「負けた対局の悪夢が…」なぜ東大将棋部にとって団体戦「王座戦」の優勝が悲願なのか

「負けた対局の悪夢が…」なぜ東大将棋部にとって団体戦「王座戦」の優勝が悲願なのか

藤岡 隼太(ふじおか はやた)1997年生まれ。愛媛県松山市出身。私立愛光学園中学・高校卒業。1浪して東京大学理科2類合格。2019年東大将棋部主将。現在は農学部応用生命化学工学専修4年生で、放射線を用いた植物の研究をしている。1年生のときに、学生名人と学生王将の学生二冠を達成。競技かるたのサークルにも所属し、A級五段、国内ランキング40位という強豪。大学院に進学予定で、将来は農林系のキャリア官僚を志望している

 将棋はプロだけのものではない。多くのアマチュアがそれぞれの立場で将棋に打ち込んでいる。中でも大学将棋は、団体戦を重視する独特の文化を持ち、オーダーなど戦略を練りながら戦っている。

 今回、大学将棋トップの一角、東京大学将棋部の3代の主将を取材した。元奨励会5級で、3年前の朝日杯将棋オープン戦では藤井聡太二冠と対局した経験もある4年生の藤岡隼太さん。元奨励会2級で、藤井二冠の兄弟子でもあった3年生の伊藤蓮矢さん。そして、今年の朝日杯でプロ相手に3勝を挙げた2年生の天野倉優臣さんの3人だ。

 まずは、コロナ禍で行われた全国大会出場をかけた戦いと、藤岡さんが同じ将棋センターで育った、黒田尭之四段、山根ことみ女流二段とのエピソードを紹介する。(全6回の1回目、 #2 へ続く)

◆ ◆ ◆

■大学将棋の「王座戦」といえば

 換気のために開けた窓から入った風がブラインドを揺らす。東京大学将棋部の主将、伊藤蓮矢さんは将棋大会の会場でコートを着た。2020年12月6日、関東の7大学の将棋部が団体戦の全国大会「王座戦」の切符2枚を争うために集まった。

 例年なら、もっと多くの大学が応援の部員も含めて集まるから、会場はごった返し、冬でも暑いくらいだ。今年は感染防止のため、出場校数も1校あたりの入場人数も厳しく制限され、「密」になっていない部屋は少し寒かった。

「王座戦」というと将棋ファンは永瀬拓矢王座がタイトルを持つ、プロ棋戦を思い浮かべるだろう。しかし、大学将棋に関わった者にとって「王座戦」は、年末(今年は12月25〜27日)に三重県四日市市で行われる7人制の大学対抗の団体戦だ。正確には「学生王座戦(全日本学生将棋団体対抗戦)」。大学将棋は団体戦が重視され、7人という層の厚さが必要になる王座戦は多くの大学が最大の目標に掲げる。

 プロの団体戦はAbemaTVトーナメントが人気を博したけれど、もともと団体戦はアマチュアの文化。チーム全員が横に並んで相手チームと一斉に対戦する。

■自分の時間を使い切ったら負け

 この日は7チームのトーナメント戦。8チーム参加の予定だったが、1校は大学から対外試合の許可が出ず棄権。東大は準決勝で東京工業大学に5−2で勝って王座戦出場を決めた。決勝は、関東で最大のライバル早稲田大学だ。準決勝と決勝の間に、運営を担当する学生が盤駒に消毒液をかけて拭いた。

 その間、東大チームは14人の登録メンバーのうち、どの7人を決勝に出すか相談。「副将が伊藤、三将が天野倉。相手のエースもこの辺に出てくるから、そこで勝とう」「1年生も出しておきたいから……」。小声なのは感染対策ではない。一方的にオーダーを知られたら、相手校に有利なオーダーを作られてしまうからだ。対局5分前。伊藤さんはコートを脱いで、ブルーのシャツの袖をまくった。この日は、対局時間も例年より大幅に短くなって「25分切れ負け」だった。少しでも動きやすいほうがいい。

 決まったオーダーは両チーム同時に開示し「大将・藤岡4年、副将・伊藤3年……」と読み上げ、誰と誰が対戦するか、オーダー表に書き込んでいく。大将から七将まで席につくと、運営の学生が一人ずつ手に消毒液を吹きかけた。そして一斉に対局が始まった。向かい合う東大生と早大生の間には、下が15センチ開いた透明の仕切りが置かれていた。

