“モテないこと”を暴露されて激怒!? 菊池寛の出版社殴り込み事件の背景にあった「エロ・グロ・ナンセンス」時代

“モテないこと”を暴露されて激怒!? 菊池寛の出版社殴り込み事件の背景にあった「エロ・グロ・ナンセンス」時代

カフエ「サロン春」の内部(酒井真人「カフエー通」より)

ビートたけし“フライデー襲撃事件”の56年前 作家・菊池寛が「出版社に殴り込みに行った」事件とは から続く

 1930年、小説家・菊池寛が自身がモデルになった小説「女給」を巡って、中央公論社に殴り込んだ。なぜ、菊池寛はなぜそれほど怒ったのだろうかーー。“舞台”となった当時のカフェと女給、そして作家と出版界を振り返る。

< ビートたけし“フライデー襲撃事件”の56年前 作家・菊池寛が「出版社に殴り込みに行った」事件とは >から続く

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「昭和初年の風俗と女性について語るとき、なにをおいても物語らなければならないのは“カフエー”と“女給”たちである。カフエーという呼び名は、戦後に至って雲散霧消してしまう」と戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」は書いている。様々な呼び名があるが、ここでは当時の雰囲気を表すため、固有名詞や文中以外は「カフエー」で統一する。

 現在も「カフェ」と呼ばれる飲食店はあるが、当時のカフエーはだいぶ違う。1929年に出版された最も詳しいカフエー専門書とみられる村島帰之「カフエー」はこう書いている。「日本に初めてカフエーができたのは、明治44(1911)年、東京市京橋区(現東京都中央区)日吉町に、東京美術学校(現東京芸大)出身の洋画家・松山省三氏が『プランタン』を開業したのに始まる。そこは主として文士や画家や俳優の集合所であった」。「そこではコーヒーが飲まれ、ウイスキーがあおられ、洋食が並べられた。松崎天民氏の記すところでは、市川猿之助(歌舞伎俳優)、岡田三郎助(洋画家)、生田葵山(作家)、井上正夫(新劇俳優)、正宗白鳥(作家)、正岡芸陽(評論家)、押川春浪(SFなどの作家)、阿武天風(作家、編集者)、平塚断水(作家)、長原止水(洋画家、挿絵画家)、森田恒友(洋画家)、滝田樗陰(中央公論編集長)などの故人や知人を数多く見た」

 その後、大衆化するに至って、コーヒーを飲ませる店と、バーやレストランのように酒と料理を出す店に分かれていく。酒と料理の店には女給(女給仕人の略称)がいることが原則になっていた。いまでいえば、クラブのホステスに近い存在だろうか。銀座でも「ライオン」「タイガー」「クロネコ」などの大型店が隆盛を極める。「カフエー気分に必要なものは、蠱惑(こわく)的な女給の嬌声と、エロチックなその媚態と、刺激的なその服装……。それらから発散するところの魅力に富んだ空気、それである」(「カフエー」)。

■流行語になった「エロ・グロ・ナンセンス」

「昭和2年現在の内務省の調べでは、日本全国の市及び3万以上の町にある女給の数は、東京市の1万8000人を筆頭に約4万人を算した。当時の大阪の女給数は6000人と計上されていたが、警察の調べでは、昭和4年9月現在ではそれが1万2000人以上に上っているというから、その率でいけば、全国の女給の数は現在では8万以上に上っていよう」(「カフエー」)。

