日本初の女性アナウンサー・翠川秋子は、なぜ元ラガーマンの好青年と"心中”を決意したのか

日本初の女性アナウンサー・翠川秋子は、なぜ元ラガーマンの好青年と"心中”を決意したのか

日本初の女性アナウンサー・翠川秋子

日本初の女性アナウンサーが子どもをおいて年下男子と失踪、海へ……「翠川秋子心中事件」とは から続く

< 日本初の女性アナウンサーが子どもをおいて“年下男子と失踪”…… 1ヶ月後に起こった「翠川秋子心中事件」とは >から続く

 1月13日付夕刊で読売は、アナウンサーを退職した後の秋子の消息を伝えているが、その見出しは「女の俄(にわか)浪人 東京放送局で紅一點(点)の 翠川秋子さん逃げ出す 事情は何? 放送局沈黙」。記事も「愛宕山のJOAKから毎朝鼻つまみ声で家庭講座の放送をしていた唯一の女アナウンサー、断髪洋装の翠川秋子さんが」という書き出しだ。

■「世間のうわさに対してどんな態度をお取りです?」と聞かれ……

「考えさせられましたある事情のためと、一身の都合から」退職したことを知らせる文書を知人に送ったと報じている。「先年暮れごろから東京放送局内に同女史を中心として起こった活劇事件のいまだ記憶に新しい今日のことであるから」「放送局内に彼女の存在を許さない何らかの事情がひそんでいるらしく……」と記述しているから、事情はある程度伝わっていたのだろう。

「新名常務理事は『翠川さんは新年早々辞表を出されまして、一身上の都合でぜひ辞めなければならないからと言われますから、ことに婦人のことでもあり、別に干渉がましいことを言わずに聞き届けました』、と簡単に受け流していたが、昨日まで机を並べて仕事をしていた同僚や、職務上当然退職などについて知らなくてはならない地位にある人までが『何で辞めたか一切知りません』と逃げていた」と書いている。

 読売は同年9月6日付朝刊でも「アナウンサーの行方を尋ねて」の第1回で「曾(かつ)ての翠川秋子さん、今では 本名の荻野千代子を名乗る」の見出しで続報を掲載。「家庭電気普及会の編集主任と早変わり」と書いている。同協会が発行している雑誌「家庭の電気」の編集を一手に引き受けていたという。記事では「日本職業婦人協会を始めているから、これを大きくするの。仕事? 職業婦人の救済よ。ミシンや編み物の教授、副業仲介、それに職業仲介。放送局を首になった時の浪人の体験もあるから、一生懸命で困っている方を助けてあげるの」と抱負を語っている。「あなたは身辺を取り巻く世間のうわさに対してどんな態度をお取りです?」という記者の質問に「一々怒っていても大変だから聞き流してるわ。弁明の要はなし、公然といばれることのほかしないし……」と答えている。

 家庭電気普及会は後藤新平が会長の社団法人。放送局に続いて、ここでも後藤人脈に救われたことが分かる。

■「ああ神様、どうか幸福を与えてくださいませ」

 1930年6月6日付報知新聞家庭欄の「新婦人日記」には「職業を持つ女 温い友情に感激」の見出しで「雑誌『皮肉』主幹」の「荻野千代子」として登場している。友人と「サン・スーシー社」を設立。雑誌「皮肉」の刊行を始めていた。しかし、その雑誌もうまくいかず、読売の失踪の1報にあったようにおでん屋も失敗。「初代女性アナ翠川秋子の情死」は「この店が立ちゆかなくなったことも『死の清算』と無縁ではない」と書いている。

 遺体発見前の8月16日に刊行された「婦人公論」9月号に、「姿なき母の言葉」と題した次男輝雄の文章が掲載された。そこには、秋子の回顧録の一部も。「維新前には与力という武士の家の一人娘として生まれ、父が拝領の地・日本橋亀島町1丁目27番地で呱々の声をあげてから、近所の人たちは地主様のお嬢様として、ただわけもなくもてはやした」という生い立ちや、結核と思われる病気で夫を失った後に「石にかじりついても独立して子どもを一人前にしてみせる。私は決心した」と決意したこと、数多くの職業体験の苦労とそこから生まれた子どもらへの思いもつづられている。

