“にほんたいいくだい”だった「日体大」は、なぜ“にっぽんたいいくだい”と読むようになったのか。

“にほんたいいくだい”だった「日体大」は、なぜ“にっぽんたいいくだい”と読むようになったのか。

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「国民は私たちを応援してくれるでしょうか」 2021東京オリンピックを目指す選手は、心をどう整えている? から続く

 オリンピック日本代表は高学歴社会である。戦後の企業スポーツ隆盛の時代へ移ってもなお、大学生オリンピアンの活躍は話題を呼ぶ。教育ジャーナリストの小林哲夫氏の著書『 大学とオリンピック1912-2020 』(中央公論新社)より、各大会で活躍した学生選手を紹介する。(全2回のうち2回目。 1回目 を読む)

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■サッカー代表が表す大学生の盛衰

 オリンピック日本代表は高学歴社会である。

 1952年ヘルシンキ大会から60年ローマ大会までの3大会では、大学生の代表は4割を超えていた。当時は、各競技で学生が社会人よりも強かったことによる。

 しかし、64年東京大会から大学生の比率が低くなり、72年ミュンヘン大会から2016年リオデジャネイロ大会まで一割台が続いている。この頃になると企業やクラブチームなどで社会人選手の育成が強化され、大学生は社会人に太刀打ちできなくなった。野球はプロ野球、サッカーはJリーグのメンバーで占められ、大学生の出番はなくなる。

 大学生+大卒の比率は大会によってまちまちである。68年メキシコシティー大会まで男子サッカーは9割以上が大学生+大卒で占められていた。たとえば、64年東京大会において早稲田大関係者が華々しい活躍を見せた。学生の釜本邦茂(日本サッカー協会顧問)や森孝慈(元日本代表監督)、OBの川淵三郎(Jリーグ初代チェアマン)や宮本征勝(Jリーグ監督を歴任)など、錚々たるメンバーがいた。

 しかし、日本のサッカーはしばらく低迷が続き、68年大会を最後に、オリンピックに縁がなかった。96年に7大会ぶりに出て、それ以降、今日まで連続出場を続けるが、大学生+大卒の代表は1〜2割程度になってしまう。すでにJリーグが発足しており、高卒でプロになる選手が多く、彼らが大学生を押しのけて代表に選ばれたからだ。大学生は数えるばかりで、大卒も2000年シドニー大会の宮本恒靖(同志社大)、08年北京大会の長友佑都(明治大)など少数派だった。

■東高西低の中、健闘した関西の大学

 1956年メルボルン大会代表には編入学した学生がいる。体操の小野喬は、秋田県立能代南高校を経て東京教育大(現・筑波大)を卒業する。その後、慶應大に編入学し、メルボルン大会で金メダルを獲得している。サッカーの八重樫茂生は岩手県立盛岡第一高校から中央大に進み、早稲田大に編入した。小野は4回、八重樫は3回、オリンピック代表に選ばれている。

 オリンピック代表を生んだ大学は東高西低である。1912年初参加のストックホルム大会から2016年のリオデジャネイロ大会まで、関東の大学の在学、出身者が圧倒的に多い。大学の数が多い、スポーツ強化に力を入れている、伝統や人気がある大学に有望な学生が集まるなどの理由が挙げられるだろう。こうしたなか関西の大学が健闘する競技がある。56年メルボルン大会においてサッカーで関西学院大からはOBも含め5人、水泳では天理大から2人が代表となった。

 1960年ローマ大会の一位、中央大24人の内訳はレスリング7、陸上6、フェンシング3、ボクシング3、水泳3、近代五種1、重量挙げ1。中央大は格闘技系で高校日本一の選手が多く入学したことが大きい。

 レスリング代表7人中5人が北海道増毛高校(現在は閉校)レスリング部出身である。北海道の公立高校によほど優れた指導者がいて、素質がある生徒が集まったのだろう。このうちバンタム級の浅井正とフェザー級の佐藤多美治の絆は深かった。佐藤について中央大の学内報にこんな記載がある。「先輩である浅井選手に高校時代より指導を受け、選手層の厚い軽量級において強豪を退け堂々と代表に選出されたルーキーである。過日の対ソ連戦においては日本選手が苦戦した相手をストレートスルーで破るという実力を発揮」(『中央大学学報』1960年5月)。同大会では4位に入賞した。

 ボクシングの田辺清は青森県立青森工業高校出身。フライ級で高校、大学で日本一となった。同学報では「38連勝(TKO16)という躍進ぶりを発揮し、ストレート左右のフックは偉力あり、日本ボクシング界の金メダル候補である」とある(前掲)。田辺はローマ大会出場時19歳(大学2年生)で準決勝まで進んだが、ここで負けて銅メダルとなった。