 時代は、関東大震災と第1次世界大戦後の慢性的な不況に、昭和に入って恐慌のあおりが加わり、不景気が一段と深刻化。凶作もあいまって農村が疲弊し、娘の身売りが社会現象になった。一方、東京では私鉄の路線が延びて住宅地が広がり、新しい都市文化が生まれた。職業を持つ女性と、アメリカ文化のジャズ、ダンスが進出。浅草のレビューなどでは、体を露出させた女性があふれ、長く閉塞状況にあった大衆を取り込んだ。「エロ・グロ・ナンセンス」が流行語に。カフエーもその1つの表れだった。錦紗(紗の地に金糸で模様を織り出した反物)の着物に白いエプロンが女給の“制服”になった。事件と同じ1930年に単行本化された「放浪記」も、作者の林芙美子が一時の女給生活も交えて書いた自伝的小説。「女給」もそうした時代背景から生まれ、モデルをめぐる暴力事件もそこから派生した。

「女給」は大変な反響で、婦人公論1930年9月号巻末の「編集者の言葉」は「8月号は果然ものすごいばかりの売れ行きで、発売旬日にして再版しました。その再版がまた飛ぶように出払って、中にはついにお求めになることのできなかった方もあるだろうと思います」と書いている。すさまじい人気だったようだ。

■時代の先端をいく「女性の職業の花形」だったが……

 小説を基に西條八十作詞、塩尻精八作曲の歌謡曲「女給の唄」が1935年10月に作られた。「わたしゃ夜咲く 酒場の花よ 赤い口紅 錦紗の袂(たもと) ネオン・ライトで浮かれて踊り さめてさみしい涙花」。ビクターレコードから羽衣歌子の歌唱で発売されてヒット。映画界も目をつけ、「女給」(曽根純三監督)が帝キネ(帝国キネマ)で映画化された。注目は小夜子を演じた主演の水原玲子。「キネマ旬報増刊 日本映画俳優全集・女優編」によると、広島市生まれで、地元の高等女学校を中退。「大阪へ出てカフエー赤玉の女給となり、たちまち売れっ子となる」。1930年9月、帝キネが「女給」製作に当たって「ヒロインを物色中、帝キネ専務取締役・立花良介に見いだされて同年10月、帝キネ太秦撮影所現代劇部に入社」。「主役の小夜子に扮した『女給』が封切られて、これが大ヒット。女給出身のスターとして騒がれた」という。当時はほかにも女給出身の女優が生まれた。時代の先端をいく女性の職業の花形だったといえる。

「カフエー」には女給に関するさまざまなデータが載っている。

 まず年齢。1925年7月に中央職業紹介事務局が東京、大阪の女給3000人を調査した結果では、最年少が東京の13歳2人。「19歳、20歳を中心とする前後4年が最も多く、この18〜21歳のいわゆる花の盛りの年齢にある者が全員の5割3分(53%)を占めている」。女給に就いた理由は東京の約44%、大阪の約42%が「『収入の多い』ことを目当てとして就職したものとみることができよう」。

 では、実際の収入はどうか。「カフエー」が引用しているデータによれば、東京、大阪を合わせた女給の約84%までが月収60円(2017年換算約9万4000円)以下。しかし実際はもっと多いと同書は書いている。東京・銀座や大阪・道頓堀などでは月収200円(同約31万円)以上も。それはほとんど客からのチップだった。

 女給の収入は固定給と客からのチップがあったが、昭和に入ってしばらくたつと、収入が完全にチップだけという店が増えたという。そうなれば、客にひいきしてもらうしかない。「もしチップ制でなかったら、何も女給は媚態まで示す必要はない。客がたばこをすいそうだからといって、急いで近寄ってマッチをすってやる必要もない。いわんや手を握らせる必要もない。それもこれも、みなチップ欲しさのゆえである」(「カフエー」)。身持ちの堅い女給もいれば、女の色気を客に売るような女給もいたはずだ。同書に掲載された調査結果には、彼女たちの感想、希望も含まれている。「彼女たちが現に従事しているその職業を良いと思っているのか悪いと思っているのか」。実際に調査されたデータが残っていた。

▽現職に対して悪いというもの(全回答数305)

