ビートたけし“フライデー襲撃事件”の56年前 作家・菊池寛が「出版社に殴り込みに行った」事件とは

ビートたけし“フライデー襲撃事件”の56年前 作家・菊池寛が「出版社に殴り込みに行った」事件とは

殴り込み事件の第1報(東京朝日)

 小説などのモデルをめぐるトラブルはいまも時折起き、裁判沙汰にもなっている。しかし、ちょうど90年前、小説の登場人物のモデルとなった「文壇の大御所」が、小説を掲載した雑誌の編集部に“殴り込み”、編集者に暴力を振るった。同様の事件はほかに1986年12月、ビートたけし氏が「たけし軍団」とともに講談社の写真雑誌「フライデー」編集部に押し掛け、編集部員らにけがを負わせた例があるくらいで、当時の世間に衝撃を与えた。事件には、当時の女性の花形職業だった「女給」の存在が絡んでいた。何が彼をそこまでの行動に駆り立てたのか。時代背景も合わせて振り返ってみる。

■菊池寛が、中央公論社で編集者を殴る

「モデル問題から憤激し 菊池寛氏の暴行 婦人公論編輯(集)主任を撲(なぐ)り付け 紛争の形勢悪化す」。この見出しの記事が東京朝日(東朝)に載ったのは1930年8月18日付朝刊。社会面3段の扱いだった。「婦人公論掲載、広津和郎氏作長編小説『女給』のモデル問題から、文壇一方の旗頭菊池寛氏と中央公論社の間に紛議を醸し、菊池氏は15日午後1時半ごろ、中央公論社に至り、編集室において婦人公論編集主任福山秀賢氏(35)の頭部を拳固(げんこ)で殴りつけるに至り、事件は遂に悪化し、告訴沙汰にまで至るものとみられるに至った」。

 記事にはそれまでの経過が書かれている。「広津氏の『女給』が婦人公論に発表されるに当たり、同社においては、菊池氏をモデルにしたる点の宣伝に力を注いだため、さる7月17日、菊池氏より島中社長宛て『僕の見た彼女』と題する抗議文を同誌9月号に寄せたるに対し、右全文掲載するに際し『僕と小夜子の関係』と改題し、新聞、雑誌に広告したため、菊池氏は甚だしく激高し、文士に対する礼を知らざるものと怒鳴り、当の責任者福山氏を続けざまに殴りつけたので、居合わせた社員たちは驚き、かつ憤慨して大事を引き起こそうとしたが、島中社長の鎮撫により、同日は収まった」「福山氏は菊池氏を相手取り告訴すべく準備中であるが、島中社長は福山氏をなだめ、16日、菊池氏宛て書面をもって氏の不穏なる行動をなじり、釈明を求め、氏の回答を待ちつつあるが、菊池氏の出ようによっては相当に紛擾するものとみられている」。

 ここに出てくる「島中社長」は嶋中雄作(新聞によっては「島中」と表記)。奈良県出身で早稲田大卒業後、中央公論社に入社。1916年の婦人公論創刊に当たって主幹に。1928年から社長を務めていた。自由主義者で知られ、軍部の弾圧で一時同社は廃業するが、戦後再建。再び社長を務めた(「別冊1億人の昭和史 昭和史事典」)。出版界の大物だった。

■銀座のカフェで働く「女給」をモチーフにした小説が発端だった

 問題の小説は広津和郎の「女給」。広津は東京出身。明治・大正に活躍した硯友社系の作家・広津柳浪の次男で、早稲田大を卒業後、「神経病時代」「死児を抱いて」などで注目された。「小説を人生と結び付け、他の芸術一般と区別する立場」(「昭和史事典」)で、自ずから時事的な題材を取り上げることが多かった。

 筆者にとっては戦後の松川事件への強い関心と被告支援の印象が強いが、年譜などを見ると、交友関係は広く、女性遍歴も華やかで、文士らしい文士だったようだ。「女給」も当時の社会の一面を取り上げている。

