個人単位で勝手に決める身分階級がある。誰もが、自分自身も含めて、周りの人を一列で並べて序列を付けた身分階級である。階級といっても、生まれ持っていたものでもないので、その階級を作る責任も、各自にある。なのに、明確な基準も無く、年齢、職業、性別等に応じて、自分の勝手で決めてしまう。それは、極めて個人的な決定ではあるが、実は社会レベルで存在する偏見をそのまま反映している。タメ口は、そうやって自分で作った自分の身分社会の中で、自分よりも低い立場の人にだけ使う言葉なのだ。朝鮮時代のような公式の身分制度はもう無くなったかもしれないが、タメ口を使うことで作られる身分社会は、日常と分離することができない、生活そのものになってしまったのだ……>

■日本語ができるようになって気付いた「敬語」の真の意味

 一言でいうと、「対等」の概念が無くなったわけです。社会レベルで、誰かは誰かの上で、誰かは誰かの下。そういう階級を作っておかないと、自分自身のアイデンティティーが見出だせなくなってしまったのです。しかも、かなり勝手な、言い換えれば「自分の基準にまわりの人たちを巻き込む」形であるものの、誰もが位階秩序に基づいて世界を見ているから、個人レベルでその偏見に逆らったところで、どうにもなりません。

 そして、その自分勝手な身分社会の身分証明書は、尊待か下待かの言語によって表れる、と。分かってはいたつもりでも、こうして書いていると、切なくなります。

■言語に優劣はない

 本書にも何カ所か同じ趣旨を書いておきましたが、言語に優劣はありません。信仰にも文化にも優劣はありません。韓国人が「ハングルは世界でもっとも優秀な言語だ」と主張するのと同じく、私も「日本語が世界でもっとも優秀な言語だ」と言うつもりは毛頭ありません。そもそも、話せる言語が日本語と韓国語しかない私に、世界でもっとも優れた言語がどうとかを言う資格もありません。

 本書ではしつこいほどに日本語と韓国語を比較していますが、それは「日本語ってば世界一優秀で他の言語なんかまじゴミ」「韓国語は低劣だよねー(ヒソヒソ)」と書くためではありません。ただ、私が「ありがとうございます」だけでは何かが足りないと思っていた、その「何か」について綴るための、過程です。

 そのために、「韓国ではこうでした」という展開になっているだけで、別に日本語が韓国語より「上」で、韓国語は敬語も無い、使わない、礼儀の無い野蛮人たちの「下」な言語体系だ、敬語崩れたハングル◯ね! そう言いたいわけではありません。それでは、私も「敬の一方通行」を世に散らかしているだけの、同じ穴のムジナになってしまいます。

■日本語が出来るようになって本当に良かった

 外国人が日本に来て、日本の文化にハマって、友だちに「日本では〜だけど、ボクの国では〜だったよ。私は日本のやり方のほうが好きだな」と話すのは、よくあることです。そんなものだと思ってください。

 繰り返しになりますが、私が、私自分自身の基準で、考察という言葉を使うほど話せる言語は、日本語と韓国語だけです。英語の話も少しは出来ますが、かじった程度の知識だけで、なにより、私は英語圏の国に「住んだ」ことがありません。住んだこともない人がその国の言語を論ずるなんて、笑止億万。だから日本語と韓国語を比較することで、見えなかった何かを見出そうとしているわけです。

 もちろん、私も、漢字を廃止するなど、韓国の言語体制の運用に大いに疑問を抱いているのは事実です。でも、それはまた別のところで語るべき事案でありましょう。

 それでも、本当に「それでも」、ここで書かないといけないことがあります。私は、日本語が出来るようになって、本当に良かったと思っています。なぜなら、日本語が出来なかったなら、言語においての敬語の真の意味に、生涯、気づかなかったでしょうから。

 だから、いまでも、私は誰かに「日本語と韓国語のどちらが好きですか?」と聞かれるなら、まよわず「日本語です」と即答します。その答えは私の権利行使であり、好きには上下もありません。

「韓国が善」であるために「日本は悪くなければならない」という発想の言語的背景 へ続く

(シンシアリー)

関連記事(外部サイト)