昼食後に姿を消した3人の日本人捕虜…シベリア収容所の“人肉事件”はこうして始まった

昼食後に姿を消した3人の日本人捕虜…シベリア収容所の“人肉事件”はこうして始まった

シベリアからの帰還第1船「大久丸」の甲板にたたずみ、上陸を待ちわびる復員兵ら ©共同通信社

 ユーラシア・中央アジアの考古学・文化史研究の先駆者である加藤九祚氏は、戦時中、学徒動員で出征。満州国の敦化(とんか)で終戦を迎えた。直後、加藤氏はソ連軍捕虜となりシベリアに抑留されるが、そこで「どうしても忘れ切ることのできない記憶」となる異様な出来事と遭遇した。

 多くの日本人が辛苦を味わった「シベリア抑留」の現場で、一体何が起きていたのか。文春ムック『 奇聞・太平洋戦争 』より、加藤氏が1970年に執筆した「日本人は同胞の肉を喰うのか?」の一部を抜粋して掲載する。(全2回の1回目/ 後編に続く )

◆ ◆ ◆

 わたしがここで語ることは、シベリア抑留中の1946年の出来事である。あのときからすでに24年の歳月が流れ、当時の記憶もまたうすらいで、俘虜(ふりょ)生活のすべてが夢の一こまであったように思われることがある。歳月は一切を洗い流すものかも知れない。しかしわたしには、どうしても忘れ切ることのできないひとつの記憶がある。わたしはこの記憶を人びとの前で語ることをいつもためらった。この躊躇する気持がなにに根ざすものか、説明できないことが残念である。けれども、わたしは24年後の今、あえてかの夢魔のような記憶をつたない筆にのせて語ってみようと思う。これによってわたしは、自分自身の人知れぬ心の負担をいくらかでも軽くできるかも知れない。

 わたしたちは1946年3月、シベリア鉄道のタイシェト駅からトゥルン街道経由でブラーツクに送りこまれた。ブラーツクは今では、アンガラ川の水力を利用した世界最大級(450万キロワット)の発電所や大製材所の出現によって日本でもよく知られている。わたしたちは幌をかけたトラックに乗せられ、まだ雪と氷に閉ざされた街道をほとんどまる一日走りつづけ、夜おそくブラーツクに到着した。収容所は古いブラーツクの町はずれの斜面にあり、雪明りの中でもそこからアンガラ川の氷面が白くながめられた。

 ブラーツク地方の日本人俘虜部隊としては、それより1カ月ほど前に送りこまれた50人の通信線建設班をのぞいて、わたしたちが最初であった。わたしたちは、「バム鉄道」の一部であるタイシェト・ブラーツク間の鉄道建設の労働力としてこの地に投入されたのであった。

■ソ連軍の将校たちに管理され……

「バム」というのはロシア語の「バイカル・アムール・マギストラリ」の略称で、1932年4月ソ連政府によって着工が決定された。シベリア鉄道のタイシェト駅からブラーツク経由でレナ川に達し、そこからバイカル湖の北部を通って日本海岸のソベツカヤ・ガワニ港に至るという壮大な構想であった。実際の工事は1938年に開始、レールはタイシェト駅からネベリスカヤ駅まで58キロ敷設され、鉄道路盤はタイシェト駅から75キロまで完成したところで第二次世界大戦が勃発し、工事は中断された。

 戦後の最初の5カ年計画に、タイシェトからレナ河岸のウスチ・クートまでの鉄道建設が組み入れられたが、これはシベリア鉄道とアンガラ川、さらには北方の大動脈レナ川とを結ぶことを意味している。計画による突貫工事が開始され、わたしたちはまず、つぎつぎに投入される予定の労働力のための宿舎、つづいて鉄道敷設の予備工事としての自動車道路の建設に動員されたのである。わたしたちの管理にあたるソ連側要員の多くは、独ソ戦中ドイツ軍の俘虜となり、戦後解放されたソ連軍の将校たちであった。1947年のピーク時、この地域で強制労働に従事した日本人俘虜は約5万に達したと言われる。またわたしたちと前後して、多くのソ連囚人もこの地方に送りこまれた。

 この地域の建設史において果した日本人俘虜とソ連囚人の役割は決して無視できないものとわたしは思う。しかし最近、この地方の開発史がかなりくわしく記述されている『ブラーツク』と題する小著が現地で刊行されたが、日本人俘虜のこともソ連囚人のことも一言もふれられていなかったことを指摘しておこう。(以下中略)

