「とうとう見つけてしまったのか……」元号制定の舞台裏で暗躍した“特命官僚”という存在

「とうとう見つけてしまったのか……」元号制定の舞台裏で暗躍した“特命官僚”という存在

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 昭和も平成も令和も、天皇ではない、たった「一人」と一つの「家」が元号選定の鍵を握っていた。「令和」改元の舞台裏で密に元号の考案依頼をしていた“黒衣”の名は尼子昭彦。彼はいったいどのような人物で、どのように元号選定に関わっていたのか。毎日新聞で記者を務める野口武則氏の著書『 元号戦記 近代日本、改元の深層 』(角川新書)より、その知られざる実態に迫る。

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■退位、歯車は回り始めた

 漢籍や日本古典の学者を回り、密に元号の考案依頼をしていた尼子昭彦について、手がかりがないかと資料を渉猟した。中央省庁の『職員録』をめくると、平成25(2013)年版(2012年12月発行)まで国立公文書館の職員として尼子の名前が掲載されていた。一方で、内閣官房の欄には名前が見当たらない。また、国立公文書館の館報「北の丸」では、1999〜2006年まで「『寄贈書目録』(漢籍)」など、公文書館が所蔵する漢籍の目録について記事を書いている。

 私は学者と面会する際、この公文書館の記事を見せて尼子を知っているか尋ねて回った。しかし、尼子には接触できていなかった。12年の時点でわかっていたのは、平成改元時の考案者の一人、宇野精一の弟子ということだけ。精一の著書『孔子家語 新釈漢文大系五十三巻』(明治書院)に、尼子と、精一の長男で当時は中央大教授だった宇野茂彦が編集を手伝ったことが記されていた。

 公表されている文献を見る限りでは、尼子と元号を関連させるものは一切なかった。手がかりは少なく、謎は残ったままだったが、宇野茂彦が斯文会で月一回開いている市民講座「論語素読」に、私は16年4月から通い始めた。本来業務の政治取材とは別に、知り合った漢籍や日本古典の研究者とは個人的に年賀状などのやりとりを続けていた。2年余の大阪本社社会部での勤務を終え、15年5月に再び東京本社政治部に戻って来たのを機に、いずれ来る代替わりの準備を再び始めたのだ。漢文素読は高校の国語の授業以来で、解説もなくひたすら素読を進める形式に最初は戸惑った。

 少し慣れてきた16年7月13日夜、NHKの速報で日本中に衝撃が走った。午後7時のNHKニュース直前に流れた「天皇陛下、生前退位の意向」との速報は、代替わりに向けた水面下の準備作業を公式日程に浮上させ、歯車が急速に回り始めた。

■水面下で動き出した「元号研究官」

 天皇の終身在位と、天皇一代に元号一つの「一世一元制」は明治時代に確立した。憲法や皇室典範に退位の規定はなく、法整備が必要だった。退位となれば、新天皇の即位に伴い、「平成」が終わり新元号に改まる。退位を実現する皇室典範特例法は、政府の有識者会議や与野党折衝を経て17年6月に成立した。17年10月の衆院選で自民党が大勝、安倍政権の続投が決まると、私は尼子を探す作業を再び本格化させた。「元号研究官」も本格的な準備に着手しているはずだ。

■「公文書研究官のポストはあるが、人はいない」

 皇居・北桔橋門の向かい、旧江戸城北の丸の一角にある国立公文書館は、3階の館長室や会議室がある最上階の4階からも、皇居の森に視界が遮られる。首相官邸や内閣官房がある永田町からは、皇居をおおよそ半周した反対側に位置する。永田町方面への地下鉄のアクセスも、公文書館から坂を下った最寄りの竹橋駅から東西線に乗り、一駅隣の大手町駅で丸ノ内線か、反対回りで九段下駅から半蔵門線に乗り換えなければならない。距離が近いようで、遠い。

 1971年に総理府(現内閣府)の機関として開設され、2001年の行政改革で現在は独立行政法人となっているが、幹部職員は内閣府からの出向者が占める。役所から移管された重要な行政文書を管理・保管し、一定の期間を経たものを公開する役割を担う。ほかにも、漢籍・和書・古文書約50万冊のほか、明治以降の公文書なども含めると計約140万冊を所蔵し、国内有数の史料館としての役割もある。徳川将軍の図書館「紅葉山文庫」が源流で、明治時代の「内閣文庫」を経て、今日まで貴重な古典籍が引き継がれている。

