《追悼》「背中に火がついてるぞ!」東京大空襲の夜、14歳の半藤一利は火の海を逃げまどった

《追悼》「背中に火がついてるぞ!」東京大空襲の夜、14歳の半藤一利は火の海を逃げまどった

©志水隆/文藝春秋

《追悼》半藤一利さんが89歳で語っていた“原点”「小学5年生のとき太平洋戦争が始まりました」 から続く

 昭和史研究の第一人者であり、『日本のいちばん長い日』や『ノモンハンの夏』などの著作でも知られる作家の半藤一利さんが、1月12日、東京都世田谷区の自宅で亡くなりました。90歳でした。

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「文春オンライン」では、戦後74年を迎えた2019年夏に、半藤さんの“原点”に迫るインタビューを行っていました。少年時代に東京大空襲を経験し、火の海となった町を前に、半藤さんは何を思ったのか――。当時の記事を再公開します。(初公開:2019年8月15日。記事中の肩書・年齢等は掲載時のまま)

 映画化もされたベストセラー『日本のいちばん長い日』をはじめ、『ノモンハンの夏』『昭和史』など、数多くの著作がある半藤一利氏は、今年初めて絵本を刊行した。『 焼けあとのちかい 』と題されたその絵本には、“半藤少年”が体験した東京大空襲の壮絶な光景が描かれている。半藤氏は今、子どもたちに何を伝えようとしているのか? 

  第1回 で「太平洋戦争の開戦に高揚感を覚えた」と語った半藤氏。だがその数年後には、徐々に日本人全体が殺気立つ空気を感じ始めたという――。

取材・構成=稲泉連

 (全3回の2回目/ #3 へ続く)

◆◆◆

 私が中学校に入ったのは昭和18(1943)年4月のことでした。日米開戦から1年半ほどが過ぎていましたが、この年は私にとって「戦争」を身近に感じるような厳しい時期ではありませんでした。

 というのも、日本が約2万人に近い戦死者を出したガダルカナル島の争奪戦に敗れたのが、同じ年の2月。日米双方がこの戦闘では戦力が疲弊し、多くの戦闘機や軍艦を失いました。さすがのアメリカも本土で戦力を養う必要があり、昭和18年は翌年に日本にやってくることになる大機動部隊を整備している時期だったからです。もちろん山本五十六の戦死やアッツ島での玉砕など、戦争はそのときも続いています。しかし、まだ東京にいる限りでは、のんびりした日々が続いていた印象があります。

■中学校で盛んになった軍事教練

 ただ、それまでは上げ潮だった戦争が、これからは引き潮の戦争になる。だから、日本も全力を挙げて軍備を整えないと、とても対抗できないぞ、ということは分かっていました。よって、この頃から私の通っていた都立第七中学校(現・墨田川高校)でも、ずいぶんと軍事教練が盛んになっていったものです。

 木銃を「わー」と声をあげて刺しっこしたり、モールス信号や手旗信号を習ったり。身体を鍛えるためのマラソン大会もその一部でしたね。これは各学校の校長の方針だったらしいのですが、英語を中止した学校もこの頃にはあった。七中は軍事教練が盛んだったとはいえ、英語はまだちゃんと教えていましたけれど。

■マリアナ諸島をめぐる攻防戦が始まる

 そうしたのんびりした雰囲気がガラガラと音を立てて変わったのは、年が明けた昭和19年のことでした。アメリカの大機動部隊が太平洋の日本の占領地を次々に襲ってきたのです。

 昭和19年6月から7月にかけて、マリアナ諸島をめぐる攻防戦が始まります。

 サイパン島、テニアン島、グァム島――というマリアナ諸島は絶対国防圏と呼ばれ、日本が引いた最後の防衛線のうちの、最大最強の砦でした。なぜなら、マリアナ諸島が奪われて長距離爆撃機B29の基地ができると、日本への本土空襲が可能になるからです。

 この頃からです、日本の政府も軍部も躍起になったのは。例えば、「鬼畜米英」や「米鬼」という言葉がありますが、そのような言葉が新聞などで書かれるようになったのも同じ時期のことでした。

 要するに7月にマリアナ諸島を奪われた時点で、この戦争の勝ち目は全くなくなってしまった。それまでは「もしかしたら勝てるんじゃないか」「絶対に神風が吹くんだ」「絶対に日本は負けることないんだ」という空気が強かったのですが、7月以降になると、軍部にとってはどうやってこの戦争を始末するか、というところまで追いやられてしまっていたわけです。本土空襲が間違いなく始まることが明確になったので、いよいよ空襲に備えての疎開も始まる。防空壕も造らされる。そのなかで日本人全体が殺気立ってくるんですね。

