ご懐妊中の紀子さまのお電話に……美智子さま「異常妊娠の記憶」と「命のスープ」

ご懐妊中の紀子さまのお電話に……美智子さま「異常妊娠の記憶」と「命のスープ」

上皇后陛下・美智子さま 宮内庁提供

「皇后さまは何事も器用にこなされるという少女ではなく、むしろ、ややゆっくりしたご性格だったようです」

 こう語るのは元・日本テレビプロデューサーとして数々の皇室特番を手がけた渡邊満子さん。美智子さまの取材をライフワークとして四半世紀。『 上皇后陛下美智子さま 心のかけ橋 』(文春文庫)で明らかにした、そのお歩みとは。

※2019年4月26日発売の「週刊文春WOMAN」に掲載した記事で、呼称などは当時のものです。

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 光に包まれたひと?初めてイタリアでの取材で美智子さまをお見上げしたときの印象です。お美しさだけでなく、天皇陛下につねに寄り添って支えられ、温かく、ユーモアをもって人々と交流されるご様子。御歌(みうた・短歌)やご著書『橋をかける』(文藝春秋)などで示されたその豊かな感性。この方はきっと生まれてこのかた、この光に包まれた、華やかな人生を送ってこられたものと思っていました。

 ところが、美智子さまの身近な方、長くご交流がある方々に取材を重ねていくうち、意外なことも知りました。

 たとえばその一つが、後年あれほど才能を開花された美智子さまが、4人のごきょうだいの中で、ちょっと遠回りをしておられるところです。美智子さまは聖心女子大学卒業のときこそ答辞を読まれ、全卒業生中2番という好成績。学生自治会会長の「プレジデント」を務められたことも有名です。

 でも、高校卒業までは、特に優等生であったわけではなく、よく遊び、運動場を走りまわる「カモシカのような女の子」だった、と多くの同級生がお話しになるのです。本をよく読み、音楽も大好き。でも、勉強はそれほどお好きでなかったのか、聖心の中等科から高等科に移るときの成績もトップクラスではなかったとか。

■「優等生」ではなかった少女時代

 正田家の笑い話の一つに、美智子さまだけが小、中、高を通して、ごきょうだいの中でただ一人だけ級長や学級委員になられず、進級時の学業優秀者にも選ばれていないことがある、とうかがいました。

 疎開先の群馬県・館林の小学校では「優しくて看護婦さんになれそう」と衛生係に。中学・高校時代は、一貫して体育係だったそうです。

「夫も私もあの子の育った頃が一番忙しく、勉強を見てやるということはほぼ皆無だった」と、のちに母・富美子さんはすまなそうに友人に語られたそうです。

 美智子さまは、実は遅咲きの、いわばおくての少女だった、といえるのではないでしょうか。正田家は学者肌で皆さまご優秀なので、その比較においてではありますが……。

 しかしながら、優秀なごきょうだいにはさまれて、美智子さまお一人で、試行錯誤されていた日々があったこと、ずっと「優等生」を通してこられなかったことこそ、初めて民間から皇室に入られるうえで無駄ではなかったのではないか、と思うのです。

 皇室という新しい、不慣れな環境に入った時も、他と見くらべて自分を見失うことなく、苦境や挫折を越え、自分の道を時かけて忍耐強く歩むこと?美智子さまの、ややゆっくりとしたご性格が、きっと皇太子妃としての困難のなかで助けになったのではないでしょうか。父、正田英三郎さんは、美智子さまの、ゆっくりとした性格をおおらかに見守られたそうです。

 美智子さまの世代は戦時下の「国民学校」で6年間学ばれ、正田家の疎開先も鵠沼、館林、軽井沢、また館林と二転三転。

「疎開中と戦後の3年近くの間に5度の転校を経験し、その都度進度の違う教科についていくことがなかなか難しく、そうしたことから、私は何か自分が基礎になる学力を欠いているような不安をその後も長く持ち続けて来ました」と80歳のお誕生日に述べられています。

■幼いころから、甘えのない関係

 戦時中は、日清製粉を経営する父・英三郎氏と、長男・巌さんは東京に残り、母・富美子さんは正田家の舅、姑をも疎開先で守り抜きました。館林から軽井沢へと一緒に疎開していた叔母と従姉妹が、その父を東京大空襲で失い、母一人娘一人になった悲しみを察して、富美子さんは、自分の子供たちへの愛情表現をとみに控えるようになったそうです。

 正田一族の中でも、片親を失ったり、両親の離婚再婚があったりと家庭状況は様々で、英三郎さんが家業を継ぎ、ふた親そろっていたがために、富美子さんはより一層、嫁としての責任を感じ、身を持して婚家の人々に仕えていらしたのでしょう。

