「公会堂にやってきた宝塚を見て受けた衝撃」田賢三が語った“僕が子どもだった頃”

「公会堂にやってきた宝塚を見て受けた衝撃」田賢三が語った“僕が子どもだった頃”

田賢三氏 ©文藝春秋

 世界的ファッションデザイナーで、ブランド「KENZO(ケンゾー)」の創設者である田賢三氏が、4日、新型コロナウイルスの合併症によりパリ郊外の病院で亡くなった。81歳の訃報に、日本だけでなく世界に衝撃が走っている。

 フランスの芸術文化勲章を受けるなど世界で活躍した自身の原点について、田氏は「週刊文春」2017年5月4日・11日号で語っていた。追悼の意を込め、当時の記事を特別に全文公開する。なお、記事中の年齢、日付、肩書などは掲載時のまま。(全2回の1回目、 #2 へ続く)

◆ ◆ ◆

■最初の記憶は「着物や毛糸玉で遊んでいたこと」

田 姫路の生家は、玄関の横に箪笥が置いてある部屋があって、着物や毛糸玉がたくさんありました。そこで遊んでいたのが最初の記憶。お袋は着物の好きな人でしたけど、洋服は近所の洋装店で仕立てていて、自分は作ってもらえないのに、一緒についていくのが好きでしたね。

 70年代にファッション界の潮流を変えた世界的なデザイナー・田賢三さん。実家は、姫路城を仰ぎ見る梅ヶ枝町で待合「浪花楼」を営んでおり、7人きょうだいの5番目、三男として、戦争前夜の1939年に生まれた。

田 父は地元の電力会社に勤めていたのに、脱サラで待合を始めたんです。ブラジルへの移民を夢みたこともあったようで、骨董や謡が好きな趣味人でした。無口な人でしたから僕には怖い存在で、お袋と喧嘩すると、子どもたちはみなお袋の味方。お袋はしっかり者の社交家でした。

 家は、商売の場所と家族の住まいが分かれてましたけど、従業員もいたので部屋数は15ぐらい。中庭に、小さな池や離れもありましたね。戦争が激しくなってきたある日、裏庭に父が穴を掘り、家財をいれた大きな火鉢を二つ埋めていた。僕は入学したばかりの小学校を転校して、姉たちと一緒に母の実家がある兵庫県甘地(現・市川町)に疎開するんですが、お母さん子だったので、病気になっちゃった。数カ月離れていただけなのにねえ。

 二度の姫路大空襲のあと、敗戦を迎える。家族は無事だったが、実家は焼失。庭に埋めた家財を掘り返し、父は近くに家を買った。数年後、梅ヶ枝町で「浪花楼」が再開された。

■小2で衝撃を受けた宝塚の舞台

田 内気な子どもで、年が離れた兄たちには相手にされず、遊び相手は姉たちでした。小学2年のとき、姉に連れられて姫路市公会堂にやってきた宝塚を観たんです。乙羽信子さんの『南の哀愁』。まあ、なんと綺麗なものがあるのかと衝撃でした。当時の明石照子さんも本当に素敵で。まさか50年後に、自分が宝塚の衣裳を手がけることになるとは(笑)。姉や祖母に連れられて、映画もよく観ました。初めての洋画は、マーガレット・オブライエンやジューン・アリソンが出ていた『若草物語』。洋風の生活に憧れ、ベッドのつもりで押し入れに布団を敷いて寝てましたね。

 姉たちが読んでいた『それいゆ』や『ひまわり』にも、影響を受けています。中原淳一さんのスタイル画を見て真似たのが、絵を描くようになったきっかけ。雑誌に載っている人形の作り方を読み、中学の夏休みには毛糸や針金でいろいろな人形を作りました。興味があったことは自然と身についたんでしょう。着物のことなんか、先生より、僕の方が知識はありました。

