「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に

「インパール作戦」を強行した牟田口廉也中将 毎夜料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋に

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 第二次世界大戦における旧日本軍のもっとも無謀な作戦であった「インパール作戦」惨敗の主因は、軍司令官の構想の愚劣と用兵の拙劣にあった。かつて陸軍航空本部映画報道班員として従軍したノンフィクション作家・高木俊朗氏は、戦争の実相を追求し、現代に多くのくみ取るべき教訓を与える執念のインパールシリーズを著した。

 インパールを知らぬ世代、必読! シリーズ第3弾『 全滅・憤死 インパール3 』より、インパール盆地の湿地帯に投入された戦車支隊の悲劇を描く「全滅」の冒頭を一部紹介する。

(全3回の1回目。 #2 、 #3 を読む)

◆ ◆ ◆

■早々に過半の兵力を失う状況下で流れた噂

 それまで勇将として畏敬されていた将軍が、暴将とか狂将といった評価に急変した。?

 ビルマ方面の日本軍を指揮した、第15軍司令官・牟田口廉也中将である。 昭和19年3月、多くの反対を押し切って、牟田口軍司令官がインパール作戦を強行した時は、一部では、まだ期待をもたれていた。何にしても、大東亜戦争(当時の日本側の呼称)の開戦の当初、マレー半島を急進し、シンガポール島を攻略した勇将である。 しかし、今度は、ビルマからインドへ、国境山脈を越えて急進し、3週間で英軍の基地インパールを攻略するという作戦なので、多くの困難が予想されていた。

 果して4月の下旬までに、第15軍の3個師団は、それぞれに損害が多く、攻撃が挫折した。3週間の予定で、食糧を3週間分しか持って行かないから、まず食糧が不足してきた。また、急進撃をするため軽装備にしたので、武器、弾薬がたりなくなった。

 インパールを目ざして、3方面から進んだ第31師団、第10五師団、第33師団はいずれも悪戦苦闘となり、早くも過半の兵力を失う惨状となった。

 このころ、第一線には、牟田口軍司令官についての噂がひろがった。それは、作戦開始後、3週間を過ぎても、牟田口中将は軍司令部の所在地メイミョウから動かないでいるというのである。今度のような重大な作戦の場合、軍司令官は前線指揮に適した場所に、戦闘司令所を進めるべきである。

 だが、軍司令部が動かないのは、メイミョウがシャン州の高原地帯にある、ビルマ第一の避暑地であるからだ。そこには日本風の料理屋があり、内地からきた芸者、仲居が いる。その一つは軍司令部の将校専用であり、軍司令官、各参謀、幹部将校は、それぞれに専属の芸者をもっている。彼らは毎夜、料亭で酒を飲み、芸者を自分の部屋につれて行く。

■催促に催促を重ねて

 前線では、連合軍の激しい攻撃にさらされ、将兵が傷つき、倒れ、あるいは飢えと病いに苦しんでいる時である。牟田口軍司令官に対して憤激したのは、第一線部隊だけではなかった。第15軍の上級司令部である、ビルマ方面軍司令部でも、牟田口軍司令官に前線に出るように督促した。

 シンガポール攻略の勇将には、たえがたい不名誉である。だが、牟田口軍司令官は動かず、督促は再三に及んだ。そして、ついにメイミョウを出ることになったが、急進急追しなかった。そればかりでない、シャン高原をおりて、イラワジ河を渡ると、中間基地のシュウェボでとまってしまった。そこには、料理屋が新しくできていて、軍司令部と前後して芸者、仲居がメイミョウから出てきた。

 方面軍司令部は、さらに督促を重ねた。その結果、牟田口軍司令官は幕僚と共に、チンドウィン河を西に越えて、インダンジーに戦闘司令所を置いた。昭和19年4月20 日である。通称名を弓と呼ぶ、第33師団がインパール作戦を開始した3月8日から数えて44日目であった。牟田口軍司令官の計画による予定の3週間は、遥かに過ぎていた。

 すでに戦力を半減した三個師団のうち、通称名を烈と呼ぶ第31師団は、インパールの北コヒマで膠着して動けず、通称名祭の第15師団は、師団司令部が襲撃されて、再三、逃げて移動していた。