 (1)?? ?良いと思うことなし 96
 (2)?? ?良いと思わない、早くやめたい 84
 (3)?? ?他に仕事がないので仕方なしに 54
 (4)?? ?女給を世間の人は理解しない 40
 (5)?? ?一部女給のため、世間の人から卑しく見られるのが残念だ 23
 ?その他

▽現職に対して良いというもの(全回答数332)

 (1) 良いと思う 138
 (2) 社会の状況及び男の心理が分かるから良い 58
 (3) 心がけ一つで良いと思う 43
 (4) 将来独立するには良い 27
 (5) 多くの人と交際するから良い 21
 ?その他

(「カフエー」より)

「カフエー」は「現職に対して悪いというものと良いというものとが相伯仲しているのも面白い。しかし、良いというものも必ずしも心から『良い商売』と思っているのではなく、『あまり良い商売ではないが、他にこれ以上の商売もないから』という程度である」と分析している。「女給という職業の弊害は?」の質問には、東京は「誘惑が多い、また誘惑されやすい」(83)が、「夜遅くなるのが困る」(32)「心がすれて漸次不良性となる」(20)を圧倒的に引き離して最多。当時の女給の叫びが聞こえるようだ。小説「女給」に登場する小夜子もその1人だったのだろう。 

■「先生は天下の文士菊池先生であり、私は一個の見るかげもない女給なのです」

 雑誌「犯罪科学」1930年10月号に「『小夜子』の見た菊池寛―所謂(いわゆる)『女給』事件の真相」という記事が載っている。筆者の名前は「山口須磨子」。これが「小夜子」本人のようだ。

 広津に自分の話をした動機を「あのまばゆい電光の下に孔雀のように振りまくウエイトレスの心の中にも、どんな重い悲しい現実の半面を持っていることがあるものかをお話ししようと思った」と書いている。そのうえで「大変感謝すべき紳士の菊池先生としてお話ししてあるつもりでございます」として、菊池が「僕の見た彼女」に書いたことの多くに反論している。「一女給の私の本名まで出して、先生の自己弁護の犠牲になされたやり方には、いまさらながら、先生もおとなげない仕業をするものと思わないわけにはいきません。先生は天下の文士菊池先生であり、私は一個の見るかげもない女給なのです」「先生はその時こうおっしゃったではありませんか。『僕の言うことを聞けば君の身の周り全部、女として恥ずかしくない程度に、それから2年間、どんなことがあっても見てやる。後で店も出してやろう。それから、たびたび会うのに外に行くのはみっともないから、いい所に家を借りたらどうだ』などと言われたことを忘れていらっしゃるようです」「何の野心もなく女に金をやったんだと申しますが、おそらく男の人で、私たちの目から見れば、ことにカフエーなどに働いている女に何の野心もなしに相当の金やその他のものをくださることなんかあるものですか」……。

 どうみても男の側の分が悪いのは明らかだ。この女性はその後、詩人で作家の長田幹彦が主宰し、落語家の柳家金語楼らが出演した「女給芝居」に一座のスター格で登場した。その後のことは、1966年に出版された読売新聞社編「生きている名作のひとびと」中の「私は菊池寛の“ご指名”だった」に59歳当時のインタビューとして載っている。読むと、実人生もほぼ小説通りだったことが分かる。勤めたカフエーは「タイガー」から「クロネコ」へ。「(『女給』の)モデルだというので、いろいろと騒がれるようになりました。しかし、人のうわさも七十五日とはよくいったもので、クロネコをやめ、『パレス』という店に移ったころは『あれが女給の“小夜子”だよ』と目引き袖引きされることもずっと少なくなりました」。1936年に独立して「コテイ」というバーを始め、戦後も続けていたという。永井康雄「銀座すずめ」によれば、彼女の子どもは結婚して母親になっていた。

