芸妓や家族までメッタ刺し……約80年前に起こった「浜松連続殺人事件」犯人は、意外すぎる人物だった

芸妓や家族までメッタ刺し……約80年前に起こった「浜松連続殺人事件」犯人は、意外すぎる人物だった

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 いまから79年前の1941年。4月に始まった日米交渉は難航。関係は悪化の一途をたどり、最終的に12月、太平洋戦争が勃発する。そんな「戦争前夜」の8月から開戦を挟んだ約1年間、静岡県西部の遠州地域で4件の連続殺人事件が起きた。捜査は迷走したが、4件目の事件の捜査から3件目の被害者家族への疑いが浮上。六男が逮捕された。聴覚障害者で当時の刑法では刑の減免の対象だったが、裁判では「難聴者」として死刑判決。1カ月余後の1944年7月に慌ただしく処刑された。

 この月、日本の「絶対国防圏」の一角だったサイパンが陥落。日本の敗色が日ごとに濃くなる。戦時下の犯罪は報道も制限されて知る人は少ない。今回も障害者が登場することなどから差別語が大量に出てくるが、時代を理解するためにそのまま引用する。

■【第1事件】「芸妓対客筋をめぐっての犯行と判断され……」

「濱(浜)松市外 北濱花街の惨劇 貴布禰(祢)藝(芸)妓置屋で藝妓二人を滅多斬り 犯人不明深夜の凶行(一名即死一名瀕死)」。静岡の地元紙・静岡民友新聞1941年8月19日付(18日発行)夕刊1面はこう見出しを立てて報じた。

【浜松支局】今18日午前2時50分ごろ、浜名郡北浜村の花街…北浜村貴布祢205番地、芸妓置屋「和香松」こと佐藤はま方別邸の便所窓口より怪漢侵入して、熟睡中の同家抱え芸妓勝奴こと原籍秋田県山本郡花若村、高松まさゑ(20)及び君龍こと原籍(静岡県)周智郡犬居町、河村まさ子(20)の両名を鋭利な刃物(凶器は日本刀か包丁か不明)で切りつけ、頭部並びに頸部をめった切りにして逃走した。(中略)本稿締め切りまでにはいまだ犯人不明である。

 同紙は8月19日付朝刊の続報で「18日午前3時ごろ、『苦しい苦しい』という君龍のうめき声に、はまさんが目を覚ました時は、勝奴は鮮血にぬれて絶命し、君龍は瀕死の重傷で苦悶しており、はまさんは狂気せんばかりに驚き、助けを呼んだが、その時は既に犯人はいずれかに逃走した後」と報道。「勝奴も君龍も人から恨みを受けるような性質ではありませんし、痴情関係といっても、そうした浮ついたうわさも聞いていません。私どもとしては何の見当もつきません」という「和香松方」の話と、「勝奴も君龍もこの土地では相当の売れっ子です」という消息通の談話を載せている。1979年に出版された「静岡県警察史 下巻」では、死亡した芸妓は「勝也こと高松マサエ」、重傷を負ったのは「君竜こと河村正子」となっている。こちらの方が正しいか。

 同書によれば、浜松署長は現場に急行。貴布祢巡査駐在所に仮の捜査本部を設置した。「ことに、被害者は2人とも芸妓で、芸妓屋で起きた事件であるので、芸妓対客筋をめぐっての犯行と判断され、客筋に対する捜査は最も厳重に行われた」。そして、第1事件から「警察署に引き揚げた捜査員が汗ばんだシャツを脱がないうちに」第2事件発生の報告がもたらされた。

■【第2事件】「お母さんがいなく、布団にいっぱい血がついていました」

「さる18日、遠州北浜村に凄惨なる殺傷事件突発し、いまだ犯人就縛を見ぬ折柄、またもや隣村・小野口村に3人刺殺事件が突発した。

 20日午前2時半ごろ、浜名郡小野口村小松、料理店『菊水』こと山口鶴枝さん(44)方の子ども浩君(11)が小松駐在所へ駆けつけて来、ガラス戸をたたいて『お母ちゃんが怖い男の人に奥の方へ押されて行った。早く行ってください。お母ちゃんは火事だ火事だと言いながら、押されて行きました』との訴え出があったので、安藤巡査がおっとり刀で駆けつけてみると、その時既に女将の鶴枝さんは勝手の土間で胸部を鋭利な刃物で刺されて即死を遂げており、女中大庭いたよさん(16)は座敷でこれまた胸部を刺されて即死しており、その付近に18日から用心棒に雇い入れた浜名郡積志村西ケ崎生まれ、木村良太郎さん(66)が同様、胸部を刺されて惨死を遂げていたので、安藤巡査も意外の大事件に驚いて時を移さず浜松本署に急報した……」(8月21日付静岡民友夕刊)

