「好きな男のものを好くのは…」淫蕩痴戯の限りを尽くし愛戯の果ての惨殺 裁判で語られた美女の振り切れすぎた告白

「好きな男のものを好くのは…」淫蕩痴戯の限りを尽くし愛戯の果ての惨殺 裁判で語られた美女の振り切れすぎた告白

初公判の報道もすさまじい

「返してください」切り取った“男性”に執着し続け…妖艶な“情痴の女”はどのようにして生まれたのか から続く

■「女が好きな男のものを好くのは当たり前のことだと思います」

 予審調書のポイントは第6回尋問での定の答えだろう。

「石田と別れるのが寂しいので、石田のシャツを着たり(中略)異常なことをしてしまいましたので、そんなことで世間から変態のように言われたのが悔しゅうございます」「私が変態性欲者であるかどうかは、私の今までのことを調べてもらえばよく分かると思います。今までどんな男にも石田と同じようなことをしたわけではありません」「私のことは世間にあからさまになったため、面白半分に騒がれるようですが、女が好きな男のものを好くのは当たり前のことだと思います」「今度の私がやったようなことをしようと思う女は世間にいるに違いないのですが、ただしないだけのことだと思います」

 これを変態とみるか、愛の極致と捉えるかで事件と阿部定の意味は180度変わってくる。

■「全国民待望の大公判」に徹夜組も

 1936年11月25日、初公判。当日付東朝朝刊には「霜に結ぶ幻の夢 “お定病”患者群」の見出しの記事が。「傍聴券を狙って十数人もの篤志家がこの寒空に徹夜の陣を張った。しかもお定ならぬ紅一点をさえ交えて……。『近頃では共産党大公判、血盟団、五・一五事件以来のこと。帝人(事件)公判もかないませんね……』と守衛さんも微苦笑」。

 森長栄三郎「史談裁判」によれば、開廷にあたって、裁判所書記は傍聴人に「意外な質問、応答または状態が発生するかもしれないが、決して笑ったり拍手したりしてはいけない」と訓示。司法メディアはそれを「傍聴人興奮禁止令」と詠んだという。

 そして26日付(25日発行)夕刊は各紙大々的に報じた。

〈これこそ全国民待望の大公判(?)だ。“お定の顔が見られる!”“お定の声が聞かれる!”。ただそれだけですっかり興奮をさらって、猟奇の極致を行った阿部定の妖しい魅惑が奇を好む群集心理に直射して未曽有の人気を呼んだが、それにしてもすさまじい。25日午前9時半開廷の予定というのに、その前夜7時ごろから詰め掛けた傍聴志願者は妙齢の婦人も交えて、霜降る夜を裁判所門前に頑張り、午前5時には早くも一般傍聴人150名の定員を突破してしまい、この勢いに驚いた裁判所では早速の機転で午前5時30分、一般傍聴人を締め切って入場させてしまった。殺到する群衆をシャットアウトする鮮やかな遮断戦術で、いまだかつてないことだ。(読売)〉

■「以後、風俗を害する恐れあり」裁判長の傍聴禁止命令

 東日と読売は定の裁判長との一問一答を詳しく記述。予審調書と特に違った内容はないが、裁判長に「芸妓には自分から好きでなったのか」と問われ「自分から好きではありませんでした。させられたのです」と答えた。

 さらに「どんな男が好きか」という尋問には「女に優しい男が好きです」と答え、「心中してもいいと思ったのは石田さん一人だけでした。でも、石田さんはそんな気がなかった」と言い切ったのが目立った。

 大宮校長に更生するよう諭されたときも「被告の体は男なしではやっていけないようになっていたのではないか」と言う裁判長に「そうです」と答えたのに東日は「“お定イズム”披露」の見出しを付けた。

 吉蔵とのなれそめを述べ、いよいよ5月11日からの「まさき」での2人の行動について陳述が及ぶと、裁判長が「以後、風俗を害する恐れあり」として傍聴禁止を命令。

 その後は、「日が暮れて鈍いシャンデリアでは足りず、お定の立つ被告席の前には数本の裸ロウソクが立てられたが、愛戯の果て情人を殺す血なまぐさい場面に及んでは、妖艶の気が法廷を包み『あの時は愛着のあまり独占したい一念からあんなことを致しましたが、今では気の毒なことをしたと後悔しています。これからは一意石田の菩提を弔いたいと思います』と、しんみり女らしい心境を述べたと伝えられる」と読売は報じた。