「切れ負け」は将棋ウォーズと同じく自分の時間を使い切ったらあと1手で詰みだろうが負けだ。最後は、どの対局も時計の叩き合いになり、4−3で早稲田の勝ち。朝日杯将棋オープン戦でプロ相手に3勝を挙げた東大将棋部部長の天野倉優臣さんは逆転負けだった。

「エース対決を落とし、チームが負けてしまい責任は痛感しています。でも、『今日は切れ負けだったし気にするな。王座戦で頑張ろう』と伊藤さんに言われましたし、チームに暗さはありません」(天野倉さん)

■早稲田に勝って王座戦優勝が悲願

 2019年、東大は関東第1代表として王座戦に出場したが、第2代表だった早稲田が優勝して、東大は準優勝だった。昨年の東大将棋部主将で、1年生の時には朝日杯で藤井聡太四段(当時)と対戦して有名になった藤岡隼太さんは、「早稲田に勝ちたかったけれど、終わってから『昨年の王座戦は第1代表で最終日の当たりがきつかったので、むしろ第2代表のほうが戦いやすい』と言ったメンバーもいました」。早稲田に勝って王座戦優勝が東大将棋部の悲願だ。

 2019年の年末から年始にかけて、藤岡さんは何度も悪夢にうなされた。早稲田戦で負けた自分の対局が夢に出てくるのだ。久しぶりに愛媛の実家に帰ってきたというのに眠れない。自分が勝てれば良かったのに。強いメンバーがそろっていたのに。自分の負けが団体戦の負けにつながった時、苦い思いは消えない。昨年の王座戦は12月26日から28日の3日間にわたって行われ、早稲田大学との対戦で藤岡さんは敗れた。投了して天を仰いで涙を流す藤岡さんのアップは、NHK将棋フォーカスの大学将棋特集で放送された。

 この年、秋まで大学将棋界は“東大の年”だった。関東地区の団体戦リーグでは春秋とも早稲田大学を抑えて優勝、9月には5人制の団体戦全国大会・富士通杯で優勝。個人戦でも1年生だった天野倉さんが、6月の学生名人戦と王座戦の前日に行われた学生王将戦(十傑戦)で優勝し、学生二冠に輝いた。

■勝敗を分かつオーダーの読み

 王座戦に出られるのは、北海道、東北、北信越、中部、中四国、九州地区から各1、関東と関西から各2の10大学。昨年は関東の東京大学と早稲田大学、関西の立命館大学と京都大学の上位争いになった。10校総当たりリーグ9回戦を「持ち時間40分切れたら60秒」というアマにしては長い持ち時間で1日3回戦。チームの勝ち数で順位を競うが、同じ場合、個人勝ち数の合計が多いほうが上位となる。

 大会3日目に行われた7回戦、東大は早稲田と対戦。6回戦まで6戦全勝同士、ここで勝てば大きく優勝に近づく。東大と早稲田が3人ずつ勝ち、残り1局は千日手2回で引き分け、チームも引き分けとなった。アマ大会では千日手を指し直す時間はないから、引き分けと決めているケースもある。残る8、9回戦は下位の大学との対戦だった早稲田に対し、東大の相手は立命館大と京都大。チームが勝てたとしても、個人の勝ち数で早稲田に及ばない可能性が高い。動揺する東大メンバー。7人全員勝てば優勝の目もあった次の立命館戦は、3−4で負けてしまう。

「あれで優勝の目が完全に消えてしまいました。立命館戦では7人をどう出してくるかというオーダーの読みも大きく外してしまい、主将だった自分のせい」(藤岡さん)

 一方の早稲田大学は、8回戦、9回戦とも7人全員が勝ってきっちり優勝を決めた。

■山根ことみ女流二段が将棋を始めるきっかけに

 藤岡さんは黒田尭之四段、山根ことみ女流二段を輩出したことで知られる名門道場、松山将棋センターに小学2年生のときから通って腕を磨いた。黒田四段は1歳上で、山根女流二段は同級生。実は、山根女流二段が将棋を始めるきっかけを作ったのは藤岡さんだ。

