不利な局面でどう指すのか 永瀬拓矢叡王は曲線的な順で粘りに行った

不利な局面でどう指すのか 永瀬拓矢叡王は曲線的な順で粘りに行った

残り時間はタブレットで表示されている 代表撮影:日本将棋連盟

「一昔前なら破門」雨の将棋会館で豊島将之竜王・名人が繰り出した序盤戦術 から続く

 叡王戦は「チェスクロック方式」が採用されているタイトル戦だ。

 以前はプロの対局はすべて「ストップウオッチ方式」のみであったが、少しずつチェスクロック方式の対局が増えている。タイトル戦では、叡王戦の他には王座戦のみがチェスクロック方式で行われる。どちらも現在、永瀬拓矢叡王がタイトルを保持している。

■対局者と記録係の間に時計が置かれている

 ストップウオッチ方式は、59秒以内に指せば持ち時間が減らない。一方、チェスクロック方式は、30秒を2回考えたら1分消費してしまうのだ。チェスクロック方式では、両対局者に残り時間が見えるように時計が置かれている。プロ棋戦がニコニコ生放送で中継されるようになって久しいが、チェスクロック方式は始まったばかりであり、対局者と記録係の間に時計が置かれているのを見るのはなかなか目新しい。

 チェスクロック方式について、立会人の塚田泰明九段に聞くと、

「持ち時間が見えるのは最初は嫌だった。1時間切ったらどんどん減るから気になる。持ち時間の粘りが効かないから。もう慣れたけど」

 とのこと。アマチュアの持ち時間がある対局は全てチェスクロック方式であるため、持ち時間の粘りという感覚はなく、この言葉は非常に印象に残った。

■積極的に相手が間違えやすい指し手を好む

 局面に戻ろう。

 永瀬は、豊島将之竜王・名人の攻めを骨と肉で受け止める順を選ばず、得した桂馬を使って攻めに出る。豊島は永瀬の傷口目がけて反撃する。数手後、駒の損得がなくなり、局面が一段落すると、形勢は豊島に大きく傾いていた。

 局面が不利になると、最善手というものは本当は存在しない。なぜなら、有利な側が正しく指せばどう指しても負けてしまうからだ。そのため、不利になった時の指し方にはかなり個性が出る。

 藤井聡太棋聖の指し方は、不利になっても比較的自然な手を指すことが多い印象である。そして、最終盤で相手が間違えた一瞬を見逃さず、一気に抜き去ろうというのだ。

 一方永瀬は、積極的に相手が間違えやすい指し手を好む印象がある。プロ棋士はほぼ全員子供の頃から終盤が強く、そうやって逆転勝ちしてきた経験がたくさんあるので、こちらの方が多数派であると思うが。上手く行けば追いつく可能性があるが、そこで正確に指されると一気に差が開いてしまうリスクもあるのだ。

 本局も永瀬は曲線的な順で粘りに行く。しかし、豊島の対応が正確で、差が大きく開いた状態で18時から30分間の夕食休憩に入った。

「今日は早く終わりそう」

 との声があちこちから聞こえてくる。

 夕食休憩後、図の局面で豊島に△5四桂という決め手があった。しかし、プロの第一感は△2二歩で、こちらも手厚く堅実な手であり、豊島は後者を選んだ。

■永瀬にとって頑張り甲斐がある局面になってきた

 不利な方には最善手がないと書いたが、有利な方も、逆転に至らない範囲ならばどういう順を選んでも良く、だからこそ悩ましいのだ。決め手には遠いものの、こちらも手厚く十分に優勢をキープできる。

 しかし、永瀬にとって頑張り甲斐がある局面になってきた。飛車を抑え込み、標的になっていた銀を守りに引き締め、遊んでいた桂馬を攻めに活用して攻めかかる準備をする。両者持ち時間が減ってくる。

 ここで、塚田九段がスーツから和服に着替えるために控室を出る。

「終局の1時間前くらいに着替えに行くのが丁度いい。ギリギリになると焦るから良くないんだよ」

 塚田九段が着替えに行っている間に、永瀬は桂馬をさらに跳ねて攻めかかる。豊島は金を上がり、得した香車を受けに打つ。局面は混沌としてきた。AIの評価値もいつのまにか互角に戻っている。