■「天下の菊池寛の原稿を『持ち込み原稿』と言い切ってしまった」

 彼女から話を聞いて小説を書いた広津和郎は問題をどう捉えたのか。戦後の著作「小説 同時代の作家たち」に詳しい記述がある。

 広津は冒頭「菊池君とは互に文壇に出た時代が同じだったので、最初の頃は相当近しくつきあった事もあったが、後にはいつか遠くなり、晩年には殆(ほと)んどつきあわなかった」と書く。若いころ、一時期は住居も近く、同じ作家の久米正雄も含めて頻繁な交流があった。しかし、広津が転居したのに加えて、菊池が成功し、文藝春秋を立ち上げたあとから、広津の彼に対する感情が微妙に変わっていったという。「自分の心持が菊池君から離れて行くのを感じた。それは賑やかに大勢集まるような雰囲気に気質的に私が合わないということにも理由はある」。そこに「女給」の問題が起きた。広津はここでも「この小説の全編を読んだ人は、私が菊池君に根本的には些(いささか)の悪意をも持っていない事を読みとるであろうと思う」と言う。「併(しか)し菊池君に取ってちょっと痛い事は、菊池君がこの小説に現れた限りに於(お)いては、女に持てていない事である」

 菊池と婦人公論側の対立については「天下の菊池寛の原稿を『持ち込み原稿』と言い切ってしまったのである」と感想を述べ、「これは益々弱った事になってしまったものであると私は思った」と書いている。何日か後、広津は神宮外苑でばったり菊池に会う。「これはまずい処(ところ)でぶっつかったという気がしながら側まで近づいて行くと、菊池君はにやりと笑った。そして、『君、君は何故調停に出て来てくれないんだい』といきなり早口で言った。『君は僕に怒っているんじゃないのか』『君には怒りゃしないよ。君は友達じゃないか。僕の怒っているのは中央公論社だよ』」。それで広津は調停のため中央公論社を訪れたが、嶋中社長は強硬だった。その話によると、「菊池君は彼に面会を求め、彼が会うと、改題及び持ち込み原稿という事について怒り出し、責任者は誰かというのでF(福山)君を呼んだ。そうしているうちに、菊池君は興奮して自分の方へにじり寄ろうとしたが、間に大きなテーブルがあったので、それを廻るのを面倒と思ったのか、いきなり横に立っていたF君の頭をぽかぽかと幾つか殴り、そのまま編輯室から出て行ってしまったのである」という。「『そうだよ。僕は島中社長を殴ろうと思ったんだよ。併しテーブルがあって近づけないものだから、編輯者を殴ってしまったんだよ』と菊池君は言っていた」

 嶋中の次男で父の後を継いで中央公論社社長になった嶋中鵬二氏は文藝春秋1957年11月号の「中公・文春合戦譚」という文章で「この事件の経過ではっきりわかるのは、菊池さんの明けッぱなしで淡泊な人柄のよさであり、私の親父のふしぎな執拗さである」と述べている。その理由として、父が菊池に言ったこんな言葉を伝えている。「これは執筆家と雑誌編集者の問題なんですよ。編集者というものが、執筆者に対して、長い間どんなに屈辱的な立場にあったかという事で、みんないきり立っているんですよ。その点は僕も同感なんです」。さらに鵬二氏も加わった文藝春秋1988年1月号の「中央公論社に殴り込んだ菊池寛」の座談会で、ジャーナリストの徳岡孝夫氏は、菊池の婦人公論殴り込み事件を「ビートたけし事件のはしりですね。しかし、たけしとちがって一人で乗りこんだところが偉い」と述べている。

