特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、なぜ基地の無線で「最後の瞬間」を聞いていたのか

特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、なぜ基地の無線で「最後の瞬間」を聞いていたのか

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山本五十六の死は「自殺」? 部下を「人間」として扱った指揮官、最後の行動 から続く

 パイロットが搭乗したまま航空機を敵艦に突っ込ませる特攻隊の「体当たり作戦」は、「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」と語った海軍航空部隊の隊長がいたというほど、生還の望みをもてないものだった。

 作家・保阪正康さんの著書 『昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人』 (角川新書)より、特攻の始まり、そして特攻隊員たちの知られざる本音について一部を抜粋する。

◆ ◆ ◆

■特攻の始まり

 初めて戦術としての組織的な特攻隊の出撃は、昭和19年10月25日。海軍の神風特攻隊である。

 この年、各地の守備隊が次々玉砕するなど、戦況は著しく日本に不利となった。軍事指導者たちの無能ぶりからなんら打開策が見いだせないまま、戦争はズルズルと泥沼に陥り、犠牲者をいたずらに増やしていた。その中から出てきたのが「体当たり攻撃」作戦だった。

 まず海軍が、人間魚雷「回天」を開発した。もっとも初期の段階では、回天には脱出装置をつけようとしていたのに対し、陸軍は、もともと明治期から肉弾戦を行っており、航空機による体当たり攻撃戦術も、自然と生まれてくる土壌があった。参謀次長兼航空本部長・後宮淳の言葉に、如実に表れている。

「突撃は歩兵の精華であり、体当たりは航空の突撃である。これこそが日本陸軍の真の精神である」

 そして、海軍の特攻作戦は、10月5日に第一航空艦隊司令長官に任命された大西瀧治郎によって始められた、と一般にはいわれているが、これには異論が多い。むしろ大西1人にその責を負わせようとして、戦後の神話ができあがったとも思える。終戦直後の昭和20年8月26日未明、大西が官舎で割腹自殺をしたためともいわれているのだ。

■最初の頃は特攻隊に「志願兵」はいなかった

 ところで特攻作戦は、志願兵による参加が建て前だったが、最初の頃は志願者がおらず、困り果てた大西らは、海軍兵学校出身の士官に特攻隊員になることを命令したとされている。その時に特攻隊員となったパイロットの談話が記録として残されている。

「日本もお終いだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて……。僕なら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させて還る自信がある」

(中略)

「僕は天皇陛下のためにとか、日本帝国のためにとかで征くんじゃない。最愛のKA(海軍隠語でKAは妻のこと)のために征くんだ。……」

(大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』岩波書店)

 このような作戦が実行されること自体、日本社会や組織が疲弊の極みに陥っていることを、現場の兵士たちは肌身で感じていたのである。

 志願制だったか命令だったかは今にいたるまで論争されている。国家としてこのような作戦を行った事実を認めたくない者は、あえて志願だったと主張し、特攻隊員一人一人の殉国の思いを強調するのだ。彼らの崇高なその精神を讃えるのである。だが私の見るところ、志願という名をつけたほぼ強制、あるいは拒めないような状況づくりが行われたというのが本当の姿である。そして戦後の日本社会は、その事実を精査することなしに、ひたすら特攻隊員の精神を讃えるという誤りを犯してきた。

 私はこれまで何人かの存命する特攻隊員に会ってきたが、そのなかで勇躍自ら志願したという者はほとんどいなかった。ある特攻隊員は、このように述懐している。

「特攻作戦を行う部隊へ志願するように命じられて、その通りにしただけのこと。仲間があんな形で次々に死んでいくとは思わなかった」

 特攻隊員には学徒兵が多かった。

■「明日一人の自由主義者がこの世から消えていきます」

 大学生が大学教育を途中で打ち切られて、動員されたのは昭和18年に入ってである。10月21日に、あの有名な雨の神宮外苑競技場での学徒出陣壮行大会が行われた。

 当時、大学生の数は今と比べものにならないくらい数が少なく、同年代の4パーセントほどともいわれた。その意味で彼らは日本のエリート層であったわけだが、そういった彼らが遺した手記が、戦後出版された『きけ わだつみのこえ』などに収録されている。『きけ わだつみのこえ』の最初に、上原良司という特攻隊員の遺稿が出ている。

