角幡唯介「あなたの探検や本は社会の役に立ってないのでは」に言いたいこと

角幡唯介「あなたの探検や本は社会の役に立ってないのでは」に言いたいこと

角幡唯介さん ©榎本麻美/文藝春秋

〈昨日若い記者のインタビューがあり、あえて意地悪な言い方をしますが角幡さんの探検は社会の役に立ってないのでは、との質問を受け絶句した〉。探検家・角幡唯介さんのこのツイートが反響を呼び、「社会の役に立つ」ことと、夢や仕事、生き方にまつわる様々な意見が寄せられました。約2カ月にわたるグリーンランド北部の犬橇(いぬぞり)行から、6月に帰国したばかりの角幡さんに話を聞きました。

◆ ◆ ◆

■「えっ、そういう角度で読まれるんだ」

――7月7日、角幡さんがある取材を受けた時の話をツイートすると、次々に意見が集まってきて、ちょっとした「社会の役に立つべきか」論争が起きていました。誰にでも接点を見出せる、普遍的な「ひとこと言いたい」話題だったのかなと思います。

角幡 みんな苛立ちや矛盾を感じているということなんでしょうね。ただ、あんなに大騒ぎになると思っていなかったので、記者の人にはちょっと申し訳なかったなと(苦笑)。先日、フォローのメールをしました。取材を非難する意図はなくて、純粋に自分の知らない世間の価値観にふれたこと自体が面白いなと思ってツイートしたので。

?

――あのツイートの意図やきっかけは、何だったんでしょうか。

角幡 ある地方紙の取材だったんですよ。小さい頃の思い出を話しながら、なぜ今の自分があるのか、というようなテーマでした。それで最後のほうに、「ちょっと意地悪な言い方をあえてしますけど、角幡さんの探検や本は社会の役に立ってないんじゃないかと言われることはありませんか?」と聞かれたんですよ。

――わりと唐突に、ポンと。

角幡 そうですね。前後の話は忘れてしまいましたけど、「えっ、そういう角度で読まれるんだ」とすごく驚きました。だって、僕の本なんてどこからどう読んだって明らかに社会の役に立たないじゃないですか。

――いやいや(笑)。

角幡 そのことは大前提で、社会の役に立つとか立たないとか、そういう話の外側で生きることに意味があるんじゃないの? という問いかけを僕の本の中ではしてきたわけです。裏のメッセージとして。だって僕がやってきたこと、たとえばチベットのヤル・ツアンポー峡谷の空白部や、日中でも太陽が沈んだ状態が続く北極圏の「極夜」を単独探検する……これらの旅が、直接社会の役に立たないというのは明らかですから、あえてその視点で読む人がいることを想定していなかった。これほど明らかに役に立たない本でさえ、その視点から回収されてしまうのかと、びっくりしたんです。

――角幡さんは〈探検や冒険は脱システム、つまり行動による批評なので、社会に迎合的な視点をもってしまった時点でそれは批評ではありえず、もう存在意義がないんじゃないかと思ってます。〉ともツイートしていましたよね。

角幡 はい。取材で見えないところからフックが飛んできて、けっこういいところに入ってマウスピースが飛んじゃった、みたいな(笑)。その時は、質問に対してうまくアドリブ的な返答ができなかったんですよね。

■「本当にみんな、そんなこと思ってるんですか?」と聞き返した

角幡 20代くらいの記者の方だったので、「本当にみんな、そんなこと思ってるんですか?」と聞き返したら、自分たちの世代は社会への還元とか生産性の向上を考えるべきだという思考を強いるような「圧力をすごく感じるんです」と。なんとなく社会の雰囲気として薄々は感じるじゃないですか。その話を聞いて、「やっぱりそうなんだな」と思いツイートしたというのが、事の顛末です。