「世の中はせちがらい。家庭の内で考えていたようなものではない。成女高等女学校の教諭といったところで、単科の受け持ちであれば、大した給料にはならぬ」「家庭教師となる。夜はレターペーパーの図案やその他の賃仕事で(午前)2時3時まで働く。夜更けて床に入り、部屋の内を見渡すと、子どもの守りに疲れ果てた老母が無心にすやすやと眠っている傍らに、無邪気な寝顔を見せる3人の子ども。末はどうなることかも知らず、ただこのやせ腕を頼りにして芋づるのようについている、この4人の者。ああ神様、どうか幸福を与えてくださいませ。私の命を縮めてもみんなの生活がなんとか安定しますようにと、あたかも自分の命数が千万年もあるかのような無理な願いも起こしてみた」……。

■「派手なサマードレスを着た女の死体が漂着」

「母から女へ逆轉(転) 翠川女史情死 派手な海水着の死體(体)浮上がる 男の行方は尚不明」(東朝)、「房州の海にボートを漕出し “運命の豫(予)約”を果す」(東京日日=東日)。1935年8月21日付夕刊各紙は大きく秋子の遺体発見を報じた。

「千葉県館山北条町、山中旅館に滞在中の自称・東京市麻布区笄町1-2工政会社員・黒田潔(30)、同妻・洋子(39)の両名は19日午後3時ごろ、北条海岸から貸しボートで館山湾外に乗り出したまま帰来せず行方不明となったので、届け出により北条署で捜査中、20日午前7時半ごろ、館山湾内西岬村坂田地先海岸に、40歳ぐらいの首飾りをつけた、派手なサンマー(サマー)ドレスを着た女の死体が漂着。前記洋子なる者の死体と推定され、北条署員が検視に向かった。同署では死の道行きか激浪のため遭難したのか不明で、謎の死として警視庁に照会する一方、引き続き捜査を続けている。この男女の身元は、北条署で取り調べの結果、女は初代アナウンサーとして家出中の東京市新宿、翠川秋子こと荻野千代(43)、男は東京市豊島区池袋町2丁目1166、弁護士法学士・藤懸重次氏の長男で東京蒲田区役所吏員・藤懸羊次君(29)と断定され」たと東日は報じた。

■「元中央大ラグビー部主将の好男子」と心中か

 時事には山中旅館で過ごしていた2人についての旅館の談話が載っている。「夫婦と称し、大変仲がよく、女の方は上流階級の奥様然として」「きりっと引き締まり、それでいてどこか病身に見える非常な美人で、女の方が甘えていました。毎日朝から海へ行って泳いだり、ボートで魚釣りをしたりして、夜は差し向かいで晩酌をやったり、トランプを夢中になってやっていました」「なるべく他との交渉を断ち、人目を避けていたようでした」。

 8月21日付東朝朝刊は「翠川女史・死の相手 元中大ラガー 蒲田区役所勤務の好男子」の見出しで、藤懸羊次が中央大ラグビー部で主将をしていたことなどを報道。同じ日付の読売は2人の「なれそめ」をこう書いている。「初めて知り合ったのは3年前の昭和7(1932)年11月であった」「同君がその年の秋、同大学ラグビー部が大阪へ遠征した際同行。その帰りの列車中で初めて女史を知った」。別項で羊次の父親は「心中するほどの仲だったとは知らなかったが、事実とすれば、息子は引きずられたのではないか」と発言。秋子の長女美代子は「母が新宿におでん屋を出していた時、藤懸さんはたびたび見えており、母と非常に親密にしていました。しかし、藤懸さんは私たちの母を本当の母のようだと言い、母自身も藤懸さんを自分の子どものような態度で交際していた」と話している。それにしても、この読売の記事の見出しは「戀(恋)の骸(むくろ)と消えた翠川女史 “母性”解消の失踪は 女人愛慾(欲)の情死行 若き愛人と最後の営み」。当時にしても書きすぎではないか。

■「遂に母性から女性に転落」映画化の話も

 その後も、秋子の遺体がボートで運ばれて山中旅館に安置され、3人の子どもが駆け付けて遺体と対面したことを各紙は大々的に伝えた。火葬場で遺体が荼毘に付され、遺骨を抱いた3人の兄妹が両国駅に着いた際の写真も。最終的に羊次の遺体は8月25日午後、海上で発見されたが、その間、かなりの過熱報道が行われたようだ。そのあおりか、映画化の話もあったらしい。