 彼は慶應義塾大学経済学部の学生で、学徒動員で海兵団に入るが、その後特攻隊になり、昭和20年5月11日に陸軍特別攻撃隊振武隊の一員として、沖縄嘉手納湾で死んだ。22歳だった。

 彼は遺稿に、「私は本来自由主義者です」と書いていた。自由というのは基本的に大事だが、残念なことに今のファシズム、枢軸国家の体制は自由とはいえない、とも書いてある。そして最後に、次のように認めた。

「明日一人の自由主義者がこの世から消えていきます」

 一般的には、特攻隊員は何を書いてもいいと言われているが、かといってこの国を批判したり、戦争継続に異議を申し立てることなどが許されていたわけではない。にもかかわらず上原は、自分は自由主義者であり、ファシズムには反対であることをかなり辛辣に表現している。例えばそこには、ドイツ、イタリアといった枢軸国の敗戦を喜ぶかのような表現さえあるのだ。上原は、どうやってこの遺稿を書いたのだろうか。

 実は報道班員に高木俊朗という人物がいて、明日出撃する振武隊の中にいた上原を見つけ、君、ちょっと何か書いてくれと言って紙と鉛筆を渡した。上原の表情があまりにも思いつめた様子だったからという。すると彼が一晩で書いてこっそり高木に渡したのが、この遺稿なのである。だから、本音が書いてある。

 当時の日本人は臣民意識そのものだったが、この遺書の中では、特攻隊員である上原は明らかに臣民の枠を超えている。光栄ある特攻隊の一員として、与えられた任務はやりますというくだりは臣民としての表面的な装いともいえるのだが、本当は自由主義者であるという自己規定は市民そのものである。彼は臣民と市民の両方を正直に遺稿の中に遺したのだ。

■「今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」

 上原良司の妹は、当時女子医専の学生で、特攻に飛び立つ前の兄を東京の調布の飛行場に訪ねていった。むろん兄が特攻隊員に選ばれていることなど知らない。兄が調布飛行場から他の飛行場へ向かうとの連絡が入り、慰問に赴いたのだ。その時、兄の部隊の仲間五、六人が、上官がいない場で雑談を交わしていて、彼女はそれを聞いていたのだが、なんだか妙な雑談をするなと思ったという。そして寮に帰ってすぐにメモに書き残した。私は、上原の遺稿に青年期からふれていて、感動を覚えていた。

 それゆえに上原の故郷である長野県のある町を訪れて、医師である妹にも話を聞いてきた。その時のメモも見せてもらった記憶がある。

 そこには次のような会話があった。

「ああア 雨降りか。全く体を持て余すよ」

「よし、俺が新宿の夜店で叩き売ってやらあ」

「その金で映画でも見るか」

「お前の体なんか二束三文で映画も見れねえや」

「それより俺達の棺桶を売りに行こうや。陸軍省へ行ったら30万円には売れるぞ」

「30万円の棺桶か。豪勢なもんだろう」

 (中略)

「ああア、だまされちゃった。特操なんて名ばかり良くてさ。今度生れる時はアメリカへ生れるぞ」

 (中略)

「向うの奴ら(アメリカ軍のこと)何と思うかな」

「ホラ今日も馬鹿共が来た。こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」(この引用は、上原良司、中島博昭『あゝ 祖国よ 恋人よ きけ わだつみのこえ 上原良司』から、昭和出版)

■「こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」という自嘲

 彼らはいつ出撃するかわからない。この時も雨が降っていて出撃地の知覧に向かう予定が延びていたのである。そして、特操なんかに志願しなきゃよかったと言っている。「特操」というのは、「特別操縦士官」のことで、特攻隊員を意味する。そのことを詳しく知らなかったとの告白もされている。「こんな所までわざわざ自殺しに来るとは間抜けな奴だと笑うだろうよ」というのは、アメリカ兵からはこのように見られているのだろうとの自嘲である。彼らは自他を客観的に見つめる目をもっていた。それを、この言は物語っている。私は特攻隊員がこのような話を交わしていたことを、もっと具体的に今の時代の者は知っておくべきではないかと思う。

