不純異性交遊が発覚して退学処分 北九州監禁連続殺人事件・松永太の“原点”とは

不純異性交遊が発覚して退学処分 北九州監禁連続殺人事件・松永太の“原点”とは

北九州監禁連続殺人事件をめぐる人物相関図

 起訴された案件だけで7人が死亡している「北九州監禁連続殺人事件」。

 もっとも凶悪な事件はなぜ起きたのか。新証言、新資料も含めて、発生当時から取材してきたノンフィクションライターが大きな“謎”を描く(連載第35回)。

◆◆◆

■公判内に松永弁護団によって述べられた松永の経歴

 松永太の経歴は、2003年9月3日の第6回公判で、松永弁護団が行った冒頭陳述で詳らかにされている。

 その内容については、検察側の甲号証(犯罪事実に関する証拠で被告人の供述調書等を除いたもの)に基づいたものが多くを占めるが、 前回 で紹介した〈出生から中学時代まで〉では、私自身が現地で取材した内容との乖離が見られた。これから取り上げる松永の経歴に関しても、あくまでも公判内で松永弁護団によってこのように述べられた、というものであることをお断りしておく。以下はその陳述内容である。

〈2 高校時代

(1)M高等学校時代(本文実名、以下同)

 ア 被告人松永は、高校入学後も、とにかく弁が立ちよくしゃべる生徒であったが、粗暴な面はほとんど見られなかった。指導要録によれば、1年時に指導性がAでその他はB評価であり、人望もあり、2年時には、生徒会の風紀委員長選挙に立候補して、当選を果たしている。

 イ 被告人松永は、目立ちたがり屋なところがあり、ある日、授業中にいきなり席を立って教室の隅で胡坐をかき包装紙を広げて切り分ける作業を始めたところ、これに気づいた教師が「何してるか。」と注意したのに対し、「ノートを忘れたからノートを作りよる。ノートがないと困るやろ。」と言い返したことがあった(検甲483号証3ページ)〉

 松永とM高校で同級生だったDさんは、当時行った取材で次のように語っている。

「いわゆる不良で、学校中から嫌われていました。途中で転校しましたが、在学中には刃物をげた箱に隠し持ったりするなど問題が多くて、本当かどうかはわかりませんが、『人を刺したことがある』と悪ぶってました」

 かつて松永の在学中にM高校で教えていた教諭もまた、いい印象は抱いていなかったと話す。

「松永のことはよく憶えています。大口を叩くタイプで、いきがるところがあり、あまりいい生徒ではありませんでした。『生徒会役員をすれば留年しないから』と、生徒会長選挙に立候補しましたが、票はまったく取れませんでした。その後、家出した女子中学生を自宅にかくまっていたと警察から連絡が入り、職員会議で退学処分が決まったんです」

 そのことについて、当時の福岡県警担当記者は付け加える。

「松永が退学になったのは、家出した女子中学生とのことだけでなく、じつは前にも何度か不純異性交遊などでの停学処分を受けていて、それらが重なったことで、ついには厳しい処分が下されたというのが真相です」

■「文章を書く力を発揮すれば大成する可能性あり」

 以下、ふたたび松永弁護団による陳述内容だ。

〈C高校時代

 ア 被告人松永は、不純異性交遊が発覚したことにより、3学年からC高校に転校となったが、転校後も学級委員(風紀)を担当し、成績評価は2ないし3と芳しくなかったものの(席次は18人中12番)、授業はまじめに受けており、教師や他の生徒と問題を起こすこともなく、持ち前の明るい性格で周囲への気配りもでき周りの生徒とも仲良くしていた。担任の先生から見ても、被告人松永は頭の回転が速く弁が立ち、文章を書かせたら他の生徒と比較にならないほどの出来栄えであり(検甲486号証2ページ)、指導要録には、協力性がAとされ、その他はB評価であったところ、所見欄に「最後は大変頑張った。根気強さに少々欠ける面あり。自分の能力(文章を書く力)を最大限に発揮すれば大成する可能性あり」と記載された(検甲476号証)。

?

 イ 被告人松永は、高3のとき誕生日を迎えると同時に自動車免許を取得し、父に、「友達が持っているから、自分も日産ローレルの新車がほしい。」と突然言い出し、当初反対であった父も根負けして、被告人松永にローンで普通乗用自動車を買い与えている(検甲493号証15ページ)。

?

 ウ 被告人松永は、昭和55年3月、C高校を卒業して福岡市内の菓子店に入社したが、「会社は同じことの繰り返しでつまらん。人に使われているようじゃ金儲けはできない。」と考え、勤め始めてから10日ほどで退職した。〉

■「女をカネづると思わな」の影響をモロに受け

 中学卒業後、松永が最初に進学した福岡県立M高校には、後に共犯者となる緒方純子も通っていたが、軟派な松永と真面目な純子との間に接点は見られない。高校に入った松永は、持ち前の甘いルックスと不良っぽい言動が受けて、急激にモテるようになったという。

 松永と小中学校の同級生だったCさんは、中学時代から松永の家に遊びに行くようになり、それは別々の高校に通っていた高校時代も続いていた。Cさんは高校時代の松永について次のように語る。

「あいつは本当に口が達者やったと。女の子にはマメに連絡を取るし、家に連れて来るまでのアプローチが上手いったい。それで同級生やら年下の女の子を部屋に連れ込んでは、見境なくコマしよった」

 両親があまり干渉しない松永の実家は、女性を連れ込んでも注意されないため、友人たちのたまり場になっていたという。そこでCさんは、以下のことを松永に話した記憶があると話す。

