現代の「魔女狩り」? 発達障害の専門家がばらまく「不安」と「ウソ」

現代の「魔女狩り」? 発達障害の専門家がばらまく「不安」と「ウソ」

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発達障害の専門家は「未熟さ」と「先天性の脳機能障害」を区別できない から続く

「発達障害」という言葉は既に人口に膾炙し、日本国内でもその特性や対策について認知が広まってきた。しかし、実は、「発達障害」はいまだに科学的根拠のある診断が確立されておらず、過剰診断や過剰投薬の問題も起こっている。

「市民の人権擁護の会日本支部代表世話役」の米田倫康氏は、大衆の無知をいいことに、不安を煽り権限の独占をしている専門家の存在を指摘する。米田氏の著書、 『発達障害のウソ――専門家、製薬会社、マスコミの罪を問う』 (扶桑社新書)より、一部を引用する。

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■なぜそれでも人々は精神科医を信じるのか

「お医者様」という言葉が表す通り、専門家信仰が強い日本において、数々の専門家の中でも格別な地位を築いているのが医師です。他人の命を預かるという尊い責任を引き受けている以上、医師が人々の畏敬を集めること自体何らおかしなことではありません。そのような専門家信仰、お医者様信仰が行き過ぎた結果、大衆が一方的に専門家である医師に身を委ねるようになった……という推察はあながち間違いではないでしょうが、それだけだとすべてを説明するのは無理があります。

 どんな分野の専門家についても言えることですが、もしも専門家が明らかに良い結果を出していて、ここの先生のところに行けば間違いなく問題が解決するという評判が広がっているのだとしたら、その専門家に身を委ねる人々で殺到するのは自然なことです。しかし、さまざまなデータが示すのは、むしろ発達障害を含む精神科領域を独占している専門家は、目に見えた結果を出していないということです。では、なぜ結果を出していない専門家に人々は身を委ねるのでしょうか?

■「わからない」ことで不安を煽り、「権限の独占」をおこなう

 専門家に身を委ねる動機は他にもいくつかあります。一つは、その専門家が特別な権限を独占していて、そこに依頼するしか手段がないという場合です。これは法律上仕方がないことです。その権限を持たない人が勝手にやってしまうと罪に問われてしまう可能性すらあります。

 たとえば、医師法によって、医師(あるいは歯科医師、獣医師)にしか診断や薬の処方ができないことになっており、それ以外の人がやってしまうと医師法違反(無資格医業)に問われます。診断書がないと特定の支援制度を受けられないという場合、不本意であっても診察を受けて診断書を書いてもらう必要があります。

 もう一つよくある動機は「わからないから」というものです。わからないから弁護士に手続きを任せる、わからないからとりあえず業者に修理を任せる、わからないからプロの調理師に作ってもらう……。これもごく普通のことでしょう。面倒なことや自分では解決できないことをやってくれるのが専門家であり、それに依頼するのは当たり前のことです。

 しかし、世の中は誠実で有能な専門家ばかりではありません。人々の「わからない」を利用することで顧客をカモにする専門家というのはどこの分野でも存在します。それどころか、あえて物事を複雑、難解にさせることで自分たちの専門性を演出し、既得権を守るようなことが業界ぐるみで行われていたりもします。そもそもの話、「権限の独占」と「わからない」を組み合わせ、不安と恐怖を煽ることで人々を支配するというやり方は、太古の昔から行われてきました。

■脅威の正体を知りたい心理を利用する

 たとえば、地震やら伝染病やらがどういう原理で発生するのかわからない時代であれば、神の祟りや魔女のせいだと人々に思わせ、自分だけにそれに対処できる特殊な能力や権限を持っていると演出することで、都合よく人々を支配することが可能でしょう。

 ここで重要なのは、大衆の無知と不安、恐怖心を利用すれば、実際には問題を解決する能力がなかったとしても、簡単に人々を支配できてしまうということです。そして、大衆が「わからない」状態から解放されてしまったら、その支配の魔法は解けてしまうということです。