――角幡さんご自身はこれまでにそういう圧力を感じたことはありませんでしたか? 函館ラ・サール高校、早稲田大学への進学や、朝日新聞に就職した時などに。

角幡 記憶にないですね。そもそも僕は、社会の役に立ちたいと思ったことがない人間ですから。むしろ役に立ちたくない(笑)。大学に入った頃は「社会に迎合したくない。迎合したら敗北だ」という一心でした。早稲田の探検部だけでなく、高校や大学時代の友人の多くが、大学に入った時「絶対に就職はしない」と言っていましたし。でもなかなかそこで突っ張るのは難しいから、基本的にはみんな現実と折り合いをつけて就職していくんですけど。

■進路学習の冊子「その夢は社会に役立ちますか?」

――進路学習の冊子で将来の夢を書き込む欄に「その夢はどのように社会に役立ちますか?」との問いがあり苛立っていた、という大学生のリプライが印象的でした。

角幡 小1の娘の道徳の教科書を見ていても、他人の迷惑にならないようにしようとか、困っている人の役に立つことを考えようとか、公共心をはぐくむ教育みたいなものばかりが前面に出ていて、すごいんです。

 もともと愛国心教育のことが気になってチェックしたんですけど、そういうものは全くなく、生きる意味を考えさせるような、難しいけど深くて考えさせられる内容になっていて全体的には悪くはないと思ったんですよ。ただ、「人の役に立つ」系の題材や他者のために行動する自己犠牲の精神ばかりに偏重している感じがして、そこはちょっと嫌な気持ちになりました。

――娘さんには、今回なんて言ったんですか?

角幡 今回というわけではないですが、「別に人の役に立たなくていいから、とにかく他人と同じことをやっちゃダメ。自分の道を切り拓くのが人生だ」ということは時折伝えます。「何言ってるかわからない。つまんない」と言われますが。

――ちょっと言うのが早かったですかね……。

角幡 「じゃあ小3になったらその話をしよう」と話してます。 でも、3歳くらいから「他人と同じことをするな。自分の人生は自分で決めないと面白くないぞ」とは言い続けてきました。その結果、自分の道を歩んでいってほしいと思います。成長するにつれていろいろ外から言われるだろうことと、僕は逆のことを言おうとしているというか。公共心の観点ばかりから道徳教育されてもバランスを欠きますから、人生は固有度が大切なんだということは、親が伝えなきゃいけないでしょうね。

 で、今回の問題は、僕にとってはものすごく単純な話だと思えるんです。つまり自分に由来しているかどうか。「内在」によって引き起こされた行為かどうかが重要なのだと。

――内在。最初に「あなたは何をやりたいですか?」から始めないと、ということですか?

角幡 そうですね。「人や社会の役に立ちたい」と考えるのは至極けっこうなことで、ただし自分の経験や生きてきた結果として、そう考えるようになるのが自然だと思うんです。でなければ、その言葉を発する背骨というか土台がないままで、単なる上っ面でしかなくなる。それが僕には嘘くさく、偽善に見えます。

■「外側の論理」だから圧力や強制力を感じる

角幡 これまで話してきた「社会の役に立つ」「生産性に貢献する」ことへの圧力というか強制力を感じるというのは、それが外側からの要請であって、外側に由来するものだからです。たとえば政府が国力を高めたい、企業が生産性を高めたいから「社会や人の役に立ちましょう」と言う。外側の論理としては正しいのかもしれませんが、僕ら一人ひとりの論理としては、単なる「社会の役に立つ有用な人間」としてからめとられてしまいかねない。

 そうやって自分の外側から発せられる社会の要請に言われるがままに生きていったら、たとえば40歳になった時、自分の生き方に納得できるのか。自分の内側から発してくるものによって言葉や行為がつくられていないから、いつまでたっても「結局、俺はいったい何者なんだ」と空疎な思いを抱き続けることになりかねません。

■研究者が常勤ポストに就けない、食えないという問題

――角幡さんのツイートに対して、たとえば科学の分野でも「社会に還元できるか」どうかで判断され予算が付く状態だという意見もありました。

角幡 僕がちょっと聞いた話だと、北極域研究で調査を行う場合も、地球環境や温暖化の問題と絡めないと予算が付きにくいから、その関連の研究になりがちらしいんですよ。お金が下りるシステムを握られちゃうとどうしてもね。探検家や文筆業なんて有用性や即効性と言われたら、もっとも遠いですよ。