 実際に特攻隊が出撃する前に、実はこういった会話を交わしていることは、当時の文献、資料などでは一切語られていない。

 上原の妹は、この会話を奇妙に思ってメモしたが、戦後もしばらくは人には見せないでいた。というのも、特攻隊はお国のために喜んで死んだことになっているのに、実はこんな会話を交わしていたことが知られたら大変なことになる、と恐れたからだ。だから公表されたのは、戦後30年近くを経てからである。

■最後の瞬間の特攻隊員の声を基地で聞いていた

 あまり知られていない事実だが、特攻隊員の自爆機が敵に突っ込んでいく時、ときに基地ではその無線をオンにしていたという。

 これは何々機、誰某、これから突っ込みますということを確認するわけで、基地ではその最後の瞬間の特攻隊員の声を大体は聞いていたのだ。そして、その声で戦果を測っていた節もあった。

 戦時下で、芙蓉部隊という航空部隊の隊長だった美濃部正という指揮官が、戦後40年近くたって、戦時下の日記やメモなどを含めて私家版の回想録をだしている。もっとも刊行されたときは病死していたのだが、そのメモによって私は意外な事実を知らされた。美濃部は海軍の指揮官として、特攻作戦に一貫して反対した。

「私には、100パーセント死ぬ命令をだすことはできない」

 これがその理由だった。

 私は何度か美濃部を取材していて、教えられることが多々あった。手紙の交換も続けたが、そのような当たり前の感覚を持っている海軍軍人がいることに、密かに安堵感を覚えた。

■「海軍の馬鹿ヤロー!」といって死んだ

 その美濃部のメモに、特攻隊員たちの無線を受けている無線技師からの報告内容が書かれているのだが、そこに次のようにあった。

「今日の無線の中に、『海軍の馬鹿ヤロー!』といって死んだ特攻隊がいる。絶対極秘。いかなることがあっても海軍に漏らしてはいけない。」

 これは何を意味するのだろうか。特攻隊員の中には、アメリカ軍の空母に体当たりしていくときに呪いの言を吐いていった者が少なくないということだ。このような事実は、一般に明らかにされていない。しかし、もし明らかにされたなら、そこには鋭く軍事指導者や参謀を批判している内容が少なくないことがうかがえるのだ。

 特攻隊員の無線の記録は、必ず資料があるはずなのだが、今に至るも一切公開されていない。あるいは昭和20年8月15日の段階で燃やしてしまったのかもしれない。

 私は当時の無線技師の人たちから教えられたのだが、彼らの言では、誰もが「天皇陛下万歳」と叫んで死んだわけではない。泣いていた人もいたし、「おかあさん」と叫び続けた者もいるといい、悲しい話が数多くあると証言していた。

 それが本当の姿なのであろう。それを正直に伝える、それこそが史実を伝えるということなのだ。あえて言えば、それを太平洋戦争を見つめる新しい視点に据えなければいけないということだ。

■ある整備兵の告白

 さらに、10数年前のことだが、千葉で講演した時の話を紹介したい。

 講演が終わって、私が控え室に戻ったら、娘を連れた80代とおぼしき高齢者が、どうしてもあなたに話があるので、今日は病院にお願いして外出届けを出し、娘とともに来たと言った。そこで別室に行って二人きりになると、その人は、私はもうこの後そんなに長く生きないだろう、だから、これまで誰にも言ったことがないことをお話しするので、記憶にとどめておいてほしい、と話を切り出した。

 その人は学徒兵で、戦時下では特攻隊員の乗る飛行機の整備兵をやっていたそうだ。特攻隊の飛行機が一機飛び立つには、3、4人の整備兵が必要で、毎日飛行機の整備をしていた。当然同じ学徒兵だったこともあり、親しく会話を交わすことになった。初めは他愛ない話だったが、次第にお互いに心の中を明かすようにもなった。ある時彼が整備していた飛行機の特攻隊員に出撃命令が出された。この特攻隊員は特攻機に乗る直前に失禁して、そして失神状態になってしまったという。別にこれは珍しい話ではなくて、そういう話が数多くあったそうだ。その特攻隊員は生真面目でおとなしい男だったのだが、整備兵たちは彼の顔を叩いて目を覚まさせて、むりやり特攻機に乗せたという。すると特攻機は、反射的に飛び立ったそうだが、その隊員はとても沖縄まで飛んでいく状況ではなかったという。