「あの当時、俺がよくいきがって『女を人と思っちゃいけん。女をカネづると思わな』って言いよったけんがくさ、その影響ばモロに受けて、松永は女に飯代ば払わせることにプライド賭けとったね。あと、あいつは極端にキレイな女の子には行かんったい。それよりはあんまりモテんで、自分に簡単になびくような子にばっか声をかけよったと」

■転校先の高校で本当の“デビュー”

 先に出てきた通り、松永は高校2年のときに、不純異性交遊の咎で退学処分となり、3年から久留米市にある私立C高校に編入した。

 C高校に入ってからの松永は、それまで以上に異性からモテるようになり、女出入りが激しくなった。また、自分が暴力団組員と繋がりがあるかのように装い、「俺に手を出すと酷い目に遭う」と口にして、同級生に信じさせていた。前出のCさんは語る。

「その前のM高校のときは、小中学校の同級生やら地元の人間がおったから、ハッタリばかませんやったと。だいたい子どもんときにどういう人間やったか知られとうけん、そこまでモテるいうこともなかった。やけどC高校は、あいつの過去を知っとお地元の人間がおらんし、あと見た目はあの通り良かったやろ。それでやんちゃなイメージを出して、急にモテるごとなったとくさ。それからが本当の“デビュー”いう感じやったわけよ。後になって、あいつはいろんな女を食いものにしてカネば得とろうが。そうするとが手っ取り早いて思うたとは、その頃の経験があったからやろうね」

 その昔、松永の自宅のある柳川市に隣接する町で暴走族のメンバーだったEさんも、C高校時代の松永を知るひとりだ。Eさんは当時を振り返る。

「久留米の駅前とかを通りかかると、向こうから挨拶してくるんよ。やけん、こっちも悪い気はせんやろ。いつの間にか顔見知りになっとったね。まあ、俺らと仲良うしとることで、まわりに対して、強がりよったっちゃない? あの当時、俺らは佐賀駅のそばにあるディスコにけっこう集まりよったとやけど、あいつはそこにもよう顔ば出しよったもん」

 1980年3月にC高校を卒業後、前出の福岡市内にある菓子店をすぐに退職した松永は、親戚の経営する布団販売店で働くなどしたが、そこも短期間で退職。父親が経営していた布団訪問販売業を手伝うようになる。

 翌81年5月頃、松永はみずからが実質的経営者となる布団訪問販売会社「ワールド」を設立。高校時代の同級生だった日渡恵一さん(仮名)や坂田昇さん(仮名)などを従業員として、布団の訪問販売を始めた。

■松永による布団訪問販売会社の実態とは

 松永弁護団による冒頭陳述では、この時期のことについて、次のように説明している。

〈当初は、被告人松永の父が筑豊地方に多数の顧客を有していたことなどもあって、1組35万円の布団を月に30組ほど売り上げて毎月1000万円近くの利益を上げ、その6、7割を純利益としており、1、2年は順調に売上げを伸ばしていった(検甲494号証6ページ)。被告人松永は、信販会社の担当者を自宅に食事に招待するなど接待して、「クレジットでなければ売れないから今後ともよろしくお願いします。」と頼みつつ、そうした酒席で周囲の者に、「今は小さな布団屋だけど、そのうち必ず福岡一になってみせる。」などと吹聴していた(検甲435号証10ページ)。〉

 一方で、検察側が冒頭陳述ならびにその後の補足説明によって明かした“ワールドの経営の実態”は異なっている。以下、福岡地裁小倉支部での公判の判決文に取り上げられた〈松永によるワールドの経営とその実態〉という箇所から抜粋する。

〈松永は、従業員らに指示し、親戚や知人に電話をして面会し、「会社が潰れそうなので助けてくれ。」などと頼み込んで泣き落としたり、これを断られると因縁を付けて脅したりして、高価な布団を強引に売り付けさせた。松永は、このような強引な方法で、従業員の親戚や知人等に対し、代金回収の見込みの有無に関わらず高額な寝具を購入させて販売実績を伸ばし、設立後1、2年間は毎月1000万円くらいを売り上げた。しかし、寝具を購入させる親戚や知人等が乏しくなり販売実績が上がらなくなったことや、顧客のローン又は立替金の支払いが滞り信販会社から加盟店契約を解除されたことなどから、昭和59年(84年)ころからワールドの経営は傾いた。〉

■担当者の弱みをビデオに撮影して……

 同判決文では、松永が信販会社の担当者に対して行っていた所業についても触れられている。

〈また、松永は、ワールドと加盟店契約を締結していた信販会社の柳川営業センター所長であった××(実名)を、頻繁にワールドの事務所に呼び付けて接待し、昼間から飲酒させてその姿を写真やビデオに撮影して弱みを握り、××に対し、「写真を本社に送る。」などと脅した上、同信販会社がワールドの顧客の信用審査を甘くしたりワールド関係の信販契約の決裁を早くしたりするように働きかけた。〉

 この両者の主張に対し、福岡地裁小倉支部は、判決文の〈量刑の理由〉のなかで、ワールドについて〈強引な商法で一時は売り上げが伸びたが、行き詰まり、昭和59年ころから資金繰りが苦しくなった〉との表現で、後者の検察側主張を支持している。

 兎にも角にも、社会人となり独立した松永の傍若無人な性格は、このワールドの設立によって、より顕在化することになる。

(小野 一光)

関連記事(外部サイト)