 かつて、尼子昭彦が館報「北の丸」に掲載した目録の記事では、肩書は「主任公文書研究官」となっていた。公文書館法四条二は「歴史資料として重要な公文書等についての調査研究を行う専門職員その他必要な職員を置くものとする」と定める。1987年にこの法律が成立したのを受けて、「公文書研究職」が新設された。公文書館OBを訪ね歩くと、尼子は平成改元より約1年前の87年12月1日、出来たばかりの公文書研究職として採用されたことがわかった。「研究職」は係長級で、尼子は後に管理職の「研究官」となった。

■公文書館職員に漢籍の専門家はいなかった

 退位特例法成立から5カ月後の2017年11月、私は国立公文書館を訪れた。会議室に案内され、対応してくれた職員に尼子のことを尋ねた。

「漢籍を専門にやられている職員はいませんか? 昔は尼子さんが『北の丸』で漢籍について書いていましたが」

「我々の世代だと面識がないのでわかりません。もう辞めています。公文書研究官のポストはありますが、人はいません」

 現在は公文書館の職員に、漢籍の専門家は一人もいない、とのことだった。

■尼子は内閣事務官が「本務」だった

 少ない手がかりを基に、私は公文書館OBや宇野家に近い学者を訪ねて歩いた。尼子を知る複数の関係者は、こんな人となりを教えてくれた。

「まじめで口数少ない」

「同僚と飲みに行くこともなかった」

「漢籍だけが生きがいのようだった」

 尼子という名字の由来について、山陰地方を拠点にした戦国大名の尼子氏の末裔であると、本人が話していたと、複数のOBが証言した。60歳の定年直前の2013年ごろ、公文書館を退官していたこともわかった。

 ただし、中央省庁の『職員録』を過去に遡って調べると、不可解な点が見つかった。国立公文書館に採用され、一貫して公文書研究職、研究官として勤めたはずだが、昭和64(1989)年版(88年7月1日現在の配置)では内閣官房の欄に「内閣事務官」として「(兼)尼子昭彦」と記載がある。平成2(90)年版でも、内閣官房に「主査」として「(兼)」と兼任の形で名前があるが、平成3(91)年版になると内閣官房から名前が消え、公文書館の「公文書研究職」として名前が記されている。以後、内閣官房でなく公文書館の欄にのみ名前が掲載され続けた。

 これは何を意味するのか。行政職だったある公文書館OBに2017年11月、話を聞くことが出来た。

■外に出せない話

「尼子さんについて知っていれば伺いたいのですが」

「何を聞きたいかはわかります。こういう時期になると探すのでしょう」

「元号をやっていたと聞いたのですが」

「私もそういう話は聞きました。多分正しいでしょう」

「なぜ内閣官房でなく、公文書館の職員がやっているのですか」

「役所の中に、外に出せない話があるのでしょう。私たち公文書館職員は、何をやっているのか知りません。それでOKということになっていた。内閣事務官が本務で、公文書館は兼務ですよ」

 元号を担うのは内閣官房である。平成改元時は内政審議室、現在は内政担当の官房副長官補室だ。別の公文書館OBは「内閣官房にいると目立つので、秘密にするために公文書館に机を置いて仕事をしていた」と証言した。内閣官房の業務を、公文書館の職員だった尼子が兼務するのはこのためだ。

 一方、ある元官邸幹部は、内閣側の事情を説明してくれた。

「内閣官房で仕事をしていたら、『あの人何をやっているの?』と不審に思われて漏れてしまう。普段は公文書館にいれば、記者にも存在を知られない」

 公文書館職員の多くは、東京都内の郊外か埼玉、千葉など近県の公務員宿舎に住んでいた。ところが、採用間もない尼子には、都心の渋谷区にある国家公務員宿舎があてがわれていた。元号を担当する内閣官房事務官が「本務」のため、緊急参集に対応できるよう永田町、霞が関へアクセスのいい都心に住んでいたようだ。

