タレントと家族ぐるみの“愛人契約”…政界・芸能界とも密につながっていた「裏金王」の知られざる正体
2021年01月05日 07時00分 文春オンライン

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一般には知られていない中堅ゼネコンの社長にもかかわらず、永田町では知らぬ者のいない有名人だった男が2020年12月17日に帰らぬ人となった。その男の名前は水谷功。小沢一郎事務所の腹心に次々と有罪判決が下された「陸山会事件」をはじめ、数々の“政治とカネ”問題の中心にいた平成の政商だ。
彼はいったいどのようにして、それほどまでの地位を築き上げていたのか。ノンフィクションライター森功氏の著書『 泥のカネ 裏金王・水谷功と権力者の饗宴 』を引用し、芸能界でも幅を利かせていた男の知られざる正体に迫る。(全2回の1回目/ 後編 を読む)
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■札束が乱舞するカジノ付きディナーショー
02年から05年にかけての水谷功は、ゼネコン業界において特異なポジションを築いたといえる。まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いに乗っていた。裏金づくりに利用するカジノ賭博は、当人の趣味でもある。取引先の幹部を集めては、カジノツアーを企画した。カジノツアーは、建設工事における元請け業者の接待目的のときもあれば、裏金調達の手段に用いる場合もある。頻繁に訪れていたのが、東アジアのマカオや韓国だ。
マカオや韓国は飛行機で数時間という近距離だから、遊びやすい。週末の金曜日に現地入りし、カジノで遊んで日曜日に帰国するというパターンが多かった。カジノ賭博では大金が飛び交うが、その前の景気づけとして、しばしば芸能人を呼んでホテルでディナーショーを開いた。そんなディナーショーの模様を録画したDVDも手元にある。
たとえば02年11月9日、韓国・済州島のKALホテルで開かれたディナーショーのワンシーンが収められている動画もその一つである。パーティの主催者は、「KALカジノ 済州観光株式会社」だ。食事のあと、午後7時半からショーが始まった。ホテル2階の大宴会場のステージに登場するメインゲストが、北原ミレイである。往年のヒット曲「石狩挽歌」を熱唱し、客席がひときわ盛りあがる。
北原が手招きすると、水谷功が照れたように頭をかきながら立ちあがった。ステージにあがり、北原からサイン入りの色紙を受け取る。すると、水谷が客席の一人を指名し、男の客をステージに立たせた。そうして二人そろってマイクを握り締める。
「きたぁ〜の漁場はよぉ〜」
水谷功が大声を張りあげる。86年に北島三郎が歌った「北の漁場」は、その年のレコード大賞最優秀歌唱賞受賞曲で、彼の十八番である。水谷はアルコールを一滴も口にしない。その割に、まるで酔っぱらっているかのように顔を赤らめ、上機嫌だ。
■大勢の芸能人が呼ばれたディナーショー
これ以降、水谷率いる韓国やマカオのカジノツアーは、毎年のように企画された。もちろん博打の前のディナーショーもセットだ。そこには、大勢の芸能人が呼ばれ、ステージを飾っている。ときに水谷功は長山洋子とツーショット写真に収まり、千昌夫のディナーショーには、民主党副代表の石井一まで参加した。ちなみに石井事務所に聞くと、
「水谷氏はその場で友人に紹介された。会ったのは、あれが最初で最後」
としぶしぶ答える。今となっては思い出したくないに違いない。
一方、タレントたちにとってのディナーショーは、かっこうの稼ぎどころでもある。ある芸能プロダクションの幹部が、そのあたりの事情を説明してくれた。
「カジノとディナーショーのセットツアーの場合、タレントのギャラは通常の倍以上に跳ねあがります。ふだん200万円程度のディナーショーのギャラが、500万円とか600万円になる。ショーの主催者側がカジノを運営しているので、タレントへギャラを余分に払っても、客からカジノで取り返せる。だから、平気なんです。破格のギャラだから、所属事務所も喜んでタレントを出しますね」