■「締めるなら途中で手を放すなよ。後がとても苦しいから」

「まさき」(実際は変体仮名で判決文もそうなっているが、「満佐喜」と表記したものも多い)では、密室での吉蔵との性愛の営みの中で定に殺意が生まれ、自分の着物の細ひもで吉蔵の首を絞めて殺害。事前に買って隠してあった牛刀で切り取り、傷つけたことは予審調書でも公判でも隠さず陳述した。ひもで首を絞めたのは2人の間の性技で、事件前日にも定がそうしたため、吉蔵の首や顔にその跡がひどく残った。

 そして18日、連日連夜の“情痴”の疲れから吉蔵は眠そうにしていたが、「そのうち『お加代(吉田屋での定の名)、俺が寝たらまた締めるだろうな』と言いました。私が『うん』と言いながらニヤリとすると、『締めるなら途中で手を放すなよ。後がとても苦しいから』と言いました」(予審調書)。

 会話は不気味で、どんな意味なのか考えさせられ、予審調書の中でも最もミステリーとして残る部分だ。

 定は「その時、私はこの人は私に殺されるのを望んでいるのかしらと、ふと思いましたが、そんなはずのないことはいろいろのことから分かりきっていましたから、もちろん冗談だとすぐ思い直しました」と述べている。

 しかし、5月22日付東朝朝刊での「あの人も喜んでくれているでしょう」という発言を考えると、実際にそう思っていた可能性は強いのではないだろうか。「どてら裁判」には、その「証拠品」が傍聴禁止の法廷で定の前に示されたときのことが書かれている。「『被告人はこれを見てどう思っているか』と尋ねると『非常に懐かしく思っております』と答えた」。

 予審調書や手記を見ていくと「まさき」での2人はどんどん“魔界”に入って行っているように感じられる。「婦人公論」1936年7月号で、歌人・原阿佐緒と不倫問題を起こした物理学者・歌人の石原純はこう述べている。

「恋愛観が強く燃焼する場合」「生活が無視せられ、そしてひいては人格消滅にさえ導かれてしまうのである」。

■「著しき性的過敏症(淫乱症)を有する」

 同年12月8日の第2回公判で検察側は「石田は殺されるとは夢にも思っていなかった」と断定。定の性格を「強烈なる独占欲があり、これを満足せねばやまぬという衝動の持ち主である」「改悛の情さらに認められるべきものなく」として懲役10年を求刑した。

 公判に提出された村松常雄・東京帝大(現東大)医学部講師による定の精神鑑定(内村祐之・吉益脩夫「日本の精神鑑定」所収)は「生来性変質性性格異常が幼児よりの環境によりて甚だしく助長せられたるものにして精神的及び身体的にヒステリー性特徴を呈し、かつ著しき性的過敏症(淫乱症)を有するものなり」とし、心神喪失や心神耗弱(こうじゃく)を否定していた。

 東朝によれば、竹内金太郎弁護士が「自殺ほう助か過失致死として律するべきだ」と主張。「今はすっかり悔悟。本人は吉蔵さんの菩提を弔いたかろう。尼さんにでもなりたかろう」と述べ、被告席の定はさめざめと泣いたという。

■下された判決は…

 判決は同年12月21日。またも“お定マニア”の傍聴希望者が前夜から雪の中、徹夜していた。東朝は22日付(21日発行)でその天気にひっかけて「霙(みぞれ)降る日・温い判決」の見出し。

〈(阿部定は午前)10時55分、数名の看守に守られながらポンポンするフラッシュの中をくぐり、地下道から出廷する。左手に包帯をし、右手にハンカチを持って被告席に立つ。かくて同57分、細谷裁判長は陪席判事、酒井検事らと入廷。直ちに開廷を宣言し、荘重な口調で「被告に対する殺人、死体損壊罪について判決を言い渡す」とて、「主文」を後にし、約30分にわたり長々と判決理由を朗読した後、お定に対し懲役6年(未決通算120日)の判決を言い渡し、将来を懇々と戒めた。