「途中で、鹿児島湾のとこらへんで不時着したと思いますよ。たぶん彼は、この理不尽な命令に戸惑いながら、最後は自殺同然に海に突っ込んでいったと思います。私たちが彼を殺したようなものです。そのことを私は死ぬまで伏せておこうと思ったのですが、あまりにも彼に申し訳ない思いがするし、私も嫌がる彼を乗せて送り出したとの罪の意識を持って生きてきました」

 その高齢者は述懐し、生きている間に話しておきたかったと言うのであった。

 その後、私が記録を調べてみると、この特攻隊員が沖縄まで飛んでいったとの記録はなかった。

 頬を叩いて特攻機に乗せたこと、それはこの元整備兵が抱え込んでいる一生の心の傷だったのだ。皇軍の勇猛な兵士とよく言われるが、じつはそうではない、ということを知る必要があるエピソードではないか。

■戦後自殺した作戦参謀は何人もいた

 拙著にも引用した『ねじ曲げられた桜』の著者の大貫恵美子氏は、アメリカ在住の学者で、私と同世代の研究者なのだが、この本の中で特攻作戦をアメリカの視点で分析している。この中で彼女は、特攻作戦とこの作戦を進めた軍事指導者たちに対して許容するものがない、と激しい筆調で批判をしている。

 その点、私と世代が近いにもかかわらず、幾つかの点で違うなと思うのは、私は百パーセントの特攻批判はできないとの立場である。というのも、この作戦を選ぶというところに、戦時指導した参謀たちの意識のどこかに、日本的文化があったのではないだろうか、と考えているからである。最後の段階では思考を放棄して、情念だけで事態を捉える。あるいは感性のみで現実に向き合おうとする。その習性を私たちは持ち合わせているのではないかと、自省することが必要なのである。

 前述の、特攻作戦を進めたと言われている大西瀧治郎は、終戦直後に自殺している。大西以外にも、死んで責任を取るといって、戦後自殺した作戦参謀は何人もいた。

 また、特攻隊を送り出したある隊の隊長は、自らは死ぬ機会を失ったが、戦争が終わったあと、彼の部下で特攻隊員として逝った学徒兵の家を一軒一軒訪ねて、お焼香して歩いたという。その慰霊をすべて終わった昭和22年、彼は千葉県で列車に飛び込んで自殺した。

 なぜ彼は列車に飛び込んだのか。それは、列車が機械だから、鉄の塊だから、と遺書に書いてあったとの説がある。特攻隊として部下を送りだしたことのつらさを自分が味わうには、列車に飛び込んで散るしかないと思ったのであろう。

 もちろん、戦後になって知らぬ顔して逃げている人間もいる。だが、死という責任を取った人に対しては、私は批判の矛先を鈍らせるべきだと思う。死ねばそれでいいのかと、よくいう人がいるが、やはり死ねばいいのである。相手を十死零生で死ぬ命令を下した責任者は、確実に自らも死ななければならない、それは当然のことだと私は思っている。

 その当たり前のことをしないで逃げた人、自分を免責にするために、戦後、特攻をかなり曲解して伝えている人たち。こういう人の主張を私たちは徹底して否定しておかなければならない。あえていえば、許してはいけない。

 特攻隊の問題は、基本的には私たちの国の文化とか、責任の問題とか、そういったものを内在している。それを知って、100年先の我々の子孫にメッセージを残しておかなければならないというのが、私の考えである。そうすることで、「人間を武器に使った」時代に生きた責任を果たすことになると考えているからだ。

「聖戦完遂」を叫んだ東條英機……敗戦後に見せた「躊躇なく『私』を選ぶ精神性」 へ続く

(保阪 正康)

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