 美智子さまのいとこのお一人は、

「その母の立場を、子供心に一番よく察し、我慢強い、わがままなところのないお子として成長したのが皇后さまであった」と語られていたそうです。

 ご婚約中、常に寄り添われていたため、仲のよい母子という印象が語られていますが、幼いころから、甘えのない関係を貫き、克己的に生きてこられた母子なのです。

 その関係を知ったうえで美智子さまの御歌を読むと、思いの深さに胸をうたれます。

 子に告げぬ哀しみもあらむを柞葉(ははそは)の母清(すが)やかに老い給ひけり

 戦時下という、厳しい世の中の有為転変のなかで、黙って哀しみに耐えるお母さまの姿を見て育たれたこと。それもまた、美智子さまが、皇室という慣れない環境のなかで、ご自分を役立てる道を、沈黙のなかでゆっくりと、見出すことに繋がったのでしょう。

 皇后さまといえば、ピアノ演奏など音楽への造詣の深さ、そして和歌や、まど・みちおさんの詩のご翻訳、ご講演をされたIBBY(国際児童図書評議会)など児童文学への支援が思い浮かびます。ですから長年、どちらかといえば文化の方面に関心がおありなのだと思っていました。

 ところが実は、科学にも一方ならぬ関心をもたれ、知られざる支援をされています。

■自然への関心から女性科学者をご支援

「私は野育ちだから」とよく笑って話される皇后さま。古希のお誕生日のおことばでも「子ども時代は本当によく戸外で遊び、少女時代というより少年時代に近い日々を過ごしました」とあるように、よく庭や野原で遊び、3歳上のお兄さまや、夏の避暑地で一緒に過ごす年上のおいとこさんたちをまねて、昆虫採集をし、たくさんの虫の名前を習ったそうです。

 戦後の夏の軽井沢では、母・富美子さんが口にする花の名前をおぼえ、父・英三郎さんの書棚で見つけた科学者・寺田寅彦の随筆を愛読されてきました。

 そうした自然への関心を、生物学者である陛下とのご結婚によって、のびのびと広げられた皇后さまは、ご著書の印税の寄付先の一つに「女性科学者」を選ばれています。

 今でこそ「リケジョ」ブームですが、ずっと早くから、日本の女性科学者、リケジョたちを励ましてこられたことに驚きました。

 ご寄付については地球科学者の猿橋勝子さんに相談されました。猿橋さんは戦後日本の女性科学者のパイオニアであり、「猿橋賞」を設けて後進を励ましてこられた方です。そこで皇后さまの基金をもとに、受賞者の業績を海外に伝える “MY LIFE?Twenty Japanese Women Scientists”という20人の女性科学者のライフヒストリーを紹介した本が、2001年に出版されたのです。

 皇后さまは文化人類学者の原ひろ子さんを会長とする「女性科学研究者の環境改善に関する懇談会」にも同額の寄付を申し出られ、心理学者の岩男壽美子さんらを中心に『科学する心?日本の女性科学者たち』が同じ2001年に出版されました。この本では、10人の先駆的女性科学者と、彼女たちを男女の区別なく支援した男性科学者も紹介しています。

 こうした経緯は、同書の謝辞に記されてはいますが、ほとんど一般に知られていません。今でも恵まれているとは言いがたい日本の女性科学者たちを、表に出ることはなくそっと支援し続けてきた皇后さま。昨今の、医学部の女性受験者を不利に扱ってきたニュースをご覧になって、さぞ残念に思われているのではないかと私は思うのです。

■檀家をもたない門跡寺院へのご配慮

 人びとの目が届きにくいところにいる人へ、そっと手をさしのべられる。そうした皇后さまの、「文化の護り人」としてのあり方は、尼門跡寺院へのご支援にも感じました。

 かつて皇族や公家の女性が出家して門跡(住職)となった御寺が、現在も京都・奈良に13か所ほど残っています。明治になり、皇族の出家が禁止されて門跡寺院は皇室との関係を失ってしまいました。また、廃仏毀釈があり、さらには戦後の土地改革で、檀家をもたない門跡寺院にとって唯一収入の道であった土地を失い、戦後は貧窮のさなかにありました。

 途方にくれて企画されたという、京都・宝鏡寺の「人形展」を、数年後、若き皇太子妃時代の美智子さまが、京都ご訪問の折に「拝見にうかがってもいいかしら」とご覧になりました。すると、その年を境に驚くほど多くの人で賑わったそうです。いまやお雛祭りの時期には大勢の観光客が目指す有名寺院になりました。

 コロンビア大学教授のバーバラ・ルーシュさんを中心とした、尼門跡寺院の御宝物の修復と保存に関するプロジェクトにも、実は、皇后さまはご著書の印税を寄付されているのです。

「皇后さまは門跡さま方に対し、いつも“なにか陛下のおいとこさん方のような気がして”と優しく見守っていらっしゃり、私の仕事も長年にわたって支援してくださっています」とルーシュさんは語られています。

 私が大好きな美智子さまのお言葉があります。雅子さまのご懐妊中、ご誕生になるお子さまにどんな言葉をかけられますか、との記者の質問に、皇后さまはこう答えられました。

「きっと秋篠宮家の二人の子どもたちの誕生の時と同じく、『よく来てくれて』と迎えるだけで、胸が一杯になると思います」

■ご懐妊中の二人の妃殿下に

「よく来てくれたのね」「よく来てくれてありがとう」?万感が込められたこの言葉。母になられる妃殿下方に、皇后さまはいつも、ご自身の記憶を重ねておられるのではないでしょうか。