 北海道から上京した「小夜子」という「シングルマザー」の女性が、子どもを抱えて生活に苦労した揚げ句、銀座のカフェの女給となって生きて行く物語。カフェの客や同僚とのやりとりが詳しく描かれ、ほれ込んだ客の1人は妻子と別れて彼女を追い続け、断られて自殺未遂を起こす。菊池がモデルとされたのは、同様にほれ込んだ客の「吉水薫」という有名詩人。吉水は小夜子をひいきにして毎回多額のチップをはずんで関係を迫る。小夜子は応じず、結局、吉水は小夜子のライバルの女給に心を移す。「背が低くて、横肥りに肥っていて、小股にちょこちょこ歩いて、歩くたんびに身体を左右にひょいひょい揺る形――また、あまり好い恰好ではありませんわね」と小説中では描写されている。初対面の時の別れ際の描写が現実をほうふつとさせる。

 吉水さんは帰り際に、
「さあ、君、握手しよう」
 あたし、何気なく手を出すと、吉水さんの指の短い、丸まっちい手が、あたしの手をぎゅっと握りしめましたの。そして握った拍子に、紙の丸めたようなものが、無造作にあたしの掌に押し込まれましたの。あっと思って、あたしは無意識に軽く頭を下げましたわ。
 だって、それが十円札を小さく丸めたものだったんですもの。十円札! あたしどんなに嬉しかったでしょう。

 1930年当時の10円は2017年の貨幣価値に換算すると約1万9000円。小説中で小夜子は「この不景気に、十円なんてチップを呉れる人が、そうざらにあるかって?」と語っている。吉水はその後毎日訪れて、その度に小夜子に5円札(同約9600円)を渡し、大森海岸の料理屋で関係を断られた時は40円(同約7万7000円)を握らせた。有名文士の豪遊ぶりがうかがえる。

■「太って実業家のような文壇の大御所……」読者をあおる宣伝文句

 菊池寛は香川県出身。旧制一高(現東大教養学部)から京都帝大(現京都大)に進み、「はじめ劇作家を志し、第3次『新思潮』時代に『父帰る』などを発表したが認められず、小説に専心。『忠直卿行状記』『恩讐の彼方に』など、清新な作風の名作を次々に発表」「文壇の大御所といわれたのは1923年、『文藝春秋』を創刊。芥川、直木賞の設定などで文壇に貢献し、さらに大映社長など、社会、文化全般で活躍したことによる」(「昭和史事典」)。戦後、公職追放となり、1948年に死去したが、いまも「菊池寛賞」に名前を残すほか、最近でも小説「真珠夫人」がテレビドラマ化されて話題を呼んだ。

「女給」の第1回は1930年7月16日発売の婦人公論8月号に掲載された。発行元の中央公論社は発売前、新聞に大々的な広告を打っている。「吉水薫、子どもも知る文壇の大御所。小夜子の言葉を借りれば、太ってがっしりした実業家のような格好の人」「吉水薫が誰であるかは、この物語を一読してただちに分かるという。その吉水の赤裸なこの姿!」。7月16日付東朝朝刊1面にも「婦人公論八月号」の広告が載っているが、ここでも「太って実業家のような文壇の大御所に拉(ら)っし去られた小夜子が嬌笑の悲歌は全日本を涙させる!」とある。こう見ただけでも、「モデルが誰か」で読者の興味をあおる、やややりすぎの宣伝に思える。このあたりにもトラブルの火種はあったのだろう。

 東朝8月18日付朝刊記事によれば、雑誌発売翌日の7月17日、菊池は嶋中社長に宛てて次のような抗議文を送った。「あの小説では誰が見ても、吉水が自分と分かるようになっている。ことに新聞に出した広告によると『文壇の大御所』となって宣伝されているが、あの肩書は自分に慣用されているものである。小説では吉水が娘を誘惑することになっているが、実際はむしろ自分が美人局(つつもたせ)にかかったような次第であるから、この際、自分から進んでモデル問題を解決したい」。

 抗議文には「僕の見た彼女」という原稿が添えてあり、婦人公論に掲載することを求めていた。菊池はその後、この「事件」について一切書き残していないようだ。伝記や年表にも記述はない。ここで言い分を要約して確認しておこう。