■水谷功のお気に入りだった歌手
そんな水谷関係のディナーショー付きカジノツアーで、最もお呼びのかかったのが、松原のぶえだ。二人の初対面は、03年夏に済州島のハイアットリージェンシーで企画されたディナーショーだった。もう一つのDVDには、そのときのステージシーンもある。
「水谷会長から初めて呼んでいただき緊張していましたけど、とてもやさしくしていただいて。昨日、水谷会長と初めてお会いしました。そのときに焼肉をご一緒させていただいたんですが、のぶえちゃんがかわいそうだから呼ぼう、となったんだそうです」
このころ松原のぶえは不遇だった。79年のデビュー曲「おんなの出船」で日本レコード大賞の新人賞を受賞して以来、実力派演歌歌手として順風満帆の歌手生活に見えたが、03年に元マネージャーの夫と離婚したころからタレント生活が暗転する。借金問題が明るみに出たうえ、持病の腎臓病に苦しんだ。水谷功との出会いは、松原のそんなピンチのころだった。
済州島のステージでは、彼女が強引に水谷をステージに引っ張りあげ、仲睦まじく「ふたりの大阪」をデュエットした。間奏の合間に、水谷がマイクを手に声をあげる。
「僕が、あと15年若けりゃあなぁ」
すかさず彼女も、相槌を打つ。
「ホント私も、早めに会長とめぐりあってたら、よかったな、とそう思いますね」
いかにも、取ってつけたようなやりとりだが、当人同士は非常に楽しそうだ。
「もう、いつ死んでもええなぁ」
「いえいえ、末永くお付き合いくださいませ」
デュエットの最中、客席からヤジが飛んだ。
「会長、のぶえちゃんの借金、返してあげてぇな」
水谷が歌そっちのけで、返事する。
「はいよ、任せといてぇ」
デュエットが終わっても二人はそのままステージに居残り、宴はますます盛りあがる。
「本当にね、素敵なご縁を頂戴できて幸せです」
松原のぶえは、みずからの借金苦をネタにして笑いをとり、水谷のほうを向く。
「今日のカジノでいっぱい勝ちますので、任しといてください、そんなの」
「会長、バンバン稼がれることを期待してま〜す」
ショーのエンディングは、決まって水谷お気に入りのヒット曲「演歌みち」だ。
■日本国内では考えられないような錦衣玉食の宴
松原のぶえは、そこから04年、05年と立て続けに済州島でディナーショーを開いた。その都度、ゼネコン幹部たちが集い、日本国内では考えられないような錦衣玉食の宴を繰り広げてきた。ステージには常にチップやお捻りが飛び交う。DVDに収められたディナーショーには、90年前後のバブル絶頂期にも見られなかったようなシーンが満載だ。ステージ上で松原が1万円札の束を扇子のように広げたまま手にしてひと言。
「やっぱり、こちらに目がくらみます」
別の日のショーでは、松原が韓国の紙幣、ウォン札を首に巻いて「演歌みち」を歌っているかと思えば、水谷建設のマーク入りのチマチョゴリ姿で登場し、封筒に入ったチップをライトに透かせて見てニッコリする。
「あっ、たくさん入っているようです。すみません、遠慮なくいただきます。でも、まだ締め切ったわけではありません。カジノで使う前に、どうぞお持ちいただければと思います」
カジノツアーには、元請けのゼネコンだけでなく、工事を発注する側の電力関係者なども参加していたという。重機土木専門の水谷建設は、いわばその下請け業者に過ぎない。だが、贅沢な宴の主役は常に水谷功だった。
■家族ぐるみの“愛人契約”
02年11月以来、毎年開かれてきたきらびやかなカジノツアー・ディナーショー。そこには、有名芸能人たちに交じり、毎回ステージに立つ無名の歌手がいた。テレビなどではほとんど見たこともないような無名のタレントだ。その鹿谷あけみ(仮名)は、茨城県袋田の滝の麓にある大子町に生まれた。幼いころから歌がうまく、歌手を目指して東京にのぼった。だが、しょせん芸能界に何のつてもない片田舎の娘に過ぎない。なかなかデビューのきっかけがつかめない。やむなく、品川区の下町、戸越銀座商店街にある場末のスナックで働いていた。そんなあけみを見染めたのは、水谷本人ではなく、側近たちだ。