 弓第33師団はインパール盆地の西側の山地に進出したが、ビシェンプール一帯の強大な防御陣地に阻まれていた。

■対立していた師団長を更迭

 こうした状況に対し、牟田口軍司令官は憤激し、4月29日の天長節(天皇誕生日)を期して、インパール攻略を命令した。 その天長節も過ぎて、各戦線はますます困難を加えた。その上、5月になると、インド、ビルマは雨季に入り、連日の降雨となる。ことにインパールのあるマニプール州、 その西のアッサム州は豪雨地帯で、年間雨量は世界一である。

 牟田口軍司令官はあせり立って、あくまでもインパール攻略の決意を変えず、第33師団のビシェンプール方面に攻撃の重点を形成しようとした。そのため、方面軍から増強された各種の部隊のことごとくを、第33師団に配属することにした。

 さらに、軍戦闘司令所を弓の第一線に進め、牟田口軍司令官もそこにいて督戦に当ることにした。

 そればかりでなく、弓の師団長、柳田元三中将を更迭することにし、その処置をとった。柳田師団長は、この作戦の当初から失敗を予測し、中止することを進言して、牟田口軍司令官と対立していた。 5月11日、牟田口軍司令官は参謀長・久野村桃代中将を伴い、護衛兵をつれて、20名あまりが自動車に分乗して、インダンジーを出発、弓師団方面に向った。

■《いっそ牟田口を殺して、自分も自決する》

 5月12日、一行はインパール南道上の部落チュラチャンプールに到着した。そこに は弓の輜重兵第33連隊の本部があった。連隊長・松木熊吉中佐は牟田口軍司令官に状況を報告したあと、軍需品について増強を要請したところ、激しくどなりつけられた。

「第33師団は、軍の補給が遅れているから前進出来んというのか。インパールに突入すれば、食糧なんかどうにでもなる。前進の遅れた責任を軍に転嫁するのはもっての外だ。弓がぐずぐずしておるので、じっとしておられんから出て来たんだ」

 牟田口中将は顔を赤くして怒った。

「補給を急ぐなら、夜ばかりやらんで日中にやれ。俺だって日中堂々走って来たが、攻撃されなかった。師団輜重は意気地がない。今日から日中もやらせろ」

 松木連隊長は、連合軍の飛行機の襲来の激しいなかで、自動車輸送ができないことを説明しても、どなりつけられるだけだった。

 何をいっても受付けようとしない牟田口中将の態度は、狂人のようにも見えた。連隊副官の逸見文彦中尉は、このような男が軍司令官かと怒りながら、松木連隊長を気の毒に思って、近づいて、用件らしいことをいって連れだしてきた。

 牟田口中将の言動に許しがたいものを感じた将校がほかにもいた。それについて、逸見副官は後年の手記に、次のように記した。

《軍司令官がチュラチャンプールに突然姿を現わされた時のことである。一将校が痛憤した。こんな軍司令官に指揮されていては、いくさに勝てない。いっそ牟田口を殺して、自分も自決する。 将校は、手榴弾を持って、軍司令官の幕舎に飛び込もうとした》

 牟田口暗殺未遂の話は、これだけではない。インパール作戦が無残な敗北に終り、悲惨な状況となったなかで、牟田口の暴愚を怒って暗殺を計画した話は幾つかある。それらは確証を欠くので、真実を見きわめがたい。しかし、逸見副官の手記にあることは事実といえよう。手記は、次のように結んでいる。

《このような将校さえあったのであるが、本人も帰還しておられるし、十分後悔もしておられると思うので、本文には記さなかった》

 第二次世界大戦中の屈指の惨戦、インパール作戦は、このような軍司令官によって強行された。

■「いよいよインドの土を踏むのですな」

 大隊長の瀬古三郎大尉はうなずいて、 トラックは暗夜の山道を走りつづけた。かどをまがると、斜め下のやみのなかを、明るい光の輪が点々とつづいてくるのが見えた。後続車の前照灯の光である。運転台の小山幸一中尉は、その数をかぞえた。

「みんな、ついてきています」

「この調子なら、朝までに印緬(インド=ビルマ)国境を越えられるな」

「いよいよインドの土を踏むのですな」

 大隊副官の小山中尉が答えた。

 前照灯の光のなかを白い霧が流れた。それが次第に濃くなって行った。かなり高い山脈であるらしく、寒冷の気が肌にしみた。小山副官は運転兵に注意した。

緊迫する戦況……死も覚悟 台数足りぬトラック、故障、追い詰められる兵たち へ続く

(高木 俊朗)

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