 同紙は別項で生き残った浩の談話を「母は凶刃を覺(覚)悟」の見出しで載せている。「僕が目を覚ました時は、お母さんがいなく、布団にいっぱい血がついていました。まさか殺されているとは知りませんでした」「お母さんは常に私に、悪いやつが夜侵入するかもしれぬから、すぐ交番へ届けろと言われていました」。記事は「こんな凶行をするような狂暴な者の侵入を予知していたものらしく、木村という日露(戦)役の勇士を用心棒に雇い入れたほどであったのだ」と書いている。管内と隣接署に非常手配が実施され、県警察部刑事課からも警部らが急派された。愛知県から名古屋医大(現名古屋大医学部)小宮博士が県刑事課鑑識係員3人と来援し、現場鑑識資料の収集に尽力した。「中1日おいての事件発生で地元民の恐怖はひとかたならず、小野口、北浜、積志の各村では警防団、隣組を動員してものものしい警戒に努めた」と静岡県警察史は記す。

 同書によると、第1、第2事件の共通点は次のようなものだった。

1.侵入口がいずれも便所の高窓を外している
2.屋内を物色した形跡がない
3.創傷からみて凶器が同一であり、凶行が同様手段と認められる
4.いずれも点灯下でありながら、覆面の形跡が認められない
5.犯人は大男でなく老年ではない
6.被害者はいずれも花柳界の者である
7.被害者の悲鳴を聞いた者はあるが、犯人の言語と思われるものを聞いた者がない

■3年前の同じ夏に「花街」を狙った“武蔵屋事件”が起こっていた

 実は同じ浜松署管内では花柳界が狙われた事件がその3年前の夏にも起きていた(一部固有名詞を削除している)。「暴行を加へ(え)た上に 出刃包丁で滅多切り 濱松在積志の藝妓屋へ凶漢」。1938年8月23日付(22日発行)静岡民友新聞夕刊はこんな見出しで報じている。

「浜松支局発=22日午前1時ごろ、浜名郡積志村西ケ関、芸妓屋むさし屋方物置をよじのぼって同家2階左間ガラス窓をこじ開けて1名のエロ強盗が侵入。そこから階段をおりて階下8畳の間に養子(8)と就寝中の女将(34)を強姦凌辱を加えたうえ、同女が悲鳴をあげたのに驚いた強盗は、出刃包丁を逆手に持って右ほお、頸部に瀕死の重傷を負わせて部屋中を血の海と化し、再び賊は大胆にも2階に上がって10畳の間に就寝中の抱え芸妓にまたも凌辱を加えんとしたが、早くも階下の悲鳴に目が覚めていたので、大声をあげて騒ぎ出したところ、くだんの賊は背部から鉄拳を加えて昏倒させて、悠々小野口村内野方面に向かって逃走した」

「(女将は)犯人の顔は一度も見たことがなく、またこうした被害を受けるようなこともしていません(と語った)」と報じている。当時の新聞の人権感覚のなさに驚くが、読者はおかしいとは思わなかったのか。捜査の見通しが誤っていたのか、取材が先走りだったのか、事件は迷宮入りになっていた。第1、第2の事件の発生で「手口、凶行、無言、夏期の犯行という点で関連性があるものと判断し、武蔵屋事件も捜査の対象とすることとなった」(静岡県警察史)

 第2事件を受けて、浜松署は署長を総指揮とする8班42人の捜査隊を編成。8月24日には浜名郡小野口村小松の公会堂に捜査本部を設置して、本格的な捜査を始めた。しかし、昼夜兼行の活動にもかかわらず、捜査は難航。その理由を静岡県警察史は「第1、第2事件とも花柳界の出来事であるため、捜査員の聞き込みから得る捜査資料は芸者対客、料理屋をめぐるいわゆる痴情怨恨方面に傾き、犯行の動機・目的が明らかでないだけに、捜査員を迷わせた」と書いている。