あけみの実家は茨城県内で洋服の縫製工場を経営していたが、経営に失敗して金銭的にかなり苦しかった。上京したあけみは、親から資金的なバックアップをしてもらうどころか、スナックで働きながらむしろ家計を助けようとしていた。それでも、歌手になる夢は捨てていなかったらしい。
そんな折、水谷功と親しい芸能事務所の社長が、たまたま運転手と戸越銀座のスナックに顔を出した。それが水谷建設の関係者たちと知り合うきっかけだった。彼女にとっては千載一遇のチャンスでもある。
「歌手になりたい」
あけみは、芸能事務所の社長に訴えた。しかし、はっきりいえば、さほど美人でもなく、取り立てて特徴のない娘だ。どこかの芸能事務所が引き受けるには、パトロンが必要である。CDの売上に協力してくれるような金主がいなければ、デビューなどできない。鹿谷あけみの歌手活動をマネージメントしてきた芸能プロデューサーが、水谷功との不思議な縁の糸を説く。
「そこで、水谷建設の取引先の社長にあけみを紹介したのです。社長はすぐに彼女のことを気に入り、月々20万円のマンションの家賃と生活費の面倒をみるようになりました」
取引先の社長とは、水谷功と30年来の付き合いのある建設会社の経営者、織田光昭(仮名)だ。水谷建設の下請け業者であり、カジノツアーはもちろん裏金の運び役まで担ってきた水谷功の腹心中の腹心の一人である。
実は鹿谷あけみは、芸能事務所社長の運転手の彼女だった。先のプロデューサーが続ける。
「スナックで働いていたとき、あけみはすでに28歳でした。新人歌手としては、デビューがかなり遅めですけど、演歌ならまだ間に合う。ただし、歌手になるためには、綺麗ごとでは済みません。だから、私も彼女にきっぱり言い含めました。『一人当たり2500円程度で飲めるような下町のスナック客を相手にするわけではないんです。ステップアップするつもりなら、よく考えなさい。本気で歌手になるつもりだったら、今の彼氏とは別れなきゃね』と。彼女もここが勝負どころだと思ったのでしょう。彼氏と別れ、ずいぶん(取引先の)織田社長に尽くしてくれました。織田社長も、彼女にすっかりほれ込んでいた。それなら、とデビューさせることにしたのです」
■愛人をお披露目する場となっていたディナーショー
そうして、水谷の許可を得て、カジノツアーのディナーショーで歌手デビューさせたという。それが02年に済州島KALホテルでおこなったイベントだ。北原ミレイが「石狩挽歌」を歌って好評だったが、実は鹿谷あけみの歌手デビューイベントだったわけである。DVDには、くだんの社長があけみの手をとり、大きなケーキにナイフを入れる場面まで収められている。
「つまり、ディナーショーは、水谷側近の織田社長が水谷ファミリーやその関係者へ愛人のお披露目をしたイベントでもありました。もちろん水谷会長も、彼女を気に入っていましたし、歌手デビューさせたのも、会長の一声があったからでした。それ以来、カジノツアーのディナーショーを催すたび、あけみを呼べ、と水谷会長はいい、あけみは還暦の祝いにも駆けつけてます」
とプロデューサー氏。鹿谷あけみは、シングルCDを発売し、そのほとんどを水谷建設の関係者が買い取った。水谷功の還暦祝いでは、松原のぶえといっしょに「真赤な還暦」を歌っている。また、松原のぶえが出演する関西ローカルの番組にも、鹿谷あけみを無理やり押し込んだ。
■複雑怪奇な権力構造
水谷ファミリーのメンバーは、水谷建設の幹部だけではなかった。むろん頂点に君臨するのが会長だった水谷功である。前述したように、裏金づくりやその運び役、さらに政官財から暴力団にいたる人脈づくりや裏工作などについて、水谷は社内の幹部に任せない。それらの大役を担ってきたのは、30年来の下請け業者として水谷建設に尽くしてきた建設会社の社長や親しい芸能事務所の社長たちである。いわば彼らが水谷ファミリーの番頭格だ。鹿谷あけみのパトロンになった織田は、水谷の最も信頼する番頭の一人であり、それだけに財力もある。