 和服に着替え終わった塚田九段から「(着替えるのは)早まったか」との冗談も飛ぶ。

「引き分けなら千日手ですね、持将棋にはなりにくい」と塚田九段。しかし、最初の局面よりはずっと持将棋の可能性が出てきたのは明白だ。「持将棋にはなりにくい」というのは願望も含まれていたのではないだろうか。

■時間がなくなった時もかなり個性が出る

 一方のニコ生コメントでは、早くも3回目の持将棋を期待するコメントも散見される。好きなタイミングで画面をつけたり消したりできる視聴者にとっては、美味しい出来事なのは間違いない。

 一方で、アンケートでは願望込みで引き分け予想が過半数を超えていた。

 解説の佐藤天彦九段からは「(持将棋は)気は早いけど、なくはないですね」との声。

 局面は進み、両対局者ともに持ち時間を使い切り、両者1分将棋に。形勢は互角。前局では1分将棋が160手も続いたが、本局はどうなるのだろうか。

 形勢が不利な時にどういう手を選ぶかは人によると書いたが、時間がなくなった時もかなり個性が出る。

 タイトルホルダーと言えども人間である。1分では深く読みきることはできない。読みきれないままに指し手を選ばないといけないのだ。その時にどのような手を選ぶか。攻めきれるか分からないまま攻めるか、堅実で大きなミスになりにくい手を選ぶか。

 じっくり進めて五分。読みきれないまま攻めて、攻めが通れば勝ち、受かっていれば負け。それが五分五分と判断した時にどちらを選ぶのか。

 永瀬も豊島も、このような時に堅実な手を選ぶことが多い印象である。安定感と言っても良いだろう。それが今シリーズの、2回の持将棋、長時間の1分将棋につながっている。

■最善を追い求める過去の積み重ねがあったからこそ

 ポーカーを非常によくプレイする有名な投資家がいる。彼いわく、

「ポーカーや麻雀は、最善を尽くした後は運に任せるしかない。それがポーカーのツラいところでもあり、楽なところでもある」

 とのこと。

 最善を尽くしても負けてしまうこともあるのがポーカーだ。逆に言えば、悪手を選んだのに運良く勝つということも日常である。

 一方将棋は本当に最善を尽くせば運悪く負けてしまうということはない。その代わり最後まで自力で勝ちきらないといけないのだ。

 読みきれない状態で指して、間違えていたら一気に負けになってしまう。それを良しとせずに最善を追い求める過去の積み重ねがあったからこそ、永瀬と豊島はこの場で対局しているのだ。

 筆者なら、堅実に行っても五分、攻めて勝てる可能性も五分だと思ったら読みきれていなくても攻めてしまう。それが将棋のアマチュアの特権でもある。一方でそのような開き直りと運悪く負けてしまうことへの諦観は、勝ち負けに運の要素がからむポーカーや麻雀においては非常に大切なのだ。

 ここで、AIが千日手の順を最善と示す。人間には非常に選びにくい順だ。解説、控室の両方から悲鳴があがる。

 佐藤天彦九段は「流石の軍曹(永瀬の愛称だ)でもこれは選ばないでしょう」と。

 その言葉通り、永瀬は自然に豊島玉に攻めかかる。

■声を発する時はマスクをするのが新時代のマナー

 1分将棋の中、豊島は上部への脱出の含みがある手を指す。盛り上がるニコニコ生放送のコメント。悲鳴のあがる控室。

 しかし、終局は突然やってきた。

 一瞬のスキを突いて、永瀬が盤上と持ち駒の2枚の桂を捨てて豊島玉に攻めかかり、あっという間に豊島玉に必至がかかったのだ。永瀬玉に王手は続くものの、はっきり詰まない。読み切りである。

 負けを悟った豊島は、水を飲んだ後、鞄からマスクを取り出す。

 声を発する時はマスクをするのが新時代のマナーである。ニコニコ生放送でも「投了マスク」とのコメントが多数。そしてその通り、豊島が投了した。

 感想戦は、対局者から2メートルほどの距離にいた筆者にも聞こえるかどうかという小声で1時間ほど行われた。

 局後の勝利者インタビューで永瀬は、

「今日食べたバナナは2本。バナナを食べだしてから1勝、2勝と挙げることができたので、バナナを欠かさずしっかり食べて」

 と頑張ることを表明した。

 これで対戦結果は第5局を終えて永瀬の2−1。本来であれば既に決着がついているか、片方がタイトル獲得まであと1勝となっているはずだが、この二人はこれから何局指すつもりなのだろうか。次戦以降も非常に楽しみである。

(木原 直哉)

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