死刑確定後30年たってはじまった殺人事件再取材…担当警部が残した「メモ」から見えてきたもの

死刑確定後30年たってはじまった殺人事件再取材…担当警部が残した「メモ」から見えてきたもの

筆者が関わった平沢元死刑囚死亡直後の企画記事(信濃毎日新聞)

12人の殺害容疑で死刑判決を受けた高名な画家…どうして彼は39年も刑が執行されなかったのか から続く

■事件から32年…はじまった「洗い直し取材」

 私が、所属していた共同通信社会部の帝銀事件洗い直し取材チームに参加したのは、事件から32年後、いまから41年前の1980年春。リーダーは下山事件や教育問題の取材で知られた「シゲさん」こと斎藤茂男氏で、メンバーは10人ほどだった。

 プロジェクトは、法務・検察に強いシゲさんが、中央更生保護審査会のメンバーの1人から「平沢が恩赦になるかもしれない」という情報を聞き込んだのがきっかけ。釈放時の企画などに使うつもりだったのだろう。洗い直しの「柱」は

1、事件捜査を担当した警視庁捜査一課係長の甲斐文助・警部が私的につけていた「甲斐メモ」

2、平塚八兵衛・元警視の捜査記録

3、ある歯科医師を真犯人とする「異説」

 の3つだった。

 甲斐メモは、本人は既に死亡していたが、社会部の先輩が生前借り出していた。わら半紙に鉛筆で書かれたおそろしく読みづらいのを、シゲさんが、「稲葉氏」という帝銀事件研究家に預け、彼が何年かかけて“解読”したものが持ち込まれた。

 平塚元警視の記録は、和紙をのりでつないで巻物のようにしてあった。「刑事一代」は、著者が平塚元警視から、最大の手柄とされる「吉展ちゃん誘拐事件」の推移について、容疑者や関係者の証言を「分刻みの時系列で細かく書き込んだ縦1メートル、横10メートル以上もある“巻物”を見せてもらったことがある」と書いているから、事件ごとに同じようなものを作っていたのだろう。

 異説は、まず東京・世田谷に住む実在の歯科医師を真犯人と「特定」。そこから事件を解明する推理物語で、「稲葉氏」が同志の女性私立探偵と一緒に長年追い続けた「ネタ」だった。

■甲斐メモ、その衝撃の内容

 チームも3つに分けられ、私は同僚記者と2〜3人で甲斐メモを基に取材を進めた。甲斐メモを読んで衝撃を受けたのは、帝銀事件の捜査本部が当初から日本軍の特殊謀略部隊に目をつけ、関係者から聴取を続けていたことだった。

 細菌戦部隊である七三一部隊については、取材当時でさえ、元少年部隊員の手記と、TBS記者・吉永春子さんの一連のルポぐらいしか一般には知られていなかった(書籍がベストセラーになり「七三一」が周知されるきっかけとなった作家・森村誠一氏の長編ドキュメント「悪魔の飽食」の新聞連載は翌年1981年7月から)。

 捜査員は人から人へ探し歩き、事件から約80日後の4月15日、刑事2人が「(元)七三一部隊(長)石井四郎(元軍医中将)に会って(部隊の各)部長の名前をとった(聞いた)」(甲斐メモの記述)。

 同月27日には別の刑事2人が石井と再度面会。このとき石井は「俺の部下に(犯人が)いるような気がする。君らが行っても言わぬだろう。一々俺のところに聞きに来る。15年、20年、俺の力で軍の機密は厳格であるので、なかなか本当のことは言わぬだろう」「いつでも俺のところへ来い」と語っている。

 私も甲斐メモに登場した元七三一部隊員に話を聞きに行った。公務員をリタイアしたその男性は長身で丸坊主。事件当時、捜査員の訪問を受けたことは認めたが、それ以上は全く語らず、収穫はなかった。何より、全身から漂う妖気のようなものが印象的だった。