お定は検事の求刑10年に比してあまりに軽かったので、静かに裁判長を見上げたが、裁判長は「よいか、よく分かったか」と諭し、7日間に控訴できることを伝えると、お定は目に涙をたたえ、声を震わして「上訴権を放棄します」と即答。裁判長はなおも「それでよいか、後悔することないか」と念を押すと、お定ははっきり「ございません」と言い切る。裁判長は書記にその旨を命じ、さらにお定に向かって「体を丈夫にして……。裁判所の言うことをよく身につけて真面目にやらなければならんぞ。それから、刑務所を出る時は、営業的痴漢という馬鹿者がいて被告を利用せんとするから、そんな馬鹿者には引っかからぬように気をつけなくてはならぬ」。出所後のことまでこまごまと注意すると、お定は「それはよく分かっております」。「それでは体によく気をつけて……。帰ってよろしい」。お定は何度もいんぎんにお辞儀をして、また多数の看守に守られて11時30分退廷した。〉

 判決が犯行当時の定の心神耗弱を認めたのが減刑の主な理由だった。

■「名文ではあったが…」各新聞も取り扱いに困った判決理由書

 判決理由書は、一部を取り上げてみても「淫蕩痴戯の限りを尽くし、互いに陶酔したるか、被告人は吉蔵の右痴戯などに対し、かつて経験したることなき強き愛恋執着を感じ、吉蔵もまた被告人に対する愛欲の絆断ちがたく……」などとなっており、「名文ではあったがエロチシズム横溢。各新聞も取り扱いに困ったというエピソードが残っている」(戸川猪左武「素顔の昭和 戦前」)。

 事実、各新聞も掲載せず、代わりに裁判長の「訓戒」を載せた。

「本件が一般社会の注目の焦点となり、かつ喧伝されるゆえんのものは、殺人行為にあらずして、むしろ死体損壊及び、その後の行動の特異性である」と指摘。定が自分の不利益になることも極めて率直かつ積極的に述べたことを評価し、人命尊重や社会的に悪影響を及ぼしたことは重大だが、さまざまな事情を除外して過酷に鞭打つことは当を得ていない、とした。最後に「自省自戒かつ自己の習癖の矯正にさらに一層の努力を」と求めた。

■「ショセン私は駄目な女です」

 法廷での発言通り、定は控訴せず刑が確定。手記によれば、同年12月26日、栃木女囚刑務所で服役を始めた。冬は寒さで過酷だったようだが、1940年の「皇紀2600年」の恩赦で減刑され、1941年5月、刑期を終えて出所。その後は名前を変えて暮らし、ある男性と同棲。戦中、戦後はひっそりと世に隠れて過ごした。

 しかし、1947年7月、折からの「カストリ雑誌」ブームに乗って、木村一郎「昭和好色一代女・お定色ざんげ」という本が出版された。「これは単に一編の小説」と「序」にあり、予審調書が基になっているが、阿部定は「ウソだらけの、私を侮辱し、吉蔵をかわいそうなエロ男に書いてあり」(手記)、「とても耐えられない」として著者と出版社を名誉棄損で提訴した。そのことから“正体”が明るみに出て同棲相手は去った。

 その後は本名で劇団の座長となり、事件を題材にした舞台に主演。作家・坂口安吾と対談したり、映画に出演したりした。東京・上野の小料理屋の女中頭やおにぎり屋の女将などを務めた後、千葉県市原市の知人のホテルにいたが1974年、「ショセン私は駄目な女です」という書き置きを残して姿を消す。

 その後、浅草の旅館に1980年までいたというが、「ちょっと行ってくる」と言い残してどこかへ消えた。井出孫六「時代の気流を変えた阿部定事件」=「東京歴史紀行 昭和史の現場を歩く」(「エコノミスト1986年4月号)=は「I市の老人ホームに生き続けていることを僕は伝え聞いた」と書いたのが足どりの最後の情報か。最近まで足どりを追っていた人もいたが、結局つかめなかった。もし生きていれば115歳だが……。

■「記者も読者もなにかホッとした気持ちがした」

 阿部定事件は同年の「二・二六事件」と絡めて論じられることが多い。

 池島信平「雑誌記者」は「あの事件があった時は、あたかも二・二六事件の物情騒然たるときで、われわれは毎日暗澹(あんたん)として日本がどうなるかと思っていた。そのときにたまたまこの情痴事件が起こったのであるが、これを追いかけている新聞記者諸君も、われわれ読者も、その間になにかホッとした気持ちがしたのを覚えている」と書いている。

「軍国主義の風潮が社会を重く覆っていたから、世間の人々は格好の息抜きとしてこの事件に飛びついた」としたのは下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」。