■20代半ばのロシア人軍曹との交流

 さて、タイガの蚊とアブがまだ猛威をふるう少し前、つまり5月末のある晴れた日(この時期はふつう晴天がつづく)、わたしたちは収容所から2キロほどはなれた地点にある伐採場へ作業におもむいた。発情期の山鳥が高い松の梢をとびかい、白樺や落葉松のあざやかな緑が眼に心地よかった。

 その日の歩哨長はトカレフというロシア人の軍曹であった。彼は赤ら顔の20代半ばであったが、聡明そうな青い眼がとくに印象的であった。トカレフは歩哨の中では珍しい読書家で、日本人だけでなく、彼の同僚の間でも人気があった。ロシア文学と言えば、岩波文庫その他日本訳のある有名なものしか知らなかったわたしが、セルゲイ・エセーニンという詩人の存在を教えられたのも彼によってであった。彼はエセーニンの詩句をいくつか暗記していて、韻をふんで口ずさんで見せた。たとえばダスビダーニャ(さようなら)という言葉ではじまるエセーニンの詩もそのひとつであった。わたしもよく知っているやさしい単語で書かれているだけに、なんとなく特別の親しみが感ぜられた。

 さようなら わが友よ さようなら

 愛する人よ おまえは わたしの むねのなかに

 きまりきった わかれは

 やがて あう日を 約束する

 さようなら わが友よ にぎる手も ことばもなく

 なげかないでくれ 眉くもらせないでくれ

 この人生に 死ぬことは めあたらしいことではない

 しかし生きることも また それ以上に

 あたらしいことではない(田沢八郎訳)

 エセーニンの詩は国民の士気を沮喪(そそう)させるという理由で戦中戦後にかけて出版されていなかったが、ソ連の人びとの中には彼の詩の数篇を暗記しているものが少なくなかった。それに当時のわたしは、エセーニンの辞世の詩といわれるこの詩から、絶望感というよりはむしろ生への希望を感じとっていた。悲哀のなかに喜びがひそんでいるせいか、それともあらゆるものに明るさしか見ることのできないわたし自身の若さのせいであったろうか。

■「君たちが戦争によって得たものはなにか」

 トカレフはまた、片言の日本語をおぼえていて、ときどき面白いことを言ってわたしたちを笑わせることがあった。

 トカレフは、若いに似合わず(あるいは若いからかも知れない)わたしたち俘虜にたいして深い同情と理解をもっていた。わたしたちは、その日の歩哨の態度によって大きな影響をうけ、作業の能率までがちがった。トカレフのときには自分たちも気づかないうちに仕事がよくすすんだ。そして歩哨の態度は当日の歩哨長の人がらいかんによることが多かった。トカレフが歩哨長になった日には、わたしたちの間でも気のせいか笑顔が多く見られたものである。

 トカレフはある日、ようやくロシア語の会話をほとんどききとれるようになったわたしにこんな話をした。

「君たちが戦争によって得たものはなにか。そして勝ったというわたしたちがこれによって得たものは一体なんだろうか。わたしはドイツ軍のために家を焼かれ、両親の消息も兄弟の安否さえもわからないままだ。君たちは君たちで、ひと握りの資本家や権力者の命令で戦争にかり出され、その結果このシベリアにまできているのではないのか。要するに、戦争に勝っても負けても、われわれ一般大衆はなんら得るものはなく、ただ失うものの方が多いのだ。

 ロシア人は戦争はきらいだ。そして怒ることも嫌いだし、いくらか鈍感とさえ言えるかも知れない。そして『ルスキー・イワン』(ロシア人のイワンの意)はなによりも我慢強いことが特徴だ。しかしイワンは一度我慢し、二度辛抱し、三度あきらめるかも知れない。しかし四度目には爆発する。そして一度爆発すれば、とことんまでつっ走るのだ。

 わたしももう除隊になりたい。自分の義務は果たした。しかし満期をもう2年も過ぎたのに、まだ除隊させてもらえない。君たちも家に帰りたいだろう。君たちも近いうちにきっと帰れるよ。あわててはいけない。体を大切にして、シベリアで少々働くんだな。すべては時とともに到来するものだ」

 わたしはトカレフの話のなかで最後の言葉がとくに印象に残った。これはロシア語で「フシェ スウレメニェム パストゥパイェト」というのだが、なかなか味のある表現だと思った。

■昼食後の人数点検で事件は起きた

 その日の昼ごろ、わたしたちは昼食の運搬されてくるのを今か今かと待ちわびていた。作業場が収容所から少々はなれているため、昼食は水汲みの馬車で作業場まで運ばれた。わたしたちは食事前になると空腹のために、足をふんばることができなかった。誰もがほとんど一分刻みに、収容所から作業場に通じる道路の方をふりかえっていた。