■「もっと小説家的眼光で吉水薫の立場をよく擁護してくれたら……」

「あの小夜子というのは、タイガーにいたとし子という女であろう。本名は須磨子というのである。広津君が一月くらい前、僕に『君はとし子という女を知っているか。面白い女だ。いまあるバーにいるが、店を閉まってから来いというから遊びに行くと、雑炊などをこさえて食べさせてくれる』と言っていたから、たぶんその女のことだろう。その女なら、なるほど僕は知っている。しかし、その女と僕との交渉は、その女が広津君に雑炊をごちそうしながら夜通し話したであろうこととは少しは違っているのである」「その女はタイガーにわずかしかいなかった。僕が行くと、文学少女とみえ、勇敢に僕に嬌態を示したように思われた。10円やったかどうか、それは忘れたが、そのくらいの金はちょっと気に入ると誰にでもやるから、おそらくやっただろう」。その後、別の店に移った彼女から呼び出された。

「由来、女性に対しては親切な僕であるから、出掛けて行ったのである。ところが彼女はかなり尾羽打ち枯らしていて、銀座のよい店へ出たいが、着物を買う金がないから貸してくれというのである。そこで親切な自分は貸してやったのである(こういう親切気さえ自分になければ、くだらないモデルなどにされなくてすむのであるが)。それによって彼女は『黒猫』に出たのである」

「なるほど、彼女と一緒に一度、ご飯を食べに行ったことは事実である。しかし、それも僕が誘ったか、反対に彼女が誘ったか、そういうことは神様でなければ公平な証言はできないものである。僕に金の無心をしたというような都合の悪いことは絶対に言わない彼女であるから、自分だけいい子になっていられても、僕の方は仕方がないのである」「ところが、僕と一緒にご飯を食べに行ってから2、3日もしないのに、僕は彼女と同棲していたO(オー)という男から突然脅迫されたのである」「僕は怖気をふるったものである。これは美人局ではないかと思ったのである」「自分は彼女に対し、少しもやましいところはなかったから、そういう脅迫ははねつけたが、こりごりして引き下がってしまったのである。だから彼女との交渉は10日ばかりだった」「あの小説を見ると、僕が熱心で彼女は淡々としているようであるが、それは逆ではなかったかと僕には思われるのである」「彼女にそんな無心を聞いてやったり、脅迫されるような嫌な目に遭わされたうえ、なおそのうえモデルにされてくだらない役回りなどさせられてはたまらないのである」。そして著者に対して「広津君がもっと小説家的眼光で吉水薫の立場をよく擁護してくれたら、僕はこんな恥を言わずにすんだのである」と愚痴を漏らしている。

■作家と編集者の長年にわたる微妙な関係が表面化した

 婦人公論側では菊池寛の抗議文を9月号に掲載すると決めたが、見出しを「僕と『小夜子』の関係」に変更。8月12日付夕刊掲載の婦人公論9月号の広告で「菊池氏から抗議を寄せられた。ゆがめられた氏はたして何を言わんとする?」という説明をつけ、抗議も宣伝材料にしてさらに関心をあおった。それが9月号発売前日である8月15日の殴り込みにつながったとみられる。8月18日付東朝朝刊には「あくまで戦ふ(う) なぐられた福山氏は語る」の見出しの別項が。「菊池氏には怒る理由はあるかもしれないが、一雇人である個人を殴る理由はない。文芸界の大家の横暴に対して、力の弱い雑誌編集者の立場から、あの暴力事件はあくまで戦うつもりである」

 そして8月25日、福山編集主任は菊池を相手どって「東京区裁判所検事局へ暴行傷害の告訴を提起した」=8月26日付東京日日(東日)夕刊。同じ日付の東朝には原告側の言い分として「(菊池氏は)右手で拳固をつくり、福山氏の顔面を殴打し、左耳及びこめかの腫(は)れあがるほどの乱暴を働いたが、その後一度の陳謝もせぬ」とある。これに対し、8月26日付東朝朝刊には「訴へ(え)られた菊池氏も 直(ただち)に相手方を訴ふ」の記事が。「今度は中央公論社の島中雄作、当の殴打した相手たる婦人公論編集者福山秀賢の両氏を相手取り、著作権侵害、名誉棄損で告訴することになった」。菊池は「自分が福山氏に対して過激の行動に出たのは、自分が同誌に寄稿した文章の題を勝手に改題したためで、作家の書いたものを勝手に変改するごとき侮辱がほかにあろうか」との文書を発表した(同紙)。同じ日付の東日は社会面トップで「文壇泥仕合」の見出し。そこには著者広津の「困った困った。元々僕の小説から起こった問題で、菊池氏も気の毒だし、福山君も気の毒だし、双方の円満な解決を望んで、目下福山君にもいろいろ話しているところです」という談話が載っている。