 加太こうじ「昭和犯罪史」阿部定事件の項はこう述べる。

〈二・二六事件はあっけなく終わったが、それからは国民の間に不安な気分が漂い始めた。今のままで日本はいいのか、世の中は矛盾している。このままでは日本はもっと大きな戦争を始めるのではないか、というような不安だった。それゆえ為政者は国民の気分を転換させる方法はないかと思っていた。折から5月中旬にこの阿部定事件が起きた。為政者の意を体した新聞は、その記事をセンセーショナルに扱った。普通ならそれほど大騒ぎにならなくてもすむような情痴の末の事件が、のちの世までの語り草になってしまったのだと思える。その点では、阿部定という女性はジャーナリズムの犠牲者だったともいえよう。〉

■定が体現した「江戸趣味」「江戸情緒」の最後の残照

 しかし、人々が事件と阿部定の記憶を脳裏に深く刻み付けた理由がほかにもあると思う。その1つは、鬼熊事件とも共通する疾走感だ。

 定は吉蔵と待合では流連するが、いったん外に出ると、その移動はすさまじく速くめまぐるしい。捜査陣も後を追えないほど。そして逮捕されれば、全く否認したり言いよどんだりすることなく、全てをぶちまける。裁判でも控訴はしなかった。その疾走感が、たとえ犯罪であっても一種の爽快感を生んでいる。

 さらに言えば、鬼熊も阿部定も無関係の人に迷惑をかけていない。もっと重要なのは、彼女に社会的な背景が希薄なことだ。あの時代、遊廓や赤線などの「苦界」に身を沈める女性の多くは、凶作で身を売るしかなかった貧しい農村出身者だった。しかし、阿部定が芸者になったのは貧困からではない。そこに阿部定の軽さ、明るさがある。

 性格がルーズでうそつきで浪費癖があるが、損得勘定がない。神田生まれのちゃきちゃきの江戸っ子。1936年5月20日付東朝朝刊は、逃走中の定が2回目に“変装”した古着店の「着物の着こなしが粋で実にうまく、私たちなら小一時間かかるものを5分ぐらいでスルリと着替えました」という談話を載せている。吉蔵がいったん吉田屋に帰っている間に、一人で芝居も映画も見ている。

 現場の尾久も含め、彼女が動いた大半は下町。江戸時代からの文化は関東大震災で薄れたものの、まだこの昭和10年代初頭はぎりぎり残っていた。それが日中全面戦争から続く太平洋戦争で失われる。事件を彩ったのは、阿部定が体現した「江戸趣味」「江戸情緒」の最後の残照であり、人々は定に懐かしい下町の風景を重ねていたのではないだろうか。

■「阿部定」が無意識に人をひきつけ続ける理由

 阿部定と阿部定事件は今でもテレビに登場するなど、人々の間にひそかな関心が保たれている。

 清水正・編「阿部定 学生と読む阿部定予審調書」(1998年)は、日本大芸術学部教授の著者が1989年から10年間、授業で学生たちに調書を読ませ、その感想リポートをまとめた本だ。そこには、60年以上前の猟奇事件とその「ヒロイン」から感じ取った思いがつづられている。

「なんて正直に生きているんだろう」「刹那を生きた人」「一瞬を永遠にしたかった」「究極の愛の形の一つにすぎなかった」「寂しい女性だと思えてきた」……。

 1人の女子学生は、定を援助交際をしている現代の女子高生(JK)と比較してこう書いている。「おそらく、阿部定という女性が現代でもなおクローズアップされるのはそこだろう。今一番元気のいい女子高生とクロスするからこそ、私たちは無意識に(定に)ひかれるのだ」。

 当たっているかどうかは別だが、愛とは何か、死とは何かは時代を超えた永遠のテーマであり、阿部定事件はそれを強く考えさせる出来事だった。

【参考文献】
▽細谷啓次郎「どてら裁判」 森脇文庫 1956年
▽粟津潔・井伊多郎・穂坂久仁雄「昭和十一年の女 阿部定」 田畑書店 1976年
▽内村祐之・吉益脩夫「日本の精神鑑定」 みすず書房 1973年
▽堀ノ内雅一「阿部定正伝」 情報センター出版局 1998年
▽戸川猪佐武「素顔の昭和 戦前」 角川文庫 1976年
▽池島信平「雑誌記者」 中央公論社 1958年
▽加太こうじ「昭和犯罪史」 現代史出版会 1974年
▽下川耿史「昭和性相史 戦前・戦中篇」 伝統と現代社 1981年
▽清水正・編「阿部定 学生と読む阿部定予審調書」 D文学研究会 1998年
▽森長栄三郎「史談裁判」 日本評論社 1966年
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(小池 新)

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