マンション建設で発見…秀吉が京都に築いた「幻の城」はどこにあったのか?

マンション建設で発見…秀吉が京都に築いた「幻の城」はどこにあったのか?

洛中に唯一残る造り酒屋、佐々木酒造。

徳川幕府の栄枯盛衰を見守った二条城 国宝・二の丸御殿の“群を抜く豪華さ” から続く

 京都で酒処といえば伏見を連想するが、かつての洛中は伏見を凌駕する酒蔵数を誇っていた。洛中に唯一残る造り酒屋、佐々木酒造4代目の佐々木晃さん曰く、室町中期には300軒が密集する日本最大の酒処だったという。

“洛中”とは、豊臣秀吉が天正19年(1591)に構築した「御土居(おどい)」の内側の区域のことだ。秀吉は、応仁の乱で荒れ果てた京都を再建するため、大規模な京都改造計画に着手。天正13年(1585)から京都での邸宅「聚楽第」を建設し、大名屋敷や寺町を整備した。

 都市改造の一環として、京都をぐるりと囲むように構えた総延長約23キロの城壁が、御土居だ。土を盛り上げた土手のような「土塁」と堀のセットで、京都を外敵から守る防御壁であり、鴨川の氾濫など水害対策の堤防でもあった。

■秀吉も飲んだ? 金明水・銀明水

 秀吉が聚楽第をこの地に築いた理由のひとつとされるのが、良質な地下水だ。三方を山に囲まれる京都は、水瓶のように地下水が集まる。秀吉は「金明水・銀明水」と呼ばれる名水を求めてこの地を選び、聚楽第内に設けた茶室で千利休が立てた茶の湯を楽しんだといわれる。

 佐々木酒造は聚楽第の敷地内にあり、金明水・銀明水を使用した洛中伝承の技法で酒造りを続けている。京都は古来、良質な献上米が集まる都。自ずと酒造りが盛んになったという。

 秀吉が伏見城を築いたことで伏見城下町が発展し、酒処も洛中から伏見へと変わっていった。天正19年(1591)、秀吉は甥の秀次に聚楽第を譲渡。文禄4年(1595)に秀次が自害すると聚楽第は破却され、遺構の一部は伏見城に運ばれた。

 ところで、伏見城には3つの姿があるのをご存知だろうか。初代は、文禄元年(1592)に秀吉が指月に建てた「指月(しづき)伏見城」。2代目は、慶長元年(1596)の大地震で倒壊した指月伏見城に代わり、木幡山に場所を移して築かれた「木幡山伏見城」だ。

 この木幡山伏見城に、聚楽第から多くの建物が移築されたとみられる。木幡山伏見城の完成と城下町の整備により、伏見は大発展を遂げた。

 秀吉の没後は徳川家康が木幡山伏見城に入城したが、関ヶ原合戦の前哨戦によって落城したため、慶長7年(1602)に3代目の伏見城を再建した。現在、木幡山伏見城の本丸跡周辺に明治天皇陵がある。

 ちなみに跡地の一部にある天守風の建物は、昭和39年に伏見桃山城キャッスルランドが開園した際に建てられたもの。この場所に天守が建っていたわけではない。

■マンションと化した、秀吉の伏見城

 実は平成27年(2015)度、ライオンズマンション伏見桃山指月城の建設に伴う発掘調査で、秀吉が築いた指月伏見城らしき城が発見され大きな話題となった。長さ36メートルの石垣や大規模な堀、秀吉ゆかりの桐紋の金箔瓦が見つかったのだ。

 指月伏見城は、地震で倒壊した後はどこにあったのかも分かっていなかった。幻の城の、初の出土例というわけだ。同時期に秀吉が築いた、初期の大坂城本丸や聚楽第の工法とよく似ていることから、秀吉が築いた指月伏見城とみて間違いなさそうだ。現在は、マンションの西側に出土した石垣の一部が展示されている。

■さらに発見! 幻の「京都新城」

 京都では、令和2年(2020)にも世紀の大発見があった。秀吉が最晩年、京都御所の南東に築いたとされる城が確認されたのだ。史料が乏しく幻の城とされていたが、本丸を囲う石垣と堀、金箔瓦が初めて見つかり確認された。晩年の政権構想、死去後の政変を考える上での貴重な発見だ。

 城は、まだまだ解明されていないことが多いミステリアスな存在。天下人・秀吉の城ですら、ようやく物的証拠が発見されるほどなのだ。明日にも定説が覆るかもしれないのが、城のおもしろいところだ。

撮影=萩原さちこ

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 二条城をめぐる旅の模様は、 「文藝春秋」12月号 の連載「一城一食」に掲載しています。

(萩原 さちこ/文藝春秋 2020年12月号)

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