■特殊部隊、特殊機関…「毒物の謎」

 帝銀事件の最大の謎が凶器の毒物であることは衆目の一致するところだが、一審判決は「そのころ持っていた青酸カリ」としか認定していない。

 一方、実際に効果が現れるまでの時間経過から、犯行に使われたのは即効性の青酸カリではなく、遅効性の毒物だとする見方が事件当初からあった。

 甲斐メモによれば、捜査員は七三一部隊をはじめ、旧軍の特殊部隊や特殊機関を当たるうち、ある新しい毒物にぶつかっていた。それは“絶対秘密の研究所”とされていた旧第九陸軍技術研究所(九研、通称・登戸研究所)が開発した青酸ニトリル(別名アセトン・シアン・ヒドリン)だった。

 私たちは甲斐メモを基に九研の元所員らに次々当たっていった。そして、九研第二課(毒物専門)の元将校で青酸ニトリルの開発者の薬剤師に面会した。彼は「事件を知ったとき、九研関係者がやったのかもしれないと思った」と語った。

 彼によれば、青酸ニトリルの効果が表れるのは普通飲んでから約1分後。そうしたデータは、中国での中国人捕虜を使った人体実験で得たという。だが、薬剤師は「終戦時、青酸ニトリルは全く残っていなかった」とも断言した。

■アメリカ軍の軍属を探して…

 甲斐メモに記されていたのは、毒物だけに留まらない。

 帝銀事件の犯人は、「近くの相田という家で集団赤痢が発生。消毒に来る前に予防薬を」と言って行員らに毒物を飲ませた。実際に帝銀椎名町支店近くには相田小太郎という家があり、発疹チフスが発生して事件当日、進駐軍のジープが査察に来ていた。

 一審判決は、国鉄(当時)池袋駅から現場に向かった平沢元死刑囚が、途中で「相田」という表札を見て「この家を患者が発生した家に仕立てることとし」と認定したが、そんな偶然があるだろうか。

 捜査員はその点も捜査していたことが甲斐メモに記されていた。ジープで相田方を訪れたのはアメリカ第8軍公衆衛生課のアレンという軍属と通訳、そして東京都の嘱託医だった。私たちは甲斐メモに書かれていた東京都民政局防疫課、豊島区衛生課防疫係の職員とアメリカ軍の日本人通訳に取材した。

 その結果、1人の通訳とクリスマスカードをやりとりしていたことから、アレン元軍属の現住所が判明。共同通信ワシントン支局員の電話取材に、かつてギャング映画で活躍したジェームズ・キャグニーに似ているといわれた元軍属は「あのころは連日伝染病が発生していた。いつどこへ査察に行くかは、都からの連絡を受け、状況に応じて自分が判断していた」と語った。「日本の警察の事情聴取を受けたことは一度もない」とも語り、この線もここで絶えた。

■届かなかった真相

 3カ月余りののち、平沢元死刑囚の保釈の可能性はないとの結論が出て、洗い直し取材は終わった。後で愕然としたのは、その時点で取材結果は1行も記事にしなかったこと。それから7年。平沢元死刑囚の死亡時に甲斐メモについて生ニュースにし、取材の骨子部分を5回続きの企画にした程度だった。

 死亡直後には、「平沢貞通氏を救う会」の元メンバーや、事件に関心を持って「小説帝銀事件」を書いた作家・松本清張氏らが「真犯人」と名指しした「S」という元陸軍軍医の足跡を追った。

 七三一部隊にも関係し、薬物中毒で「事件をやりかねない男」とされていた。同姓同名の人物が実在したが、事件の約1年後に病死していた。炭鉱のボタ山が残る福岡県の街で親族に会い、写真も見せてもらったが、七三一部隊とは無関係で、帝銀事件犯人の似顔絵とは似ても似つかなかった。最終的に私は、Sが実際にいたとしても、それは実在の人物の名前と経歴を偽った別人と推理した。

 いろいろな理由はあったが、結果的に私たちの取材は全く真相に近付けなかった。振り返って忸怩たる思いだ。

■帝銀事件には15人の犠牲者がいる

 その後も事件との関わりは続いた。平沢元死刑囚の養子になって再審請求を引き継いだ武彦氏とはいろいろな機会で付き合いがあった。事件半世紀の1998年、私は小さなテレビ局に出向していたが、ディレクターまがいに彼を事件現場に引っ張り出し、15分のドキュメンタリー番組を作った。