 人間にとって一番怖いことは、自分にとって脅威となる対象について「何もわからない」という状態が続くことです。だからこそ、本能的にその空白を何かで埋めることで理解しようとします。空白を埋めるためであれば、それが真実でなくても構わないのです。地震が「神の祟り」によって引き起こされているという情報は誤りだとしても、人々はそのように理解することで安心するのです。何もわからない状態よりも不安は解消されるからです。

■「魔女狩り」と「発達障害」信仰

 さて、災難の鎮静化のために人身御供を差し出したり、疫病の流行を防ぐために魔女狩りを行ったりしていた過去の歴史を今の時代から振り返ると、あまりにも無知で野蛮で馬鹿げたことだと感じることでしょう。今の時代に生まれて良かったと思うことでしょう。しかし、これらと大して変わらない、本質的には同じ現象が今の時代にも変わらず起きていることに気付いている人はほとんどいません。後の時代の人々からすると、魔女狩りを過去の迷信だと嘲ける我々のことなど、鼻糞を笑っている目糞にしか映らないでしょう。その我々がはまりこんでいる現象こそが、昨今の異常な発達障害ブームです。

 大衆は、理解できない、理解したくない現象をすべて強引に発達障害に結び付けるようになっています。その背景には「無知」がありますが、そのさらに背後には、大衆に無知と誤解と混乱を積極的にもたらしている人物がいます。発達障害の権威が大衆向けに書いた書籍も、そのような専門家に監修された大衆向けの報道も、行政が発信する情報も、そのほとんどが「第一の罠」と「第二の罠」が張り巡らされたものばかりです。それはすべて専門家の権威を高め、その権威に対する大衆の妄信を引き起こしているのです。

 この状況に対する解決策は、まず「知る」ということです。すべては知ることから始まります。

■勇気をもって不正に切り込む

 批判だけなら誰でもできると言われます。否定ばかりするのは無責任でお気楽だという声もあります。しかし、建設的な議論をストップするために何でも反対するということと、おかしなことに対して「おかしい」と声を上げることはまったく違います。不正に対して誰もが目を背けている領域に最初に切り込むには勇気が必要です。それは決して誰でもできることではありません。

 精神科における人権侵害や不正、犯罪行為に対して声を上げると、必ず「じゃあどうすればいいんだ?」「代替案を示せ」「お前がやってみろ」などと文句の声が出てきます。しかし、不正に手を染めている人に対してするべきことは、単に不正を止めさせるだけです。

 会社が一部の幹部の横領によって経営危機を迎えていたとします。その際にやるべきことは何でしょうか。まずはその不正の実態を明らかにし、関係した人を排除することでしょう。そのステップを踏まずに、同じ体制のままで経営の黒字化を議論しても何にもなりません。不正を排除してから初めて健全な議論ができるのです。

■「発達障害は一生治らない」はウソ

 これは発達障害領域でも同様です。不正とまではいかなくても、ウソや誤解が蔓延することで健全な議論を阻害しているのであれば、まずはそこを排除する必要があります。少し前まで、発達障害は先天的な脳の障害なので治ったり改善したりするようなものではないというのはその界隈での常識でした。知的障害を伴う重度な自閉症ならともかく、軽度のADHDやASDまでもそのようにみなされ、「改善する」「治る」などとうたうものは徹底的に攻撃されて排除されました。

 ところが、disorderの概念はそもそも一生治らない障害という意味ではなく、正常な状態から外れた変調という意味です。それに、現在の精神医学の診断手法であれば、脳に先天的な障害を抱える人をピンポイントで特定することなどできず、診断自体があくまでも仮のものに過ぎないという技術的な限界を考慮すると、診断された人を一生治らない、改善しないとみなすこと自体がおかしいことになります。