――研究者が大学や研究機関の常勤ポストに就けない、食えないという問題もありますよね。5年前には文科省による国立大学改革についての通知から論争が広がりました。教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院に対して、「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」ことを求めたものです。この時も「文学部不要論」が起きました。

角幡 役に立たないですもんね。それも全て、国や企業の論理でいえばの話ですが。そっち側の価値観に判断が偏りすぎてるんですよ。でも、僕らは一人ひとりの人間として生きているんだから、充実した生き方をしたいじゃないですか。個々人の生き方と、企業だとか国家の論理は必ずしも連動するわけじゃない。企業や国家はそりゃ生産性を高めたいからそれを押しつけてくるけど、われわれ個人はそんなものに合わせる必要はない。生き方を追求するには、外側の論理にしたがって生きるのではなく、内側から湧きあがる声にしたがって生きたほうが良いと思うんです。すごく難しいことはたしかですが。

■「感謝」する風潮と「自粛警察」

――コロナ禍によって、自分がやっている仕事について「今これをやっていていいのか、やるべきことなのか」と自問自答したり、外から問われた人も平時よりは多かったんじゃないでしょうか。震災後を想起した人もいたと思います。

角幡 僕は震災の時日本にいませんでしたし、今年も3月19日から2カ月近く、犬12頭と共に橇でグリーンランド北部を1270キロほど放浪していたので、正直その感覚はよくわからないです。コロナの感染拡大防止のためにカナダから入国許可を取り消されたことで、ようやく事態の深刻さを知ったくらいですから。

 しかしね、たとえば医療従事者に拍手する小学生の映像。僕はちょっとあれは気持ち悪いと思ったんですが、子供たちの中に内在的に感謝の気持ちを持っているのが一人もいないのが明白だからです。単に言わされているだけで、個々の人間性が無化されたロボットみたいに見える。これは容易にファシズムに結びつくな、と思っちゃった。

 コロナに限らず、プロ野球やオリンピックの出場選手なんかも必ずファンや両親に感謝する風潮がありますよね。やたらとすぐに「感謝」する。なんなんでしょうか、あれは。感謝なんかテレビの電波を使わずに個別にやるもんだと思うんですが。心から出た言葉じゃなくて風潮に乗っかっているのが見え見えだから、どうも胡散臭い。スポーツ選手って影響力、大きいですからね。彼らが無自覚に発する感謝の言葉は、世間の風潮を増幅させているんじゃないかと思います。

 しかも、表立ってはみんなやたらと感謝しているのに、日本の社会を見ていてちょっといびつだなと思うのは、たとえば道で困っている人をあまり助けないじゃないですか。重い荷物を持っているおばあさんが階段をえっちらおっちら歩いていても、みんな無視している。変な社会だと思います。

――「自粛警察」という言葉が出てきたのは、知っていましたか。

角幡 それは妻から電話で聞きました。自粛警察、他県ナンバー狩り。おのずと「感染することやさせること」が絶対悪とみなされて、それを破ると容赦ないバッシングを浴びる社会、そういうディストピア社会を想像しました。

 シオラパルク(旅の起点となる、グリーンランド最北の小さな猟師村)を出て、犬橇を走らせている間は衛星電話なので、「変わったことはあった?」「今ここにいるよ」程度のごく短いやり取りでしたが、村に戻ってきてからは普通の国際電話でもう少し詳しく話を聞いて、「そんな状況になっているのか」と。「何もできないじゃないか、そんな殺伐としたところへ帰らなきゃならないのか」と、日本へ帰るのが憂鬱でした。僕が出国する時、グリーンランドは感染者ゼロだったんですよ。だけど出国の前日に熱が出て、急にのどが痛くなってきて……。