 2007年、各県の将棋の強い小学生3人と中学生2人を集めた5人チームで行われていた「文部科学大臣杯 小・中学校将棋団体戦」が、同じ小学校、中学校の3人の学校別団体戦に変更された。さまざまな将棋普及策を打ち出した故・米長邦雄永世棋聖が日本将棋連盟会長を務めていたときのことで、各学校で将棋に興味を持ってもらうことや、チームを作るために同じ学校の友達を誘って将棋の輪が広がることを期待しての改革だった。

 松山将棋センターには藤岡さんの他、同じ小学校に通う有段者がもう1人いた。あと1人いればチームができる。4年生だった藤岡さんは同じ学校の男子に何人も声をかけたが、一緒に大会に出てくれる子は見つからない。次に声をかけたのが「こっちゃん」と呼んで3歳の時から一緒の送迎バスに乗って幼稚園に通っていた幼馴染の山根ことみさんだった。

 この年は山根さんの他の習い事と重なってしまい、他の子とチームを作って県大会に出た。山根さんは習い事が終わってから応援に来てくれた。そこでプロ棋士の指導対局を受けた山根さんは興味を持ち、松山将棋センターに通うことになった。

「そうしたら山根さんは将棋にのめり込みました。自分も熱心に将棋センターに通っていたけれど、山根さんは朝から晩までほとんど毎日。本当に将棋が好きになったんだと思いました。将棋はどれだけ時間をかけるかが大事なので、当然どんどん強くなりました。そんなに夢中になるなんて、びっくりしました」

■「山根さんは大会経験が少ないのに、安定して力を出せた」

 藤岡さんが五段弱、もう1人が三段弱、そこに棋力を急上昇させる山根さんが加われば、翌年は全国制覇も夢ではない。松山将棋センターを主宰し、名指導者としても知られる児島有一郎さんの指導にも熱が入った。

「山根さんはメンタルも強いんです。もう1人の子は年下ということもあって、三段の力を出し切れず負けることがありました。でも、山根さんは大会経験が少ないのに、いつも安定して力を出せた。すごく頼りになるチームメイトでした」

  翌2008年の文部科学大臣杯 、5年生だった藤岡さんと山根さんの松山市立双葉小学校チームは愛媛県大会と大阪での西日本大会、そして東京での全国決勝大会を勝ち抜いて全国優勝を果たす。藤岡さんは県、西日本、全国と全勝、山根さんは全国の決勝で格上の相手に1敗しただけであとは勝ちだった。山根さんは1年で初段まで腕を上げていた。

「自分がエースだから、負けたら終わりだと思っていました。自分が全勝して全国制覇できてすごく嬉しかったし、大きな自信にもなりました。山根さんにとっても自信になったようで、それも嬉しかったです」

 山根さんは、それから多くの大会で全国区の活躍をし、女流棋士への道を歩んでいく。

 全国大会で優勝し、アマとして活躍し、将来を期待される人気女流棋士となる山根さんを将棋の道に誘った藤岡さん。将棋の輪を広げることを期待される文部科学大臣杯で、ここまでの成果を上げたのは、藤岡さんをおいて他にいないだろう。

「文部科学大臣杯が米長会長時代の改革というのは知りませんでした。学校別の3人の団体戦に変更にならなければ、山根さんを誘おうとは考えなかったでしょうね。米長先生は一番好きな棋士だったので、それを聞いて嬉しいです」

■一歩先を行く存在だった黒田四段

 もう1人、藤岡さんと深い関わりのある棋士、黒田四段の話をしよう。

 1学年上の黒田さんは、常に藤岡さんの一歩先を行く存在だった。「黒ちゃん」と呼んで慕っていたが、勝たせてはもらえない。小学生のメジャー大会、小学生名人戦でも、倉敷王将戦でも、藤岡さんは黒田さんに決勝で敗れ、愛媛県代表になれなかった。黒田さんが卒業してやっと両大会とも愛媛県代表になることができた。小学生名人戦全国準優勝など全国区の強豪だった黒田さんは、小学校6年生で奨励会に入る。藤岡さんは、「自分も」と思いつつ、両親の反対もあり迷っていた。成績優秀だった藤岡さんは、四国一と言われ、地元松山市にある名門私立中高一貫校の愛光学園を受験するべく学習塾にも通っていた。