■捜査線上に浮上した「誠策という男」

 このあと、静岡県警察史には次のような興味深い記述がある。

 武蔵屋事件の捜査を進めていくと、事件の前前夜、浜名郡北浜村小松の「日の出座」で映画見物中の男の自転車が同所の自転車置き場で盗難にあった事実が判明し、さらにその夜、1人の少年が無札で入場しようとし、木戸番が無理に突き出した事実が浮かび、その際、同少年は匕首(あいくち=つばのない短刀)のような物を所持していたことが分かった。

 その少年は聴覚障害者で口がきけない者で、星の帽章を付けた学帽をかぶっており、調査の結果、浜名郡北浜村道本に住む誠策(18歳)という男であることが分かり、9月22日の夕刻、捜査本部で筆談、手まねでいろいろ尋ねてみたが要領を得ず、事件との結び付きも得られなかったので、1時間ぐらいで帰宅させた。

 捜査本部は第3事件の発生を考慮して駐在所にも捜査員を分宿させ、事態発生に対処できるよう体制を整えたが、ついに第3の事件が発生した。

 なお、ここから続いて発生した第3・第4の事件は当時、報道されていない。容疑者が検挙、起訴されて記事が解禁になった1942年11月17日付静岡新聞朝刊に「検察当局は、事件の一般に及ぼす影響の重大性に鑑み、第三凶行と同時に新聞記事掲載を差し止め」と書かれている。当時は10を超える法規によって言論が取り締まられていた。第3、第4事件については静岡県警察史と解禁時の記事に従う。

■【第3事件】思わぬ人物が“被害者”として登場

 1941年9月27日午前2時20分ごろ、浜名郡北浜村道本、農業某方へ何者かが侵入し、同家裏離れ6畳間に就寝中の四男(27)の胸部、腹部、背部など11カ所を突き刺して即死させ、同人妻(26)の右腋下その他に刺傷を負わせ、さらに続きの8畳間に寝ていた主人(59)の左前額部ほか数カ所に刺切創、同人妻(59)の背部その他に重傷を負わせ、物音に驚いて立ち上がった三女(21)の右乳下部を突き刺し、逃走した。犯行当時、同間に寝ていた孫2人は難を逃れ、2階にいた六男誠策も被害に遭わなかった。被害の状況は隣家の者から貴布祢巡査駐在所へ急報され、即刻予定計画通り出動。柘植(静岡県)警察部長も静岡から直行した(静岡県警察史)。

 静岡新聞は全員実名で報道している。静岡県警察史は被害者方を「某」と記述しているが、その後に出てくる「誠策」の名前で分かるはず。そう、武蔵屋事件捜査の過程で取り調べを受けた聴覚障害の男だ。先入観を持たない捜査官なら、調べを受けた5日後にその人物の自宅で事件が起きたことを当然、不思議に思うはず。この段階で再び捜査線上に乗せてもおかしくなかったと思うが、「聴覚障害者に犯行は無理」という意見が強かったのか、捜査本部はそうしなかったようだ。5つの地区について(1)年齢18〜40歳までの男子(2)小柄で頭髪の長い者(3)変質者、特に二重人格者(4)凶器所持の疑いのある者―を重点的に捜査。17人の容疑者が浮かんだが、犯人には結びつかなかった。

 当時の内務省も事態を憂慮。第1事件以来9カ月間に計7271人の捜査員が動員された。その後、第1事件1周年の8月中旬には張り込みを実施して警戒。新しい方針で態勢を立て直して捜査を再開しようとしていた矢先、第4事件が発生した。

■【第4事件】4人がメッタ切りも、これまではなかった遺留品が見つかる

 1942年8月30日午前1時半ごろ、浜名郡積志村下大瀬3381番地、農業井熊亀鶴方の奥納戸部屋に就寝中の亀鶴(56)、妻よし(53)、三女はつ(19)、三男実(15)の4人がいずれも胸部、腹部、背部などをメッタ切りにされて殺害された。離れの部屋に寝ていた四女(17)は難を逃れ、被害を知り、本家の者から有玉巡査派出所へ急報された。検証の結果、被害者の布団の上に門歯3本が脱落しており、被害者が犯人にかみついて抵抗した状況がみられ、同所に木製白さや1本、人絹小幅の黒っぽい「めくらじま」(縦横紺色の木綿糸で織った無地の平織物)の布片と黒塗りの帽子のあごひも1本が遺留されていた(静岡県警察史)。そして、これまではなかった遺留品が事件解決の糸口となって捜査を大きく前進させる。

「私はろう者ですから、許してくれるかも」なぜ、19歳の青年は“狂気の連続殺人犯”になってしまったのか へ続く

(小池 新)

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