 わたしはトカレフに近づいて話しかけた。

「タワリシチ セレジャント、今何時ですか」

 タワリシチとは言うまでもなく「同志」の意であるが、当時わたしたちはそんな意味などおかまいなしに、「なになにさん」という程度の意味で使っていた。

「ゴジュー フン、ジューイチジ」トカレフは手のひらほどもあるキーロフ工場製の懐中時計を出して見ながら答えた。そして笑いながら言った。

「メシ、メシ、ダ?」メシは日本語であり、ダはこの場合“そうだろう”という程度のロシア語である。わたしは苦笑しながら答えた。

「ダ、ダー」

 それからまもなく待望の昼食が配られ、トカレフ軍曹の特別のはからいで、あまり遠くに散らばらない程度で、3人、5人、思い思いのグループで、引き倒されたり、切り倒されたりしている木の陰で昼食をとることを許された。これが小隊長だったら、全員1カ所で食べさせられることがふつうであった。食事の後は、たいていのものは横になったり、マホルカとよばれるタバコを自分で紙に巻いて吸ったりした。短いけれども、楽しいひとときであった。わたしたちは、いつもこの時間が一刻でも長くなることを祈る気持であった。

 昼休みの後、わたしたちは5列に並べられて人数の点検をうけた。食事のあと、近くの木陰に用便に出かけるものが少なくないので、歩哨としては自分たちのあずかってきている人数を確かめる必要があった。この人数点検は作業のはじめと終わりには必ず行なわれる行事であった。

 トカレフは5人ずつ数えてみた。朝、収容所の門を出るときたしかに総数60人であったのに、どういうわけか3人足りなかった。歩哨長として受領のサインまでしてきた俘虜の人数が不足することは、重大な責任問題であった。トカレフは部下の兵隊と一しょに、もう一度、二度ゆっくりと数えなおしてみた。しかし結果は同じであった。日本側の中隊長の吉田少尉はみんなに聞いた。

「隣の者で、午後いなくなったものはないか、よく見てくれ」

 誰が居ないかはすぐにわかった。波川八郎という伍長と宮野大三郎という上等兵と丹野吾一上等兵の3人であった。丹野はその日苔取りの作業にきていた。わたしは一瞬どきっとした。いつか便所の中で聞いてしまった話が思い出された(※1)。しかしわたしはつぎの瞬間、自分の想像を否定した。

――いや、どこか近くに用便にでも行ったのだろう。それとも谷にすべり落ちたか、道に迷ったのかな。

(※1)著者はかつて便所に寄ったとき、丹野が他の2名の兵士と脱走計画について話しているのを耳にしていた。

■「ナミカワー、ミヤノー、タンノー!」

 トカレフはきびしい顔になって、部下の歩哨に付近を捜索させる一方、ひとりを収容所のそばの歩哨宿舎に走らせて小隊長に事態を報告させた。わたしたちはみんなで声をあわせて3人の名前を呼んだ。

「ナミカワー、ミヤノー、タンノー」

 四方に向かって、あらん限りの声をふりしぼって叫んだ。かえってくるのは山のこだまだけであった。中隊長の吉田少尉はそれでもあきらめ切れず、トカレフ軍曹に手分けして付近をさがしたいと申しこんだ。しかしトカレフは首を横にふった。

「捜索はわれわれの仕事だ。君たちは指示があるまでそこに立っておれ」

( 後編に続く )

初出:「文藝春秋」昭和45年8月号「君達は同胞の肉を食べるのか」

※掲載された著作について著作権の確認をすべく精力を傾けましたが、どうしても著作権継承者がわからないものがありました。お気づきの方は、編集部にお申し出ください。

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※『奇聞・太平洋戦争』に掲載された記事中には、今日からすると差別的表現ないしは差別的表現と受け取られかねない箇所がありますが、それは記事当時の社会的、文化的慣習の差別性が反映された表現であり、その時代の表現としてある程度許容せざるを得ないものがあります。太平洋戦争前後の時代性・風潮を理解するのが同書の目的であり、また当時の国際関係、人権意識を学び、今に伝えることも必要だと考えました。さらに、多くの著作者・発言者が故人となっています。読者の皆様が注意深い態度でお読みくださるようお願いする次第です。

「日本人は同胞の肉を食べるのか」シベリア抑留者が経験した“人肉事件”の悲しき全貌 へ続く

(加藤 九祚/文春ムック)

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