 この試合について、日本代表側は「田辺の判定勝ち」だと猛烈に抗議する。のちに日本アマチュアボクシング連盟がこう書き残している。

「これには一同唖然として声も出ない。直ちに審判長の席に行き抗議するも規定によってなんとも致し方ない。後刻抗議文を提出することにして怒りをおさえて帰村する」(『第17回オリンピック大会報告書』日本体育協会 1962年)

■人生を分けた意外な転身

 1964年東京大会では日本大、早稲田大が一位を分け合った。このなかでのちに大きな話題を提供してくれた学生がいる。早稲田大競走部の飯島秀雄だ。64年6月、20歳の飯島は100メートル走で10秒1の日本新記録、同年の世界最高記録を作った。しかし東京大会では決勝に進めなかった。飯島は陸上選手を24歳で引退し、69年、プロ野球のロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)に入団する。世界初の代走専門選手という触れ込みだった。初出場で初盗塁を成功。そのときの捕手は野村克也だった。しかし、盗塁成功率はそれほど高くなく、71年に引退している。最近になって、当時をこうふり返っている。「最初はプロ野球の走塁コーチとして依頼があったんです。誰が言ったかわかりませんが、『走塁コーチはいつでもできる、だからピンチランナーでやらせたらどうだ』という話が出たんです。私の知らないところで」(「TBSテレビ『消えた天才〜一流アスリートが勝てなかった人 大追跡〜』取材班」東洋経済オンライン、2017年8月26日)

 同大会ではレスリングで明治大出身の杉山恒治が代表に選ばれた。愛知県の東海高校時代は柔道で日本一、相撲で全国大会ベスト16となり格闘技にめっぽう強かった。同志社大に入学し柔道を続けたが、杉山が強すぎて先輩が稽古をつけてくれず、ランニングばかりやらされた。それを見て怒った父親は同志社大を辞めさせ、明治大に編入学させる。ここで柔道部に入る予定だったが、明治大の柔道部監督が「最初に明治に来ると言いながら同志社に行き、また、明治に来るなんて信用できない」と入部を認めなかった。

 途方に暮れた杉山は縁あってレスリング部に入部するが、そのあとがおもしろい。杉山の回顧。「入部10日目にローマオリンピックの最終予選があったのですが、私はそれで優勝してしまったんですね。最終的に経験不足を理由にローマへの出場はならなかったのですが、当時の新聞に『新人杉山、10日で全日本優勝』と書かれ大変な騒ぎになった」(『明治大学レスリング部70年史』 2003年)。1964年東京大会後、杉山はプロレスの世界に転身した。リングネームはサンダー杉山である。

■あの人気プロレスラーたちも

 1968年メキシコシティー大会には体操代表として日本体育大の学生、塚原光男、監物永三、小田千恵子が出場。塚原光男は国学院高校出身。探究心旺盛で新しい技に挑戦するのが好きだった。こうふり返る。

「先生の言うとおりなんか全然やらなかったから嫌がられていたとも思う。当時の指導法としては先生が指導し、作ったプログラムをやっていくのが主流だった。今のように技術が解明されてないから、どっちかっていうと『やれ』とか『こうせい』とか『頑張れ』なんていう世界なんですよね。そういうのあんまり好きじゃなかった」(『オリンピックスポーツ文化研究 3』日本体育大学 2018年)

 塚原はこの大会と72年ミュンヘン大会、76年モントリオール大会で団体総合優勝三連覇を果たす。その後、小田千恵子と結婚し、長男の塚原直也は明治大に進み、2004年アテネ大会体操団体総合で金メダルを獲得している。親子で金メダルを獲得した日本で唯一のケースだ。

 72年ミュンヘン大会レスリング代表の学生2人が、のちに人気プロレスラーになった。

 中央大の鶴田友美は山梨県立日川高校出身で、69年に大学に入学した当初はバスケットボール部に入ったが、レスリングに転向する。

「自分としては団体競技よりも個人競技で力を試してみたくて、途中自衛隊体育学校へ週3回通い、そこでアマレスを修業、大学4年のときレスリング部員になり、大学選手権で優勝しました」(『中央大学学員時報』1980年7月10日)。大学卒業後、ジャイアント馬場の誘いに応じて、全日本プロレスに入った。ジャンボ鶴田である。

 専修大の吉田光雄は山口県の私立桜ケ丘高校出身。70年に入学し全日本学生選手権に優勝、オリンピック候補となった。だが、吉田は韓国籍だったため日本代表にはなれなかった。やがて、吉田の実力を惜しむ関係者の助けによって、在日大韓体育会を介して72年ミュンヘン大会の韓国レスリング代表に選ばれる。大学卒業後、新日本プロレスに入った。長州力である。

