「お化け遺伝子」ツイートまで炎上…京都ALS嘱託殺人とナチス“禁断の書”戦慄の共通点

「お化け遺伝子」ツイートまで炎上…京都ALS嘱託殺人とナチス“禁断の書”戦慄の共通点

野田洋次郎 ©?文藝春秋

 安楽死や優生思想にあらためて関心が高まっている。先日、京都ALS女性嘱託殺人事件について報道され、やまゆり園事件も発生より4年を迎えた。

「大谷翔平選手や藤井聡太棋士や芦田愛菜さんみたいなお化け遺伝子を持つ人たちの配偶者はもう国家プロジェクトとして国が専門家を集めて選定するべきなんじゃないかと思ってる」。RADWIMPSの野田洋次郎によるツイートも、これに合わせたかのように大炎上した(本人は冗談と弁明)。

■『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』

 そんな今年、ある“禁断の書”も密かに刊行100年を迎えた。『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』。ドイツの刑法学者カール・ビンディングと、精神科医アルフレート・ホッヘの共著で、ナチス安楽死思想の原典になったと指摘される本だ。

 同書は、『 「生きるに値しない命」とは誰のことか 』(森下直貴、佐野誠訳著、窓社)というタイトルで詳細な注付きの翻訳が出ているが、その内容は、タイトル以上に衝撃的で、戦慄するほど現在に通じるものである。

 同書は、ビンディングによる、こんな問いかけよりはじまる。

「さて、その問題とはこうである。命[生/生命]を終わらせる行為が許されるのは、現行法がそうであるように緊急事態を除けば、相変わらず本人の自殺[自己殺害/自害]に限定されるべきか。それとも、他人[人類同胞]による殺害へと法的に拡大されるべきか、また、その場合にはどの程度の範囲までか」(引用は前掲訳書より。いずれもカッコは原文ママ。ただし、ドイツ語の併記と傍点は除き、漢数字をアラビア数字に直した。以下同じ)

 危険なテキストなので訳者も慎重だが、ようするに、「安楽死は許されるのか、そしてもし許される場合、それはどの範囲までか」という問いかけである。

 これだけであれば、あるいは現在でも、尊厳死の文脈で通用するかもしれない。だが、本書が問題なのは、その対象を「疾病または重傷ゆえに助かる見込みのない絶望的な状態」におかれている人だけではなく、「治療不能な知的障害者」にも安易に広げ、しかもそこに経済的・人道的な理由づけを試みているところにある。

■安楽死の肯定に「家族や社会の重荷」

 ふたたびビンディング自身のことばを引用しよう。

「彼ら(引用者注、治療不能な知的障害者)の生にはいかなる目的もないが、そのことを彼らは耐え難いとは感じていない。家族にとっても、社会にとっても彼らはとてつもない重荷になっている。彼らが死んだとしてもほとんど心が傷つくことはない。もちろん場合によっては母親や誠実な介護婦の感情では別であろうが。ともかく、彼らには手厚い介護が必要なので、その必要性にもとづいて、絶対的に生きている価値がない命を何年も何十年もかろうじて生かし続けることを仕事とする職業が成り立っているのである」

 ここで、やまゆり園事件の犯人を思い出さずにはおれない。彼もまた、犯行の動機に、家族や社会の負担を挙げていたからだ。このような発想は、古今東西を超えて、定期的に吹き出してくるものらしい。

 なお、訳書の解説によると、ヒトラーが1939年に安楽死の命令書を出す前に提出を受けたと考えられる報告書には、ビンディングの名前が引用されていたという。『生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁』が、ナチスの安楽死計画にも連なっているとされるゆえんである。

■執拗なまでに「負担」を数字化

 それにしても同書を読むと、その表現の苛烈さに何度も驚かされる。100年前の本ということを考慮しても、なかなか受け入れがたい。とりわけ、続くホッヘの文章はそうだ。

「誰にとっても最も重荷となる連中」「空っぽの人間容器」「お荷物連中」「欠陥人間たち」――。医療従事者として「現場を知っている」という認識が、かえって精神障害者への差別的な発言を引き出している。

 しかもホッヘは、ビンディング以上に、安楽死に経済的な意味合いを見出そうとし、具体的な数字を数え上げている。

「私は全ドイツの該当する施設にアンケートを送って必要な資料を入手すべく努めた。そこからわかったことであるが、重度知的障害者の養護にこれまでは年間1人あたり平均1300マルクかかっている。ドイツにはいま[施設外で]存命している者と施設で養護されている者との両方を合わせると、すべての重度知的障害者は推定でほぼ2万から3万になる。それぞれの平均寿命を50年と仮定すると、容易に推察されるように、なんとも莫大な財が食品や衣服や暖房として国民財産から非生産的な目的のために費やされることになる」

 このあとも、民間施設の場合は借入金の利子も計算に入れなければならないとか、患者が70歳以上に達する場合もあるとか、非倫理的な金銭勘定が執拗なまでに続き、戦慄を禁じえない。

 この背景には、ドイツが第一次世界大戦で敗北し、経済的な苦境におかれていたことも大いに関係している。つまり、「こんな非常時なのに、非生産的なことに金を使っていていいのか」ということだ。ここまで言い換えると、昨今の日本にも似たような発言が見つけられるのではないか。

■「安楽死ツアーの一択」「若い人の負担が減ればよいではないか」というツイート

 京都ALS女性嘱託殺人事件で逮捕された医師のひとりが使っていたといわれるアカウントにも、今年だけでこんなツイートが残されている。

「コロナの経済対策?ガラガラの温泉施設で安楽死ツアーの一択だろ」(2月25日)、「シンプルに考えて、毎月の療養病床入院料1イA 1795点×30日 = 538500円 このうち自己負担はたったの44000円 差し引き 494500円は誰かの負担 地獄や」(3月26日)、「コロナで介護が滅んで老人の死屍累々になっても、別に驚かない。若い人の負担が減ればよいではないか」(4月2日)。

■ホッヘはナチの安楽死計画に反対した?

 そんなホッヘについて、忘れられないエピソードが存在する。

 ビンディングは、本書の刊行直前に亡くなったけれども、ホッヘはナチ時代の後半まで生きていた。では、ホッヘはナチの安楽死計画に諸手を挙げて賛成したのか。否。むしろ反対にまわった。

 なぜか。それは、ホッヘの身内が、まさに安楽死の犠牲になってしまったからである(ちなみに彼は、妻がユダヤ人だったために、長年勤めていた大学を辞めてもいる)。これほど教訓的な末路がまたとあろうか。

「殺してよい」と主張する者は、自分を“強者”の側だと思っている。だから、自分や自分の周りが安楽死の対象になると考えていない。ところが、人間は年を取るし、病気にもなるし、怪我もする。“強者”もいつかは“弱者”になりうるのだ。そして“弱者”になったとき反対に回っても、もはや手遅れなのである。

「安楽死で負担軽減」。それは、「家族のため、社会のため」という美辞麗句をともなって、われわれの間に浸透し、尊厳死の議論とも結び付く。そしてそれを主張する者自身にも、ときに襲いかかってくる。そんな魔の思想とどのように対峙するのか。100年前の“禁断の書”をめぐる歴史は、そんな問いを今も生々しくわれわれに問いかけている。

(辻田 真佐憲)

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