 最期は孤独死だったが、その1年余り前から時折、夜遅く電話がかかって、事件に関することを延々と話した。それほど重大とは思えないことばかり。電話を切った後、暗然とするのが常だった。

 中村尚樹「占領は終わっていない」は帝銀事件には15人の犠牲者がいると指摘する。毒殺された行員ら12人に加えて「濡れ衣を着せられた平沢貞通」。そして14人目と15人目は「『平沢貞通氏を救う会』の事務局長を引き受けた作家、森川哲郎とその長男であり、平沢の養子となった平沢武彦である」。私も同じような感慨を持つ。

■平沢元死刑囚が“巻き込まれた”ワケは?

 そのうえで私なりにまとめてみる。平沢貞通・元死刑囚が「シロかクロか」と聞かれれば「70〜80%シロ」と答える。奇矯な言動など、不審な点はあるが、決定的なのは、毒物の入手と使用の点だろう。犯行手口の緻密さから「とても平沢ではできない」という思いは根強い。歴代法相が執行命令書にサインしなかったのも、そうした単純な疑問からだろう。

 そんな平沢元死刑囚がどうして事件に“巻き込まれ”そこから逃れられないまま、死刑囚として獄中死しなければならなかったのか、挙げてみよう。

1、平沢元死刑囚個人の問題
 コルサコフ症候群の後遺症も加わった大言壮語、作り話など、奇矯な言動。芸術家特有の非倫理性。放縦な私生活

2、裁判が旧刑事訴訟法で審理されたこと
 新憲法に基づく新刑事訴訟法の施行は事件後の1949年1月1日。自白偏重で物的証拠の価値が低く、凶器である毒物についての立証が軽視された

3、検察・警察の捜査能力の低下
 人的・物的に戦争による荒廃、欠落が大きかった

4、メディアの劣化
「権力のチェック」は程遠く、事件をセンセーショナルに報道。「平沢クロ」説をあおった

5、支援するはずの家族関係が平穏でなかった
 平沢元死刑囚には愛人がおり、妻や子どもたち親族との関係が複雑だった

6、弁護団、支援団体に一貫性が欠けていた
 支援団体メンバーに“出入り”が激しいなど弁護団に問題が多く、弁護方針にも一貫性が乏しかった。

 理由はほかにもあるだろう。わずかな疑問を持ちながらも、最も大きかったのは「運が悪かった」ことだとしか思えない。

■カギは「毒物」

 私は現在も続いている再審請求を支持するが、その見通しには悲観的にならざるを得ない。目撃証言や自供の信ぴょう性など、主張はいくつもあり、それぞれ取り組む価値はあるが、再審が認められる決定的な新証拠にはならない。

 最近の再審請求では、GHQの圧力によって旧陸軍特殊部隊の追及から捜査方針が転換させられたと主張している。確かにGHQは石井・元隊長らを「保護」し、警視庁の追及を阻止しただろう。だが、それは七三一部隊の研究成果を将来予想される戦争に活用するためで、それだけでは再審請求の証拠にならない。

 私見だが、やはりカギは毒物だ。元TBS記者・吉永春子さんは著書「謎の毒物」で、犯行に使われたのは単純な青酸化合物ではなく、青酸配糖体と酵素という2つの物質が混合して青酸化合物の効力を発揮したと問題提起した。現在の第20次再審請求に当たっては、それに関する研究も進んでいる。もし、毒物の点ではっきりした成果が表れなければ、事件は本当の20世紀の謎の事件として実質的に幕を閉じる可能性が強いのではないだろうか。

【参考文献】

▽共同通信社社史刊行委員会「共同通信社三十五年」 共同通信社 1981年
▽森川哲郎「獄中一万日 追跡帝銀事件」 図書出版社 1977年
▽佐々木嘉信著・産経新聞社編「刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史」 新潮文庫 2004年
▽野村二郎「日本の裁判史を読む事典」 自由国民社 2004年
▽中村尚樹「占領は終わっていない」 緑風出版 2017年
▽吉永春子「謎の毒物」 講談社 1996年

(小池 新)

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