■特定できない「本物の発達障害」議論は不毛

 ようやく、発達障害といったん診断された人たちが、その後改善されたり、完治としかいえない状態になったりすることがあると認識され始めました。それでも、「特定の療法によって治癒するような状態はそもそも発達障害ではないので、結局本物の発達障害は治るものではない」と言い張る人はいます。しかし、そのような「本物の発達障害」を特定して診断する技術が今のところ存在せず、本物ではない状態に対して誤って発達障害と診断されている現実があるのであれば、治る治らない論争ほど不毛なものはないでしょう。ここで重要なのは、治らない一辺倒から脱却し、ようやく健全な議論ができるようになってきたということです。

 発達障害を理解するためには、第一の罠と第二の罠から脱却する必要があると第一章で説明した通りですが、本書の当座の狙いは、まずは健全な議論ができる状態にすることにあります。そうすれば、今まで抑圧されてきた建設的な考えや手法が広がるからです。

■「正義」を掲げる叩きたいだけの人

 発達障害に対する対処方法は、別に既存の療育や薬物療法だけではありません。発達支援、心理療法、感覚統合療法、食餌療法、栄養療法、ニューロフィードバック、自然療法、その他代替療法など、いろいろな療法や手法が実践されています。それぞれ大衆向けの書籍などもあるので、興味ある方はぜひご自身で調べてみてください。

 ところで、SNSを中心に「医学デマ」「ニセ医療」を徹底的に追及して叩く風潮があります。冷静に分析的に問題を解説してくれる専門家もいれば、正義を掲げて特定の個人や団体を叩くネット私刑に走る人々もいます。不思議なことに、主流派から外れた人々が発信した情報の誤りや科学的根拠のない実践は徹底的に非難するのに、なぜか主流派の医師による誤った情報や危険な治療、非科学的な実践については批判が向けられないのです。正義を掲げるのであれば明らかに影響力が大きい方に鉾を向けるべきであるにもかかわらず。

 そのため、主流派ではない手段については叩かれやすいという傾向があります。叩くことが目的となっている人は、ちょっとしたことで揚げ足を取ります。そしてやたらとエビデンスを持ち出します。そのような人はエビデンスを歪めて使うのが特徴です。

■エビデンスは「真実・真理」という意味ではない

 エビデンスというのは「根拠」という意味ですが、「エビデンス=真実や真理」ではありません。あくまでも現時点で最も確からしいという意味に過ぎません。エビデンスも低いレベルから高いレベルまでピンキリであり、エビデンスが得られたといっても研究者の一見解に過ぎない程度のものもあり、誤っている可能性があるものも含めてエビデンスです。そして、「エビデンスがない=ウソ、ニセモノ」というわけでもありません。しかし、エビデンスの有無のみが価値基準となり、低いレベルのエビデンスを印籠のように振り回す人もいるのです。

 客観的指標のない精神科領域では、いとも簡単にエビデンスは歪められます。安全性、有効性を確かめる厳格な治験においてですら、不正なデータ捏造が行われたこともありました。

 エビデンスは重要ですが、エビデンス至上主義に陥ることは、皮肉にも真実から目を背けることにもなるのです。そして、そのようにエビデンスを悪用することもできるのです。

 確かに世の中にはインチキ療法はたくさんあります。弱みにつけこむ発達障害ビジネスのようなものもあります。しかし、主流派のインチキを批判することなく、非主流派の手法によって実際に良くなっている人々を確かめることなく頭ごなしに否定するような人々は同じくらい信用できません。

■大切なことは何なのか

 私は、今ここでどの手法が良いとかダメだとかいうつもりはありません。既存の療育や薬物療法の是非を問うつもりもありません。重要なのは、選択肢が多くあること、選択する自由が守られること、選択するために十分な情報が行き届いていることです。

 私が批判しているのは、精神科診断が絶対視されることで将来の進路が制限されることや、薬物治療以外に選択肢がほとんど与えられないことや、十分なインフォームドコンセントのない投薬がはびこっていることや、しばしば薬物治療が強要すらされていることです。このような状況がある限り、健全な議論も有用な選択肢も広がりません。

(米田 倫康)

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