■授業が中止になり、海軍の軍需工場で弾丸の検査を

 私の家でも母と下のきょうだいたちが疎開し、東京には私と父が残る形となりました。その頃私は勤労動員で、軍需工場で働いていました。前年から学徒動員が始まっていたので、大学生たちはみんな戦争に行っていました。若者がいなくなって労働力が減ってしまったため、当時、私たちのような中学下級生はいっさいの授業が中止となって、軍需工場で働いていたわけです。町にいるのはお年寄りばかりになっていました。

 私の働いていた軍需工場は大日本兵器産業という名前で、今ならスカイツリーのよく見える十間橋のたもとにありました。海軍の軍需工場で零式戦闘機、いわゆるゼロ戦の20ミリの機関銃の弾を製造していました。陸軍は20ミリになると機関砲と呼ぶのですが、海軍の場合はまだ機関銃なんです。それで、私たち中学生はその製造された弾丸の品質を流れ作業で検査していました。私がやっていたのは、次々に流れてくる薬莢にゲージを当てて深さを確認し、合格したものを同じように次に流していく。それを朝から延々と続ける仕事です。

 私たちは「日本は勝たなければならない」という気持ちで、弾の一つひとつを検査していました。

■「日本の男はみんな奴隷に、女は妾にされる」

 昭和19年の暮れになると、こんな話を耳にするようになりました。

「日本がもし負けるようなことがあったら、日本の男はみんな奴隷にされる。女はアメリカ兵、イギリス兵、中国兵たちの妾にされる」

 まさかそんなことはないだろう、と思っていても、半分くらいは「本当にそうなのかもしれない」とも思いますよね。だから、薬莢の検査にもますます真剣になった。

 工場での仕事と軍事教練で、授業なんて1日に1時間もやっていません。軍事教練では焼夷弾をいかにして消すか、という訓練もしたものです。戦争のために全ての人間が犠牲になり、勝つために戦い抜くんだという雰囲気が、その頃の世の中にはすでにありました。父親なんかは「せっかく勉強させてやろうと思って無理して学校に上げてやったのに、おまえは工員になったのか」とバカにしていましたが、本人からすれば一生懸命でしたよ。

■B29が爆弾を落とした跡を自転車で見に行った

 B29が実際に東京の空を飛ぶようになったのは、「男は奴隷、女は妾にされる」というそんな話を耳にするようになった後の11月から。アメリカという国は非常に詳しく調査をしますから、まず1機〜2機が飛んできて、東京の写真を徹底的に撮影していくのです。それが毎日のように続いたのち、遂に白昼の大空襲が起きました

 彼らは私たちの暮らしている町の方は素通りしていくのですが、ときおりB29の偵察機が写真を撮ったついでに、爆弾を1発か2発、思いついたように落としていきやがる。それがときどきとんでもないところへ落ち、「家が吹っ飛んだ」と聞いて、自転車を漕いで見に行ったこともありました。

 そして、昭和20年3月9日の真夜中、あの東京大空襲が起こるわけです。

■「おい、坊! 起きろ! 今晩はただことじゃないぞ」

 その日、23時過ぎに空襲警報が鳴ったとき、毎晩のような空襲警報に慣れっこになっていた私は、もはや図々しくなって寝ていました。

「もう勝手にしろ。そのたびに起こされたんじゃ、明日の工場で働けないじゃないか」

 というのが、そのときの不貞腐れたような気持ちでした。どうせいつものように町には来ないだろう、と。

 ところが、その日は親父が寝床に飛び込んできて、私の枕を蹴っ飛ばして言ったんです。

「おい、坊! 起きろ! 今晩はただことじゃないぞ」と。

■焼夷弾が投下され、一面が火の海に

 飛び起きた私は、親父と二人で家の外に出ました。防空壕の上にあがって周囲を見てみると、深川のあたりはすでに炎と煙で真っ赤になっていました。その煙の中をB29がすごい低空で通り抜けていきます。そしてバラバラと焼夷弾を投下する。

 間もなくして、右手の浅草、神田の方面の上空に1機ずつB29が来ると、たちまち炎がボンボンと上がった。今度は左手の小松川でも同じように炎が上がり、隅田川と荒川に挟まれた地域の南と東と西の三方を取り囲むようにして火の海になりました。

「なんだ、これは。どうして僕らのところだけを残すんだろう」

 と、親父と話していたのですが、もちろんそんなはずはありません。B29は下町のいちばん北に位置する私の町のすぐ頭上を通って、自宅のあたりをダーッと攻撃してきました。10日の午前1時ごろであったと思います。