■華々しい地位にあった菊池寛への微妙な感情

 広津は編集者らを説得にかかったが、強く反論された。広津は「諸君はこんなに大勢いながら、(1人が殴られるのを)何故指を銜(くわ)えて見ていたのです」と非難。調停を受け入れさせた。しかし、嶋中社長に、菊池が書いたのと同様、遺憾の意を表した「わび状」を求めると、難色を示した。広津が最後の奥の手として「僕は手を引きます。どうかやってください。併し僕は小説(『女給』)は(執筆を)中止します」と宣言すると、ようやくケリがついたという。しめくくりに広津はこんなことを書いている。「(若い時の)本郷時代以来菊池君に対して一方では感心しながら、一方では一つの反撥(発)を感じていたようである」「菊池君が文壇の大御所然としている時、『女給』を書いて見たくなったのも、やっぱりそれの現れであったかも知れないように思う」「菊池君の物を割切ったあの勝利感にはつい顔をそむけたいような反撥を感じ続けたのである。それは菊池君の余りに明瞭な現実主義に対する私の抽象主義の反撥だったかもしれない」

 菊池は文壇にデビューしたころ、「新人発掘で名高い『中央公論』編集長の滝田樗陰に認められる」(鈴木貞美「文藝春秋の戦争」)。同書は「雑誌の編集作法について、菊池寛は『中央公論』とのつきあいから大きなものを得ていたはずだ」と指摘している。菊池からすると、甘えたのが手ひどく裏切られたような気持ちが付け加わっていたのかもしれない。

 一方で、のちに中央公論社副社長となった牧野武夫氏の「雲か山か 雑誌出版うらばなし」は、嶋中社長の菊池寛への微妙な感情を記述している。「嶋中氏が中央公論の社長になった時には、菊池氏は既に文藝春秋社長として、文壇の大御所的存在であると同時に、雑誌経営者としても華々しい地位にあった。菊池・嶋中両氏の間柄が、かつては作家と編集者の関係にあり、今では雑誌社長として同業の立場にあるという複雑さが、もともと人間的には肝胆相照らすほどでもなかった2人の間に奇妙な空気を醸成していたことは、表面的には双方紳士の節度と礼譲を守っていただけに、何かのきっかけで何がいつ爆発するかもしれない危険をはらんでいたとも想像することができる」。さらに「中央公論社の八十年」によれば、「嶋中雄作が中央公論社の経営に乗り出してから、第二段に打った手は『婦人公論』の大衆化である」。過剰に見えた宣伝もその路線からだったのだろう。

■殺伐とした事件なのに

 こうして見ていくと、菊池の抗議が腹の底からの怒りによるものだったとは思えない。功成り名遂げた自分だが、女にもてないことを暴露されたのは面白くない。それで抗議文を送った(若いころから彼は速達の抗議文を送る癖があったと広津も書いている)。不満も残るが、これ以上騒ぐのはみっともない。まあこれで済まそうと思っていた。ところが、婦人公論側が題名を改竄し、「持ち込み原稿」として自分の権威を否定するようなことをしたのに激怒して殴り込み、やりとりの中でカッとして手を出した、というのがほぼ正確なところではなかったか。以後この件に一切触れていないのが、そうした心情を想像させる。

 それでも、女性スキャンダルに端を発した文壇の大御所の大手出版社殴り込みという、いまならワイドショーや週刊誌が大騒ぎしそうな殺伐とした事件なのに、全体にどこか牧歌的な空気が漂っているのは90年前という時代のせいなのか、そこに菊池や広津らのキャラクターも加わっているのか。

【参考文献】
▽広津和郎「女給」 中央公論社 
▽「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」 毎日新聞社 1980年
▽戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」 角川文庫 1981年
▽村島帰之「カフエー」 文化生活研究会 1929年
▽林芙美子「放浪記」 改造社 1930年
▽宮本吉次「文壇情艶史」 アジア出版 1961年
▽読売新聞社編「生きている名作のひとびと」 読売新聞社 1966年
▽永井康雄「銀座すずめ」 三修社 1969年
▽広津和郎「小説 同時代の作家たち」 文藝春秋新社 1951年
▽牧野武夫「雲か山か 雑誌出版うらばなし」 学風書院 1956年
▽鈴木貞美「文藝春秋の戦争」 新潮選書 2016年
▽「中央公論の八十年」 中央公論社 1965年

(小池 新)

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