――えっ、角幡さんがですか。

角幡 結局ただの風邪だったんですけど、焦りましたね。「コロナ 症状」で検索すると、風邪の症状だから思い当たることばかり。悪天候で帰りの飛行機がキャンセルになって8万円のチケットがパーになっていたんです。無事に1日で熱は下がり、飛行機に搭乗する時には検温を受けても問題なく、帰国後に空港でPCR検査を受けて、ホテルと自宅で2週間自主隔離しました。

■会社員は自己矛盾を感じないのか

――犬橇の旅では、角幡さんの持論である「脱システム」(探検とは人間社会のシステムの外側に出る活動である)の次なるテーマがだんだんとはっきりしてきたのでしょうか。

角幡 「脱システム」については、極夜の旅で一度やりきったかなと。今は思いつきに従って行動することで、どんどん「固有度」が高まってきたなという手ごたえがあります。

 昔から謎なのは、普通に会社員として働いているビジネスマンの場合、会社側からの要請に対応していくなかで、だんだん自分も企業や経済界の論理に染まっていくのか、それとも自分の発想と業界の思惑は別のものとして温存できるのか、ということです。さっきも言ったように、外側にある企業の論理と、個々人の内側の論理はぶつかりあうものだと思うんですが、多くの組織人はその両方にまたがって生きている。自己矛盾みたいのは感じないのかな、とか。そのへんをどう処理しているのか、僕はまともに社会人をしたことがないからよくわからないんです。新聞記者をやってましたが、あれは組織内個人事業主みたいなものだから。

 僕の場合は自分のやりたいことしかやらないので、「次、これやりたいな」と思い浮かんでは実現させることを繰り返してきたんですよ。僕はこの思いつきというのを重視してます。思いつきは、過去の経験があって初めて生まれるもので、今までの自分の足跡や歴史、偶然が全部詰めこまれています。思いつきにしたがって生きていく過程で、行為の固有度や内在性が高まっていく。その結果として、昨年43歳で「ああ、だんだん角幡唯介になってきたな」と初めて思いました。

■登山家は登らないではいられないし、山で死ぬこともある

角幡 登山や冒険もそうです。登山というのは、単にそこにある山に登るわけではなくて、それまでの登山の帰結として、ああ、次はあの山に登りたいと思わしめる存在として、そこにある山に登る。登りたいという思いのなかに過去の自分のすべてが凝縮しているからこそ、登山家は登らないではいられないし、山で死ぬこともある。内在的論理とはそういうもんです。社会に役立つことと関係ないからこそ、生きている実感がある。

『 極夜行 』の後に、「もっとグリーンランドの土地に詳しくなりたいな」と思って、狩りを前提に旅を始めました。昨年からはさらに犬橇もはじめて、向こうで飼ってます。今回は昨年アウンナットの小屋にデポしておいた食糧と合わせて、橇に16袋のドッグフード(約1カ月分)を積んで、これまでに行ったことがない場所もぐるっと回り、5月11日にシオラパルクの村に戻ってきました。「ここにジャコウウシがいるのか、ここには荷物置ける場所があるんだ」という様々な収穫があって、また来年以降、新たに獲得した知識をもとに、もっと遠くへ行けます。

 過去の結果として次の旅が開けてくる。今、僕が北極でやっている旅は、言ってみれば内在的論理を旅のかたちで表現したものでもある。もうライフワークになってますが、役に立つことを強制する社会への批評行動としても、これは納得いくまで貫徹したい。

――シオラパルクには、角幡さんの犬が12頭いるんですよね。犬との共同作業はどうでしたか。

角幡 自分で橇を引くより難しいですね。ただ体力があればいいわけではなく、犬橇は高度な技術を求められます。犬たちとの関係をどう築くかも重要です。突然暴走し置いていかれたりもするので、めちゃくちゃ危険なんですよね。この犬はこういう状況でどう動くか、犬の個性を全て把握して、「自分は絶対に犬をコントロールできる」という自信がないと一人で遠隔地には行けないです。昨年よりは上達しましたし、シオラパルクに1972年から移住して猟師生活を送っている〈エスキモーになった日本人〉こと大島育雄さんにも、「1年目でそんなところまで行ける人はいないよ」と言ってもらいました。