水谷ファミリーは、変形のピラミッド型組織といえる。水谷功を頂点にし、その下に下請け業者の番頭たちがいて、さらにその下に重機を扱うブローカーやメーカーを配している。水谷建設そのものの幹部たちは、そのピラミッド組織のなかに常時存在しているわけではなく、時折、そこに加わる。たとえば小沢一郎の秘書に裏金を渡したとされる元社長の川村尚は番頭とはいいがたい。水谷のダミー役といったほうが正解だろう。脱税事件で逮捕された財務担当重役の中村重幸などもそれに近い。
そんな水谷ファミリーの頂きに座る水谷功の命令は絶対である。鹿谷あけみはもちろん、パトロンだった下請け業者の織田にとってもそうだ。こうして側近中の側近の愛人になった鹿谷あけみ自身も、水谷ファミリーの一員になる。水谷ファミリーのメンバーの一人が言う。
■「ええ女やな、2、3000万出しても何でもない』
「カジノのディナーショーには、彼女の茨城の両親や妹まで招待されていました。ご両親たちはいたく水谷会長に感謝し、嬉しそうでした。番頭の織田社長は、縫製工場の経営の苦しかったあけみのご両親に対しても援助していたと思います。家族ぐるみであけみの面倒を見ていたのでしょうね」
しかし、芸能界はそうは甘くない。結局、鹿谷あけみは持ち歌のCDを一枚出しただけで、あとは鳴かず飛ばすになる。
「おい、そろそろ織田とあけみを別れさせや。もうあかんわ。織田は仕事に身が入らんでな」
水谷功は、織田とは違う社外の水谷ファミリーにおけるもう一人の“番頭”、横溝祐樹(仮名)にそう命じた。
「心配いらん。あけみにはわしがちゃんと次の旦那を探したるでな」
横溝は新しく水谷建設グループと取引を始めたばかりの貿易商を水谷に引き合わせた。新参者の重機ブローカーだ。そうして、重機ブローカーがあけみの次のパトロンに指名された。
「あれ、松原のぶえの前座歌手やったんや」
水谷に重機ブローカーを紹介した横溝に聞くと、本人がこう認める。
「あけみは松原のぶえから、ドレミがうまく歌えないのはあかんつって、ほうり出されてもうたらしい。もともと、織田が面倒見てたんやけど、もう精一杯やったんや。金が続かん。レコードを出すのに2、3000万かかっとるのに、もう一回出してって、言われたらしい。だから別れたかったんやと思う。女もそれ分かったもんやでな。そんなときちょうど、水谷会長と取引を始めたがっていた重機ブローカーがいたんや。で、彼女を見て、『ええ女やな、2、3000万出しても何でもない』というので、くっつけたんや。けど、そしたら、織田がえらい怒ってもうて、困りましたわ」
■飛び交う賄賂
水谷功が鹿谷あけみを重機ブローカーと結びつける目的は、もとより側近の織田の仕事にさし障るという理由だけではない。水谷功は、身のまわりに信頼して裏金づくりを任せられる人間をもっと増やしたかった。一方、くだんの重機ブローカーにとっても、常に1000台以上の重機類を抱える重機土工業者として日本で指折りの水谷建設グループと取引するのは、願ったりかなったりである。事情を知る別の水谷の側近が話す。
「彼との初対面では、高級フグ料理をご馳走になりました。水谷会長ほか四人いたのですが、その重機ブローカーは25万円もした料理の代金をポンと払うではないですか。そうこうしていると、今度は、68万円もするバカラ製の花瓶と馬型時計セットが贈られてきた。さらに次には、『これ、水谷会長のために使ってください』と現金を1000万円も置いていきました。それで、彼はすっかり会長の信頼を得ました」
まさしく嘘のような、本当の話だ。もっとも、これは男女の単なる色恋沙汰にとどまらない。奇しくもこの愛人のドタバタ劇が、のちに大物代議士事務所をめぐる、ある恐喝騒動に発展するのである。
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「ここまで来ればしゃべらなあかん…」小沢事務所裏献金事件で暗躍した政商・水谷功が生前にこぼした本音 へ続く
(森 功/文春文庫)