 学業は優秀。学級長も務めた小中時代を経て、県内有数の進学校、姫路西高へ。

■会社を2カ月足らずで退社し、姫路駅を発った18歳の秋

田 最初の中間テストは後ろから数えたほうが早くて、ショックでした。負けず嫌いだから、入った美術部もやめて猛勉強。卒業後の志望は美大で、先生にも芸大を勧められたけれど、父が糖尿病で臥せっていて他の家族も病人が多く、うちの経済状態では無理だと子供心にもわかりました。姉が通う須磨の洋裁学校に行きたかったのですが、当時の洋裁学校は男子禁制でした。それで家から通える神戸外大の夜学に入り、昼間は義姉のお兄さんの紹介で神戸の貿易会社で働き出したんです。

 ところが、そこは玩具を輸出する会社で仕事は荷造りとお使い。朝は早いし、仕事が終わって学校へ行き、また姫路に帰る生活は辛くてねえ。

 そんなとき、通勤電車の中で目に飛び込んできたのが、グラフ誌の吊り広告「文化服装学院に男子学生入学」の記事。会社を2カ月足らずで退社し、夏休みに豆腐屋でバイトして上京資金をためた。18の秋、鈍行で姫路駅を発った。

■文化服装学院師範科に入学

田 着替えだけを持ち、予備校に通う西高時代の親友の若松町の下宿に転がり込みました。1週間後、都電若松町駅近くの「三島看板店」に住み込みの職を見つけ、仕事部屋手前の三畳間をカーテンで仕切った部屋で寝起きしました。賄い付きで月給3000円。仕事はペンキの下塗りでしたけど、手はペンキだらけになるし、冬になると寒くって、なんで東京に出てきたのかなと侘しかった。それでも、あのときは前向き思考で、挿絵の通信教育を受け、神泉にあった隅田房子スタイル画研究所に週2回通ってましたよ。

 58年、文化服装学院師範科に入学。男子学生は、240人中40人。同じクラスにニコルの松田光弘さんが、隣のクラスにはピンクハウスの金子功さん、マドモアゼルノンノンの荒牧太郎さんがいた。母から月8000円の仕送りが届くようになった頃、父が死去。

■コシノジュンコの絵を見て感じた不安

田 文化に入ってすぐ、同じクラスの男子学生5人で、学校の前にあった新宿の紳士服屋の2階の下宿を2部屋借りました。ご飯は文化の学食で食べられたけれど、狭い下宿でみんなが麻雀をするのが嫌で嫌で。半年我慢して、幡ヶ谷の三畳部屋へ引っ越しました。

 師範科は洋裁の基礎を学ぶところですが、僕は縫えないから面白くなくてね。最初に縫ったのがブラジャーで、卒業作品が学生服。つまんないでしょ。でも翌年デザイン科に入ると、先生はイブ・サンローランと机を並べたパリ帰りの小池千枝先生。カッコよかったし、授業も楽しくて。

 クラスには、(コシノ)ジュンコもいました。デザイナーになるために生まれたようなユニークな彼女の絵を見たときは、上京してきた品川駅で、「こんな大勢の人の中で生きていけるのか」と感じた不安が蘇ってきたんですよ。彼女は“六本木野獣会”に入っていて、交友関係も華やかで。僕はまだ学生服を着てたから、ジュンコは今でも昔の僕のことを「黒縁眼鏡で学生服で下駄だった」と言います。下駄は履いてないけど、そういうイメージだったんですね。憧れのスーツを初めて作ったのは、新宿の下宿先だった紳士服屋でした。

( #2 へ続く)

たかだけんぞう/1939(昭和14)年、兵庫県生まれ。文化服装学院デザイン科卒業。60年に装苑賞を受賞。65年に渡仏。70年、パリにブティック「ジャングル・ジャップ」をオープンし、同年パリ・プレタポルテ・コレクションにデビュー。70年代のファッション界に多大な影響を与えた。

?(取材・構成:島ア今日子)

「もう年だし、いつまで続けられるかな」田賢三が語っていた若い人への想い へ続く

(島ア 今日子/週刊文春 2017年5月4日・11日号)

関連記事(外部サイト)