■存在自体があいまいだった尼子

 公文書館の主要な業務の一つは、一定期間を経た後に各省庁から移管される、歴史的に重要な行政文書を管理・公開することだ。膨大な文書の処理に職員は忙殺される。だが、尼子はこうした業務を免除され、時々「『向こう』に行ってきます」と内閣官房に出かけていた。そんな尼子の姿を、ある元公文書館職員は「存在自体が曖昧な人だった」と振り返った。他の公文書館職員と交流がほとんどなかったのは、「元号の仕事に配慮した人間関係だったのかもしれない」と話す元同僚もいた。

■「特定問題担当」という役職

 証言だけでなく、公文書として尼子の業務を裏付けるものはないか。内閣官房のホームページから行政文書ファイル管理簿を検索すると、内閣官房副長官補室の「併任者出勤状況通知書」という文書を見つけた。この文書を情報公開請求し、入手した。

 遡れたのは過去約6年分だったが、併任者の担務一覧が書かれたA4の一枚紙には、2013、14、15年に「特定問題担当」として尼子の名前があった。公文書館を退任後も内閣官房で業務を続けていたことがわかったが、「特定問題」とは何なのか。情報公開請求で得た公文書を手に、公文書館OBを訪ね歩く。

 2006〜09年に公文書館理事、09〜13年に公文書館長を務めた高山正也とは、横浜市近郊の喫茶店で落ち合った。高山にこの公文書を見せて、文書の意味するところを聞いた。

「『特定問題担当』とは何でしょうか。元号の担当官だが、そうとははっきり書けないので、このような表現になっているのでは?」

「そうだと私は理解しています。漢籍の知識が必要になる諸問題が『特定問題』。中でも非常に大きいものとして新元号に関わる問題がある」

 尼子が元号担当だったことが、公文書からも裏付けられた。

■「とうとう見つけてしまったのか……」

 平成改元の約1年前、1987年12月1日付けで国立公文書館に採用された尼子昭彦のことを、公文書館の職員で事前に知る人はいなかった。公文書館による面接試験はなく、当時の総理府・内閣官房が採用を主導した。

 尼子の直属の上司となる当時の公文書館公文書課長は、採用の少し前、若手の部下に尼子がどのような人物かを探るよう指示した。若手職員は仕事帰りに、採用前の尼子を最寄りの飲食店街に誘った。

 毎日新聞東京本社が入る竹橋のパレスサイドビルは、皇居北側に位置し、公文書館から徒歩数分の距離にある。地下鉄竹橋駅に直結するこのビルの地下にある飲食店街が、公文書館職員の行きつけだった。

 二松学舎大大学院の修士、博士課程で漢籍を学んだことなど、尼子の大学院での専攻や指導教官について、酒を飲みながら話を聞いたという。後日、若手職員は公文書課長に「落ち着きがあり、よさそうな人でした」と報告した。

 では、誰がどのような理由で尼子を採用したのか。採用時の公文書館長は菅野弘夫。人事院総裁秘書官、環境庁秘書課長、総理府人事局長など、主に人事、秘書畑を歴任したキャリア官僚だ。1979年の元号法成立直後、当時の元号担当だった総務庁長官を支える事務方トップの総務副長官だった。この時期に、政府は昭和に代わる新元号の考案依頼を学者にしており、菅野も関与した可能性がある。その後、89年から94年まで、皇太子・徳仁(現在の天皇)の世話をする宮内庁東宮職のトップ東宮大夫を務め、皇室とも縁がある人物だ。経緯を知る可能性があったが、2009年に86歳で亡くなっていた。

 当時を知る元職員を探す中で、元内閣官房幹部に17年11月、都内のホテルで話を聞くことが出来た。これまで何度か会ったことがある人物だったが、顔写真入りの尼子が書いた専門誌の記事を見せると、平静を装いながらも口調が変わり逆質問された。

「どこでこんなの見つけてきたの?」

「専門誌に書いてあるのを、たまたまですが見つけました」

「これを探してしまったか」

 さらに、平成改元前後の中央省庁の『職員録』を見せ、本来は公文書館職員であるはずの尼子の名前が、内閣官房内政審議室の欄に記されていることを伝えた。

 元幹部は「うーん。とうとう見つけてしまったのか……」と経緯を教えてくれた。ただし「記事が事前に出ると困る。新元号発表の時に書いてくれれば、一つのスクープですよ」と条件を付けられた。私もそのつもりで取材をしていたので、了解した。

“令和”制定の黒衣! 30年もの間、密室政治を支え続けた男の生涯に迫る へ続く

(野口 武則)

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