 興味深いのは嶋中社長の談話。東日には「そもそも菊池氏の抗議文は持ち込み原稿だから、慣例によって改竄(ざん)するのは不当でないと思う」として載っている。ところが、同じ8月26日付朝刊で「モデル問題更に紛糾」の見出しで報じた時事新報には「編輯者の立場」として次のような談話が。「争うなら大いにやらした方がいいでしょう。あの問題は2つの別個の問題になっていて、殴打事件は原因のいかんに関わらず成立すると思うが、改題は文芸家対編集者の間に一朝一夕には決せられぬ問題でしょう。編集者としては、ある場合、改題もやむを得ぬとの意見も立て得ると思うが、菊池との情誼(じょうぎ)から、僕は一応断って改題した方がよいと考え、無断ですることに遺憾を感じていました」。部下の編集者たちの怒りを抑えきれなかったととれる。「不当にしいたげられてきた若い別個の立場を持つ編集者の側からは、改題のため、不当の暴行までも甘んぜねばならぬことはない」とも。文藝春秋をバックにした菊池と中央公論の対立として新聞は注目したが、問題はそれだけでなく、作家と編集者の長年にわたる微妙な関係が表面化した形になった。

 同じ紙面には、作家の久米正雄が調停に乗り出そうとしたが、婦人公論側の提訴で断念。同じ作家の山本有三とともに声明を出したことが各紙に載っている。そこでは菊池の暴力の直接の原因は「菊池氏が送った抗議文を勝手に改竄し、作家の著作権、人格権を侵害し、さらにこれを商策に用いた奸計に対しての憤懣(ふんまん)から」(東日)とし、その後の経過についても中央公論側に非があるとして、菊池の側に近い立場を表明した。文芸家協会も8月27日、著作権擁護の決議をし、28日には嶋中社長に面会して福山編集主任の陳謝などを求めた。この間、菊池は27日、正式に提訴。対立は泥沼化すると思われた。

■菊池寛はなぜ激怒したのか

 ところが、8月29日付朝刊各紙は事態の収拾を伝えた。「中央公論社対菊池寛氏の問題は、検事局でも調停の腹を決めていたが、事件の遠因をつくった『女給』の作者・広津和郎氏が調停に立って奔走の結果、28日午後6時、中央公論社側と菊池氏が広津氏を介して正式に互いに遺憾の意を表して解決し、29日午前中に双方とも告訴を取り下げることになった」(東日)。最悪の事態は避けられたが、こうした騒ぎも関心を集めたのだろう。9月21日付東朝夕刊の婦人公論10月号の広告には「再版出来 工場の全能力を尽くした大増刷の初版は、果然発売数日を出でずして売り切れた」とあり、「女給」については「モデル問題で作者広津氏は『菊池寛氏に答ふ(う)』を併載した」と書かれている。

 その「菊池寛氏に答ふ」は「新聞広告は菊池君に対してあくどすぎた」が「あの新聞広告ぐらい屁(へ)とも思っていまいと軽くみていた」「最後まで読んでくれれば分かるが、僕はあの小説の作者として、別段菊池君を悪意には取り扱っていない」と強調。「(小説の)女主人公自身、君に非常に感謝している。僕はあの小説にその通り書いている」「結局、この『女給』は、君を書くことが主でも何でもない。この女主人公の過去の苦しみを書くのが主である。一見ヴアンプ(妖婦)型にしか見えないこの女主人公の口から語られた過去の彼女の苦しみが僕を感動させたのだ」と弁明している。こうして、菊池寛対婦人公論の紛争は一件落着した。しかし、こう振り返っても疑問が残るのは、菊池寛はなぜそれほど怒ったのだろうかという点だ。それを探るためにも、“舞台”となった当時のカフェと女給、そして作家と出版界がどんなものであったかを見なければならない。

“モテないこと”を暴露されて激怒!? 菊池寛の出版社殴り込み事件の背景にあった「エロ・グロ・ナンセンス」時代 へ続く

(小池 新)

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