■「手袋をはめて、焼夷弾を手に持って庭へ投げろ」

 焼夷弾というのは36本が一束になっており、上空1000メートルより下のあたりで破裂してその1本1本がバーッと広がって落ちてくるんですね。頭上から焼夷弾がバラバラと落ちてくるときは、形容すれば急行電車が頭の上を通っていくような音がしました。私と親父は防空壕の上から転がり落ちて、地面に伏せました。

 今でも胸に焼き付いているのは、それを訓練通りに必死になって消そうとしている人々の姿です。訓練では手袋をはめて、家の中に落ちた焼夷弾を手に持って庭へ投げろ、と教えられていました。

 全くバカげたことを教えていたものです。そうやって焼夷弾を消そうとしていたから、多くの人が逃げ遅れてしまった。3月10日の東京大空襲では約10万人が亡くなったとされます。しかし、実は東京への大きな空襲は、その後の4月13日と15日、5月24日と25日を含め五度もあるのです。後の四つの死者数がそれほど多くないのは、3月10日の空襲の経験から、焼夷弾は消せないということが分かっていたので、すぐさま人々が逃げたことも一因なのです。

■日本の民家への無差別爆撃を正当化したカーチス・ルメイ

 それにしても許せないのは、この空襲を指揮したカーチス・ルメイというアメリカの軍人です。そもそもそれまでのB29による爆撃は、軍需工場を目標にしたものでした。だから、上空8000メートルから1万メートルという、非常に高度も高い場所を飛んでいたのです。そこまで高ければ、戦闘機や高射砲による迎撃を避けられるからです。

 しかし、それだと偏西風の影響で投下した爆弾が目標を外れてしまうというので、ルメイは低空での作戦を提案しました。しかも、日本の民家では家内工業で軍需製品の部品を作っているから、それも軍需工場と見做してよい、というとんでもない理屈をつけて。アメリカ側の記録を読むと、これには当のアメリカ兵たちが声を失ったそうです。日本軍はもちろんそんな無差別爆撃をやるとは予想していなかった。東京の市街地への包囲殲滅の爆撃を正当化したのですから、本当にヒドい奴だと思います。

■川岸で猛火に襲われ、燃え上がる人々

 その夜、私は火の海となった町を逃げまどいました。今年7月に出版した『焼けあとのちかい』という絵本の中の絵に描いてもらったように、周囲の光景はまさに火を浴びるようでした。ものすごく強い風が吹いていて、火の塊が飛んでくる。さらに黒い煙が渦を巻いてせまってくる。

「おい。背中に火がついてるぞ!」

 と、言われて振り向くと、着ていた半纏が燃えていました。それで鉄兜も防空頭巾もともに脱ぎ捨てて逃げていくと、中川の岸では逃げ場を失った人々でごった返していました。川に落っこちた私は溺れそうになりましたが、どうにか浮かび上がって、ちょうどそこにいた船に助けられたのです。

 寒くてガタガタ震えながら船上から見ていると、まさしく壁となった猛火と黒い煙が凄まじい勢いで迫ってきて、人々を覆っていきました。

「飛び込め! 飛び込め!」

 と、船の上の人たちはずっと叫んでいました。しかし、子供を抱いている母親たちは飛び込めません。川岸にうずくまっているところに煙が襲い、息をつけなくなった人々は文字通りコロッと倒れていく。そして、そこに猛火がバアーッとかぶさる。その体がまるで炭俵が燃えるようにワーッと燃えていくのです。

■地獄のような場所に立つと、人はまともな人間性を失ってしまう

 ところが、何ということか、子供だったということもあるのかもしれませんが、私は自分が人間であることを忘れたみたいに、そのように人々が倒れ、燃えていく様子をただただ茫然と眺めているばかりでした。感情というものが湧いてこないのです。

 いまでも、戦争というのは本当に恐ろしいものだと思うのは、このときのことを思い出すからです。地獄のような場所に立つと、人はまともな人間性を失ってしまうものなのです。人間が人間でなくなる、それこそが、戦争のいちばん恐ろしいところである、と私はこのときの体験から強く思うのです。

 そして、私はもう二度と「絶対」という言葉を使わないぞ、とこのとき決意しました。なぜなら、戦争中はこの「絶対」という言葉で、様々なことが説明されていたからです。絶対に正義が勝つ、絶対に日本は正しい、神風が絶対に吹くと言われたように。しかし、そうした言葉がいかに空虚なものであったか――。空襲を生き延びて焼け跡に呆然と立ち尽くしていたとき、私の胸に生じたのはそんな思いだったのです。

撮影=志水隆/文藝春秋

《追悼》『日本のいちばん長い日』著者の半藤一利は、あの「8月15日」をどう過ごしたのか? へ続く

(半藤 一利)

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