 国策通信社の同盟通信社が発行していた「国際写真新聞」9月8日号は「怪しからん・だが・近代的な… 翠川秋子情死事件と母親興行化映画」の見出しで「日活と松竹という、日本における最大最古の両映画会社が堂々と映画化、満天下に発表するというのである」と伝えている。

「冷酷な現代の社会機構の重圧のために、遂に母性から女性に転落。哀れはかなく散った一人のかよわい女のために、満天下の女性に訴え、全社会へ抗議する」という触れ込み。遺族も映画化に同意したらしく、「日活は、事件をより『生々しく』『より赤裸々に』描いて、真に『翠川女史をなぐさめるため』翠川女史の遺児・翠川奈美江こと荻野美代子さんを、遺児のままの役で出演させることに契約が成立した―という」としている。しかし、映画が完成・公開されたという話はない。どうなったのだろうか。

■彼女を決定的に死に駆り立てたもの

 そんな中、8月22日付時事朝刊「婦人と家庭」欄では「母の務(め)を果した 老いざる未亡人 彼女達はどうしたらよいか?」という識者談話を特集している。記事で興味深いのは、事件に対する当時の読者の反応を捉えたリード部分だ。

「翠川秋子女史の年下の青年との情死事件は、同女史の家出当時、『母の務め終われり』として一人行方をくらましたと一般に考えられていただけに、意外な感を抱かせました。ことにその行動を同女史の『母』の立場からとして解釈し批判した人々にとっては、おのずから別な批判の内容が現れたわけです。ことにこの場合、一般的に考えられることは、女としていまだ老いず、しかもわが子は既に一人立ちできる場合の未亡人――についてです」。つまり、「子育ての義務を果たした母」から「年下の男との恋情に殉じた女」への転換。東朝の見出しにある「母から女へ逆転」に戸惑いを隠せなかったということだろう。識者談話では、のちに東洋大学長を務める高島平三郎・女子高等学園長が「名家出の翠川さんのような方があんなことになるとは、非常時日本の今日、ただもう『遺憾』の二文字に尽きることです」と慨嘆している。

「婦人文藝」も10月号で事件関連の特集をしている。評論家丸岡秀子の「職業婦人翠川秋子氏の死をめぐりて―犠牲と自己主張の間―」は、近代的職業女性全般に通じる問題だと主張。「職業婦人座談会」では会社事務員やバス車掌らが男女差別の実態などで意見を交わしている。「社会時評」でも、作家か評論家と思われる狩野弘子という人が取り上げているが、その中で「彼女を決定的に死に駆り立てたものが世間の評判、直接にはジャーナリズムである点を指摘したいと思います」としているのが興味深い。「一度死を決して家を出たものの、やはり生に対する執着から脱することができないでいるところへ、彼女の家出事件が新聞紙上で大きなセンセーションを巻き起こしたために、いまとなっては家に帰りたくとも帰られぬ羽目に陥ったのでした」と分析した。

■もう一度生きる決心をしていたのかもしれない

 その見方を裏付けるのが「婦人公論」10月号に載った新保民八「彼女の遺書」という文章。新保は「ブラジル珈琲」の宣伝部員で死亡通知の宛て先の1人で、秋子の死の直前のころ、かなり親しくしていたようだ。文章によれば、秋子から8月5日付の手紙が届いたのは、家出が報じられた翌日の8月7日だったという。「あなたは血もあり涙もある方と多勢の中からただお一人信頼してこんな打ち明けたお話を致しますのですから、何としてお聞き届けください。詳しい事情は日をあらためて拝姿のうえ申し上げますから、いまふりかかった、私の生死の間をさまよっている境遇をお救いくださる意味で25円電報為替で送ってください。大至急を要しますので……」。当時の25円は2017年換算で約5万1000円。すぐに送金すると、8月9日付でお礼の手紙が来た。新保が20日に旅行から帰ると、3通目の手紙が届いていた。中からヘビの革の女物の煙草入れと丸い琥珀が出てきた。手紙の内容は要旨、次のようだった。

 人として帰って行く家を持っているということは、それが楽しからずとも幸いであるということを、今度家を離れてみて初めて味わった偽らざる告白であります。

?