■探検や冒険が何かの役に立つことがあるとすれば

――「社会の役に立つべきか」に話をもどすと、角幡さんの行為や書き残したものから、読者は異文化や異界と接点ができて、「社会」の枠組みをもう少し広く捉えなおすことができるんじゃないかと思うんです。

角幡 もし何かの役に立つことがあるとすれば、繰り返しになりますけど、僕の考えでは「批評」だと思っているんです。僕が社会のシステムの外側に出ることで、社会にいる人は僕の行動を見る。内側に残された人が、内側についての矛盾や限界を考えるきっかけになる可能性があるし、そこからフィードバックや影響を受ける人も出てくるかもしれない。その時にたとえば「大変だな、生きるってこういうことなのか」と、もしかしたら思うかもしれない。そういう意味で、僕は探検や冒険には批評性があると考えています。

――探検や冒険に限らず、生き方も批評性を帯びてきますよね。

角幡 文芸評論家の加藤典洋が、『 日本人の自画像 』で「内在」と「関係」について、とても面白いことを書いていました。国粋主義的ともいわれる本居宣長の「物のあはれ」について論じているところで、仮に自分の内側からこみ上げる「内在」だけを突きつめていくと、当然の帰結として、一見狂気じみた考えに至らざるを得ない。ただしその「内在」がどこかで外側とぶつかった時、初めて「関係」が生じると。宣長は内在で突き進み、最後まで関係の視点をもてなかったから独善的に陥った。しかし、そもそも内在がないと、自分の生に触れることはできず、他者由来の生を生きることになり、実存が陥没してしまう。

 そこで、さっきの娘の道徳の教科書の話にもどると、あれはまだ内在的論理のまったく育っていない小学生に、関係の視点だけを押しつけているからおかしいわけです。一種の洗脳みたいなもので。関係の視点が真に生きてくるのは、宣長みたいに内在を突きつめた後の話なんじゃないでしょうか。そういう意味じゃ、若い人が外側の論理にからめとられて、社会の役に立たないと、と焦る気持ちも理解できないではない。20代なんてまだ何者でもないですから。

■「内在」と「関係」をどう見出して生きるか

角幡 僕の探検は、極めて私的な活動です。でもその私的なところを突きつめれば、普遍に到達するんじゃないかと思っています。書くという行為は、その文章を読んでくれる読者との関係性の中でしか成り立たない営みです。表現という行為が自分一人で完結することはあり得なくて、発表し、見たり読んだり聴いたりする相手がいて、初めて成立します。僕はやりたいことだけやって、自己完結的に生きているように見えるかもしれませんが、いつでも書く立場としての視点が強くあり、自分の行動の意味はどこにあるんだろうと考えます。それが僕にとっての「関係」です。もし書くというアウトプットがなければ、「内在」だけで生きていくことになる。それはそれで、よりすごいことになるのかもしれないけど。

――誰にも知られることなく、たった一人で北極圏を旅する……。誰にも知られず絵物語を描き続けたヘンリー・ダーガー的な行為でもありますね。

角幡 でも僕は書くことによって、どこかで自分の行為を外からの観点で解釈し、消化したり、意味づけしなければならない。そのことによって、一応「内在」だけではなく「関係」も見出しながら生きています。今回みたいに「社会の役に立ってないのでは」について語るというのも、その視点があるからできることでもある。

――読者と角幡さんのやっていることが全然つながらないように見えても、「関係」は作れると。

角幡 でも、こんなふうに言えば、役に立つとか有用だとかいう視点って、付けようと思えばいくらでも付けられるんです。まあとにかく、僕は社会にとって有用ではない活動をつづけていきたいと思っているわけです(笑)。

かくはた・ゆうすけ/1976年北海道生まれ。探検家・作家。早大探検部OB。主著に『空白の五マイル』、『アグルーカの行方』、『漂流』、『新・冒険論』など。『極夜行』で、本屋大賞ノンフィクション本大賞、大佛次郎賞を受けた。

(角幡 唯介)

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