 小6の初夏、鈴木大介九段を招いてのイベントが松山で行われ、藤岡さんは強豪小学生として駒落ちで席上対局をした。打ち上げの食事の席で藤岡さんは奨励会受験を迷っていることを鈴木九段に話した。「好きなことで食っていける。これほど幸せなことはない」と背中を押す答えが返ってきた。将棋が好きだ。やっぱりプロになりたいと思った藤岡さんは両親を説得し、その夏の奨励会試験を黒田四段と同じ畠山鎮八段門下で受験して合格する。翌月から、黒田さんと一緒に大阪の関西奨励会通いが始まった。

■はるばる大阪まで来て、負けるとつらかった

 愛媛から大阪は遠い。松山から東予港まで長距離バスで行き、夜10時に出発するフェリーに乗る。大阪南港に着くのは早朝6時。そこから大阪市の関西将棋会館に向かう。黒田さんが一緒なのは心強かったものの、フェリーでは眠れなかった。帰りは新幹線で岡山に出て、そこから特急しおかぜに乗り瀬戸大橋を渡って夜遅く松山に着くこともあれば、帰りもフェリーで翌朝に着くこともあった。そしてすぐに学校に行く。

「黒田さんには、奨励会のことをいろいろ教えてもらいましたし、帰りの電車やフェリーでその日指した将棋を見てもらったりして、お世話になりました」

 藤岡さんは奨励会ですぐに7級に降級する。はるばる大阪まで来て一生懸命指しても負けると、帰りのフェリーが辛くて仕方ない。将棋が楽しいという気持ちを忘れ、辛い思いで対局に臨み、思い切った手が指せなくなり、また負けるという悪循環だった。愛光学園中学には入学できたものの、学業も振るわなかった。

■「絶対にプロになるという強い覚悟が君にはない」

 首都圏と違い、愛媛から奨励会に入る少年は多くない。黒田さんにも藤岡さんにも、プロになって愛媛の将棋界を盛り上げて欲しいという期待がかかる。松山将棋センターで育った1歳違いの2人は、よく比べられた。

「絶対にプロになるという強い覚悟が黒田君には感じられるけれど君にはない。だから勝てないんだ」

 将棋センターに通うアマ強豪には、こんなことを言われることもあった。

「黒田さんの意志の強さは自分も感じていました。それに比べて自分は、趣味の延長で将棋をやっていて、将来の職業にするという覚悟が足りなかった」

 6級に復帰して5級に昇級、成績のほうはやっと上向いていたけれど、中2の春に藤岡さんは退会を決意する。

「師匠の畠山先生には、あと1年くらい頑張ったらどうかと言われました。でも、黒田さんに退会の決意を伝えると『そうか』と言われただけでした。児島先生も同じような感じで、2人には、自分に覚悟が足りないことを見透かされていたと思います」

 最後の奨励会例会では「1年半お世話になりました」と挨拶をして、「もう二度と足を踏み入れることはないだろう」と思いながら関西将棋会館を後にした。松山将棋センターからも離れ、すっぱり将棋を辞めた。

■自分にできなかったことだから

 藤岡さんが東大3年に進級するころ、黒田四段はプロ昇段を決めた。その三段リーグ最終日の夜遅く、松山から上京していた恩師の児島さんから「黒田君のお祝いにこれから飲もう」と突然電話がかかってきて、藤岡さんは駆け付けた。

「黒田さんは、僕と一緒に奨励会に通っていたころから、ずっと努力していて絶対プロになると感じていました。嬉しくて心からおめでとうを言い、朝まで飲みました」

 黒田四段のことも、山根女流二段のことも、中継を見たりしてずっと応援している。

「2人とも将棋の道を究めようとして、努力して結果も出している。プロはこうあるべきということができていると感じるし、自分にできなかったことだから尊敬しています」

写真=末永裕樹/文藝春秋

藤井聡太四段にプロ公式戦で挑んだ学生名人は「オーラが強烈でした。気圧されました」 へ続く

(宮田 聖子)

関連記事(外部サイト)