 72年ミュンヘン大会出場について半世紀近く経ってから、長州は次のようにふり返っている。

「帰化申請も間に合わないし、かといって出場をあきらめたくない。出られるんだったら、たとえ日本代表じゃなくても、どの国でもいいと思った」(朝日新聞デジタル 2020年7月25日)

 もう1人、レスリング代表の学生、国士舘大の伊達治一郎は、72年ミュンヘン大会では成績がふるわなかったが、76年モントリオール大会で金メダルを獲得している。その後、レスリングで後進の指導にあたっていたときに、とんでもない逸材を発見した。後の横綱武蔵丸(現・武蔵川親方)だ。さっそく元横綱三重ノ海(当時・武蔵川親方)に橋渡しして角界デビューとなった。伊達は2018年に亡くなるが、このときの武蔵川部屋のウェブサイトにはこう綴られていた。

「伊達先生はハワイでアメフトとレスリングをしていた親方をスカウトして日本に連れてきてくれ、来日後も色々なアドバイスをくれた恩師でした。(略)伊達先生が自分を見つけて声を掛けて下さらなかったら横綱武蔵丸は生まれていなかった、と親方は話します」

 72年ミュンヘン大会ではこれまでオリンピックに縁がなかった大学の学生が出場している。

 広島商科大(現・広島修道大)から初めて出場した選手が金メダルを獲得した。水泳平泳ぎ代表の田口信教である。中学、高校時代から大会に出れば優勝していたが、水泳の強い早稲田大、中央大、日本大には進まず、地元の大学で鍛えた。大学卒業後、国立の鹿屋体育大の教員となる。2004年アテネ大会では、同校での田口の教え子、柴田亜衣が自由形で金メダルをとっている。

 大正大からは学生2人がカヌー代表として選ばれている。その後、92年バルセロナ大会まで毎回同校出身者が選ばれたが、それ以降は新興勢力の駿河台大などに代表の座を譲った。やがて長い時を経て、2020年東京大会で、大正大OB、水本圭治がカヌー代表に内定した。7大会ぶりの出場に、大学は久しぶりに盛り上がっている。

■「にほん」から「にっぽん」へ

 1976年のモントリオール大会の大学生+大卒者で日本体育大が初めてトップになった。10競技に代表を送り出している。ランキング上位校の日本大、中央大、早稲田大は出場競技に偏りが見られたが、日体大はバランスが良い。体育大の強みで、各競技に運動能力に秀でた学生が集まり、さらに優れた指導者が揃っていたからだ。日本体育大は64年東京大会から代表を多く出すようになった。

 現在、日本体育大の正式な読み方は「にっぽんたいいくだい」である。開学時、「にほん〜」だったが、81年に読み方を変更した。その理由はオリンピックと関係があるようだ。

 大学史に興味深い記述がある。

「昭和39年の東京オリンピックの招致は日本のスポーツを飛躍的に発展させ、体育教員養成機関=日体大のスポーツの発展も促した。このオリンピックの後に、『日本』(にほん)体育大学は『日本』(にっぽん)体育大学としてその呼称を改めたことからも知られるように、日体大に及ぼしたオリンピックの影響は大きかった。(略)東京オリンピックで世界に知れ渡った『NIPPON』を採れば、日本体育大学を世界に知らしめるのに好都合であるとする判断が働いたようである」(『学校法人日本体育会百年史』1991年)

 76年大会の代表で少数派の大学生を紹介しよう。自転車競技代表に日本大の小笠原嘉(ただし)、小笠原義明、岡堀勉が選ばれた。3人とも青森県の八戸電波高校(現・八戸工業大学第一高校)出身である。同校は72、74、75年に全国高等学校総合体育大会自転車競技大会で優勝しており、この頃のメンバーが日本大を強くしたわけだ。

 さらに日本大にはレスリング代表の谷津嘉章がいた。のちにプロレスラーとなり、ジャンボ鶴田と「五輪コンビ」を組んでいたことがある。

 アーチェリー代表で同志社大の道永宏は銀メダルを獲得している。大学2年(19歳)の時だ。両親ともにアーチェリーの選手で幼少の頃からアーチェリーに触れていた。

 一方、クレー射撃代表で30代半ばの選手がいた。麻生太郎・元内閣総理大臣、現・財務大臣である。麻生は学習院大出身で当時、麻生セメント社長を務めていた。

 なお、日本大の岡堀勉、谷津嘉章は、80年モスクワ大会の代表にも選ばれる。しかし、日本はボイコットしたため、彼らは同大会に出られなかった。

(小林 哲夫)

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