「サウナは“男のもの”でした」サウナ大好き日芸卒女学生が、女性のための湯屋『江戸遊』を創るまで

「サウナは“男のもの”でした」サウナ大好き日芸卒女学生が、女性のための湯屋『江戸遊』を創るまで

平井要子さん

 戦後生まれのサウナと女性との関係――。それは決して良好なものとは言い難かった。

 高度経済成長期のサラリーマンと共に発展し、三業地に多く存在したその業態特性から、サウナは時に、“不健全な場所”というイメージも背負わされてきた。それゆえ、女性が足を運ぶ場所ではなく、その距離は近年まで縮まることはなかった。そんな“女性とサウナの距離”を縮めた一人の経営者がいる。平井要子、その人である。

 産まれも育ちも墨田区両国。典型的な江戸っ子気質の一方で、学生時代から自らマイカーを運転し、遠路はるばる自由が丘のサウナに通っていたという、アヴァンギャルドな一面も持つ。

 “すべての人々が安心して入れる温浴施設”を標榜し、清潔でおしゃれ、ゆったりとした休憩空間とコワーキングスペースを備えるなど、江戸の伝統と最先端が共存した東京一“粋”で“WOMEN’S FIRST”な温浴施設『両国湯屋 江戸遊』。そのオーナーである平井の人生も波乱万蒸だった――。

◆◆?

■サウナに咲いた「一輪のバラ」

「20歳の時に女性専用サウナが自由が丘の目黒通り沿いにできて。最初は友達と一緒に行ったんですけど、私が一番ハマっちゃったんですよ。汗をかいてから水風呂に入ったときの爽快感が忘れられなくて。しかも、女性サウナっていうのは当時どこにもなかったので、それからはしばらく通いつめました。

 その後、向島にも女性専用のサウナができまして。向島っていうのは花街だったから当時は芸者衆が何百人っていて、街全体が艶っぽかったんです。サウナに来てる方々もまだ年齢が若い人が多かった。

 今でも覚えてるんですけど、ある日、私よりも少し年上のすごく色っぽい女性が薄暗い小さなサウナ室のベンチに座っていたんです。横目でちらっと見ると、ちょうど太ももに彫ってある綺麗なバラがほんのり赤くなっていって……。あまりに綺麗だったんで、後日、友人にそのことを話したら『それは色っぽいね』って(笑)。なんか高倉健主演の仁侠映画の世界みたいですよね? サウナで花が咲いたんだなって」

■「サウナは“男のもの”」という時代に生まれて

 1960年代後半。この時代は、全共闘をはじめとする学生運動真っ盛り。日本大学芸術学部写真学科に在籍していた平井も当然、そのど真ん中にいた。

「大学が閉鎖されて、4年生の1年間は大学に全く行けなかったんです。だからその分サウナにはよく行ってました(笑)。当時、サウナは“男のもの”。飲みとセットで楽しむ印象が強く、女性とサウナは縁遠かったんです。飲み屋のお姉さんが、アルコールを抜きに来たりするっていうのは聞いたことがありましたけど、敷居が高くて。だから純粋に女性が、サウナを楽しむことを目的に通うことは結構珍しかったかもしれません。

 当時は、女性というだけでとても苦労する時代でもあって。男女雇用機会均等法すらまだなかったので、女性の就職はまだまだ難しくもありました。そんな時代で、女性が4年制の大学へ進むのも大変でしたが、さらに芸術学部は“変わり者の集まり”だとか思われていましたから(笑)。でも、私は日芸で教育を受けさせてもらったことが今の事業に活きていることにすごく感謝してます。教育は大事だってつくづく思いますね」

■48歳で起業。「お風呂屋さんの運営」は、苦労の連続だった

 大学を卒業して親の会社の仕事を手伝うかたわら結婚。子育てが一段落した、48歳の時に今の会社を起業。他のサウナ経営者と比べてもかなり高齢からのスタートだ。しかも、開業にあたって必要なことはすべて独学で準備したという。

「子育てに手がかからなくなったので、『じゃあ自分で商売に挑戦してみよう』と決めたんです。でも最初は全く何もわからなくて……。昔からサウナを開業なさる時は、皆さんだいたいどこかに修行に行くのが定番なんですが、私は48歳で始めたというのもあって修行には行けなかった。色んな方に相談もさせていただきましたし、自分でもたくさん悩んだんですが、最終的に『とにかく飛び込んでみよう』と決意したんです」

 全く知らない業態を新規ビジネスとして選択した平井にとって、温浴施設の経営は全てが初めてで試行錯誤の連続だった。

「もうわからないこと続出で、機械室にある内線電話で『今ここの装置が止まってるけどどうしたらいいんですか!』って毎日のように業者さんに電話して(笑)。全部そうやって一から覚えていきました。当時はまだ温浴施設が今ほどたくさんなかったので、経験者は少なくて。まして従業員教育の方法なんて全然分からない。お風呂屋さんの運営って何もかも特殊で、本当に大変でした」

■江戸の“融合文化”を活かした、唯一無二の「湯屋」へ

 それにしても、どうしてここまで未知で予測がつかない「温浴施設」をあえて選んだのか――。そこには、生まれ育った下町・両国に対する愛情と思い入れが色濃く影響しているという。

「両国は鋼鉄商社がたくさんある、鉄の町だったんです。街ぐるみで『1993年には江戸東京博物館ができて、その翌年には地下鉄大江戸線が開業するから、北斎通りを駅前通りとして発展させよう』と区に提言されまして。じゃあ私は何の商売をしたら地域に貢献できるかなって考えたんです。

 江戸の文化というのは素晴らしい融合の文化で、都市設計にしても外国に負けないくらいのデザイン力がありましたし、庶民生活でも文化を大事にして、職人もいっぱいいたわけですよ。それで、『江戸文化の名残であるお風呂屋さんがこの街にあると素敵だな』と思ったんです。いまもこの街には、切子やお神輿、あとは木工や屏風の職人がいます。だから『江戸遊』の内装には、そういう職人さんの技術もたくさん入れて頂いているんです。

 地元の皆さんに生活の一部として使っていただき、下町の文化を継承する。そうやって、生まれ育った地域に貢献したいなと思いました」

 しかし、オープン当初は決して順風満帆な船出ではなかった。開業までどうにかこぎ着けた『江戸遊』だったが、出だし早々“試練”がやってくる。

男は遊ぶ場所があるのに、女の息抜き場所はない……女性社長が語る「現代の女性にこそ“サウナ”」の理由 へ続く

(五箇 公貴)

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