「東宮妃の出産間近く」という詞書きのあるこの御歌もそうです。

 いとしくも母となる身の籠(こも)れるを初凩(はつこがらし)のゆふべは思ふ

 愛子さまご誕生が伝えられると、皇后さまは少し涙ぐまれ、「両殿下にお祝いをお伝えください。東宮妃は元気でしょうか」と気遣われました。

 紀子さまが悠仁さまのご懐妊中に、部分前置胎盤ということを電話でご報告なさったときのことを、「昔だったら命にかかわるようなことでしたのに、秋篠宮妃はなんだか、のんびりとした感じで報せてきて……」と、いとおしそうに、少しおかしそうに話されたと、長年ご親交のある編集者、末盛千枝子さんが振り返っています。

 皇后さまの時代は、非常に恐れられていた前置胎盤。最初は驚かれた皇后さまも、医師の説明に安堵されるとともに、事態を平静に受け止め、周囲の空気を乱すまいとなさる紀子さまの健気さを嬉しくお思いになったのでしょう。

 御歌からも、そのお気持ちが感じ取れます。

 初(うひ)にして身ごもるごとき面輪(おもわ)にて胎動をいふ月の窓辺(まどべ)に

 私はこの時期、皇后さまは、ご自分の異常妊娠の記憶に思いを馳せておられたのではないかと思わずにはいられません。周知のように、皇太子さまご誕生のあと、皇后さまは胞状奇胎という病で第2子を失いました。

 しかも予後調査のため2年間の懐妊を禁じられ、その状況は国民には知らせていなかったため、専門の産婦人科医までが、妃殿下はもう二度とお子をもつことはできない、と発言するお辛い日々があったことが、紀宮清子内親王著『ひと日を重ねて』に記されています。

 その頃のことを思い合せ、きっとひたすらに、紀子さまと新宮さまの無事を祈っていらしたと思います。

■皇后さまのいのちのスープ

 紀子さまが大事をとって早めに入院されると、お見舞いにスープを届けられたそうです。皇室に入る前に習われた、澄み切ったコンソメスープは、滋味豊かで、少し和の味わいもあるとか。

 そこで、料理番組に長く携わっていた私はこのコンソメスープのレシピを、同じ先生に習われた方々に取材しました。栄養価は高いけれど刺激は少なく、胡椒は粉末ではなく粒を用います。材料は人参、セロリ、玉葱のみじん切りと牛すねの挽肉、卵白とその殻(これはアクを寄せるため)。香りづけにベイリーフとパセリの茎。もちろん水。

 たえず攪拌しながら沸騰までもっていき、澄みきった上澄みだけをとり、さらに布袋でこします。私は「皇后さまのいのちのスープ」と名付けました。このスープを味わわれて、きっと紀子さまもほっとされたのではないでしょうか。

 いつだったか御所をお訪ねしたとき、皇后さまに「これは軽井沢で大平さんにお出ししたものと同じもの……」と、とうもろこしとたらこ入りのおむすびを出していただいたことがあります。

 私の祖父、大平正芳が総理時代、軽井沢ご静養中の皇太子ご夫妻を訪問したときのことを、ご記憶いただいていたのです。

「気に入っていただけたのか、ペロリと召し上がっていただいたの」と楽しそうな皇后さまのお話に、食いしん坊の祖父が恐縮しながらも、美味しそうにおむすびを頬張る光景が目に浮かびました。私は感激と緊張で、味は記憶にないのですが……。

 皇后さまの取材をしていると、長い年月の後に、今日の皇后さまがおありなのだと感じます。さまざまな人々との出会いを、いつも大切に丁寧にもたれており、それをまた新たな出会いへと繋げてくださるのです。

「皇室に上がって最初に公務をご一緒した政治家は大平さんでした」と皇后さまがおっしゃったので驚いたこともあります。

 ご成婚は昭和34年。この時は岸内閣でしたが、翌年、池田勇人政権となり、大平は官房長官を拝命しました。祖父が公務をご一緒したのはおそらくこの頃、浩宮さまご誕生まもなく、皇太子ご夫妻での訪米に関わることではなかったか、と推察しています。

 軽井沢でおむすびをいただいた翌年に、大平は現職総理のまま亡くなりました。その孫に、皇后さまはたった一度のおむすびを覚えて出してくださった。そのお心遣いにあらためて驚きます。

 大平はクリスチャンでした。戦時中に教会をやめていますが、「聖書なしには一日も過ごせない」と総理就任時のインタビューで答えています。信条は「政治とは鎮魂である」でした。

 勝手ながら私は、「皇室は祈りでありたい」という皇后さまのお言葉に、同質の精神を感じてきました。

 国と国民を真摯に想う心は、時代と立場を超えて、繋がるように思うのです。

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(渡邊 満子/週刊文春WOMAN 2019GW号)

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