 独りたそがれの海辺に立ち、または上弦の月の美しさを心ゆくまで眺めながら、いつも帰る家なき身をいかに寂しく、いかに悲しく思ったでしょう。自分で自分に見切りをつけたとはいえ、私はまだ働かれる可能性があると思えば、心残りが自然と胸を打つ。子たちの前途の幸福を祈るには、私が現世になまじの活動をしているよりか、神か仏の力を得べく、自分の霊を捧げて守護する方が力強いと思ったのです。

?

 ことに、あくまでも子たちの前途のため、私のことは秘密にとの全ての頼みを××紙上に暴露している。そのうえ知名の人たちの批判まで仰いでいるなどは全く心ない仕業であり、ますます私をして死地に陥れてしまった。

?

 家を離れ静かに考え、頭が冷静になると同時に、いろいろ計画したことの誤りをはっきり知り得て、またそこには場所に対する種々偶然な故障も突発し、海軍の演習とか、その他海水浴場に起こるいろいろの出来事に遭遇して、本意なくも実行し得られないようになって、たった一人、私の本心を打ち明ける人として、あなたへの救援のお願いをしました。

?

 過去十数年の私の奮闘は、私に何の報いられるものもなく、世間はむしろ冷酷に浮薄な批判と嘲笑に葬っているばかりでした。いつも新しい計画と事業に夢中になって働き、都合のよい下積み役をのみやってのけてきました。侠気のためにかえって人に裏切られ、地位を奪われ、汚名まで着せられたこと、一再ではありません。それはもちろん、自分の至らないことをはっきり考えさせられてはいますが、いかに強がっても女は女でした。

「婦人公論」1935年10月号より

 手紙は日付がなかったが、館山郵便局の消印は19日。帯留め用の琥珀を包んだ紙に1句が書かれていた。

四十年 有耶無耶(うやむや)にして 今朝の露 千坊(秋子の俳号)

「悲痛な遺書が語る通り、死の決心をもって家を出た翠川氏が、静かに省みることによって自分を取り戻し、も一度生きる決心をした時、追いかけてくる無理解な世間の批評と賛美が、彼女を抜き差しのならないような立場に置いてしまった」と新保は書いている。

■「死ぬという覚悟を持って当たれば、どんな誘惑にも暴力にも打ち勝たれる」

 この「婦人公論」には、娼妓解放運動など社会活動にも尽力した牧師作家・沖野岩三郎の「翠川秋子の秘密」という文章も載っている。沖野は放送局勤務時代の秋子と知り合ってから、長年親交があった。その文章からは秋子についていろいろなことが分かる。

 脳出血で長患いしていた秋子の母が死んだ時、沖野は秋子に頼まれて葬儀費用に新聞社から挿し絵の原稿料を代わりに前借りして渡した。そのとき、秋子は「死ぬという覚悟を持って当たれば、どんな誘惑にも暴力にも打ち勝たれる。世間からとかくのうわさをせられる私は、近頃になって、堂々と衆目の中を闊歩する一つの秘訣を覚えました。それは、誰に何と言われたって、自分自身に寸毫(少し)もやましいところのない生活をすることです」と語ったという。

 この事件の流れを見たとき、やはり気になるのは、家出をしてから実際に海に出るまでの1ヶ月近くの時間だ。狩野や新保が書いた通り、遺書まで書いて「死への旅」へ出たものの、そこから新たな生への希望など、さまざまな思いが生まれたのではないか。そもそもは自分の意思から出たこととはいえ、新聞などのメディアの圧倒的な“決めつけ”で後戻りできなくなってしまったのが真相ではないか。メディアが彼女を殺したとは言い過ぎでも、最後に死に追いやったのにはメディアにも責任があったと考えざるを得ない。「母としてどうか?」「女としては?」という視点からの批判に加えて、「無関係な若い男性を巻き込んで」という非難もあった。しかし、それらは少しずつ当たっているが、多くは外れている気がしてならない。彼女が本当に求めたのは、何にも制約されない人間としての自由な生き方だったのではないだろうか。

【参考文献】
▽澤地久枝「初代女性アナ翠川秋子の情死」=「続昭和史のおんな」(文藝春秋 1983年)所収=
▽NHKアナウンサー史編集委員会編「アナウンサーたちの70年」 講談社 1992年

(小池 新)

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