12人の殺害容疑で死刑判決を受けた高名な画家…どうして彼は39年も刑が執行されなかったのか

12人の殺害容疑で死刑判決を受けた高名な画家…どうして彼は39年も刑が執行されなかったのか

地元紙北海道新聞は名士の逮捕をこう報じた

「凄惨、のたうつ血の現場」銀行支店で12人が殺害された「帝銀事件」その実像 から続く

 事件の報道は徐々に減少し、迷宮入りもうわさされるようになった1948年8月、突如として容疑者が浮上する。きっかけは、松井名刺の交換相手を追った「名刺班」の捜査からだった。

■「帝銀容疑者 小樽で捕わる」

〈帝銀事件 容疑者を逮捕 小樽から捜査本部へ護送

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【小樽発】帝銀捜査本部の名刺班・居木井(為五郎)警部補以下刑事4名は21日朝、小樽市に出張。帝銀事件の容疑者として同市色内町6ノ26,平沢定敏方に寄留中の同市出身、大ワ(たいしょう)こと平沢貞通画伯(57)を逮捕状により身柄を検束。同夜、夜行列車で東京の捜査本部に連行した。〉

 1948年8月23日付朝日の記事は事実上これだけ。肩書敬称の「画伯」付きのうえ、扱いは2面2段。この後に平沢元死刑囚の個人データと居木井警部補の談話が続く。

〈 平沢画伯は大正14(1925)年8月ごろ、愛犬にかまれて「コルサス病」(コルサコフ症候群)にかかり、約3カ月無意識状態を続けたことがあり、また翌15(1926)年7月当時、板橋の自宅が放火で焼かれた事件があり、所轄署から放火の容疑者として調べられたこともある。

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【盛岡発】居木井警部補は平沢画伯を真犯人と断定しているが、その根拠を次のように函館からの連絡船上で発表した。「一.ほかにも詐欺的な犯罪容疑がある。一.妻の証言との食い違いがある。一.指圧療法の経験がある。一.劇薬使用の経験がある。一.親類に製薬業者があり、ここから常に薬を入手していた。一.長期的な詐欺計画の経験がある」

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 居木井警部補は、平沢画伯はさる6月5日、初めて捜査線上に浮かび、北海道に渡って写真を撮り、帰京後数々の傍証を固めた結果、どうしても真犯人だと断定。同人を逮捕するため、さる17日、再び小樽に渡ったと語っている。〉

 地元の北海道新聞も同じ日付で「帝銀容疑者 小樽で捕わる 畫(画)家、平澤大ワ氏(57)」と略歴付きで伝えた。コルサコフ症候群とは、ビタミン欠乏や外傷、脳出血などによって起こり、健忘や見当識、作話症などの症状が出る病気。それまでの名刺班の捜査で、松井博士が交換した中に「平沢大ワ」の名刺があり、事件前年の1947年4月、北海道に出張した際、青函連絡船で乗り合わせたということだった。

 病気の父の看病のため小樽に帰っていた平沢元死刑囚を小樽署員が訪ねると、交換した松井名刺は東京・三河島駅で盗難に遭ったと答え、被害届も出ていた。小樽署からも「人相書きには似ていない」という回答。その後、名刺班は詰めの捜査のため、東北と北海道に分かれて出張。居木井警部補ともう1人の刑事は小樽で平沢元死刑囚に会ったが、言動に不審な点が多く、顔も似顔絵に似ているとして疑いを深めた。

 その後、周辺を捜査。真犯人との確信を得たとして、逮捕状を持って再度小樽を訪れていた。居木井警部補が挙げた中には、逮捕理由になりそうもないものもあるが、逮捕に懸けた執念は感じられる。

■「白七分、黒三分というところか」

 しかし、同じ紙面に載っている堀崎・警視庁捜査一課長の談話を見ると、ニュアンスは全く異なる。

〈 22日朝、電話で居木井警部補から事情を聞いた。それによると、人相が似ている、松井博士と名刺を交換したり、アリバイの点などに疑いがあるようだが、矛盾もあるので、容疑の事実はあってもいまにわかに断定し難い。この程度の容疑者は毎日、捜査本部で扱っている。白七分、黒三分というところか。とにかく、本部に着いたら捜査はしてみる。〉

 のちに「名一課長」とうたわれる彼も冷淡というか……。「この程度の容疑者」で逮捕され、身柄を拘束されるのではたまったものではないが、当時の警察捜査の実態なのだろう。

 警視庁の名物刑事で帝銀事件で名刺班に所属した平塚八兵衛・元警視の聞き書きである佐々木嘉信著・産経新聞社編「刑事一代―平塚八兵衛の昭和事件史」には、「名刺班ってのは捜査本部(目白署)の隣の小さい部屋にあってな、本部の会議にもロクに出ねえでコツコツやってたよ」「本部の方は特務機関に捜査の重点を入れてたのは事実だよ。おかげでオレたちの名刺班ってのは冷たい目で見られてな」と書かれている。

■詐欺事件きっかけに心証「クロ」へ

 平沢元死刑囚は帝展無鑑査のテンペラ画(卵黄などで溶いた絵具で描く油絵の一種)の大家で、小樽でも人格者で通っていた。

 23日朝、上野駅に着いたとき、周辺は「2万の群衆がひしめき、護送隊は身動きもできない」(8月24日付読売)ありさま。帝銀の生存者らによる「面通し」でも犯人とする決定的な証言はなく、8月24日付毎日も「平沢画伯の容疑 首実検で薄らぐ」と報道。平沢も取り調べに否認を続けた。

 ところが、前年11月以降に未遂も含めて4件、銀行を舞台に起きていた私文書偽造・行使の詐欺事件の容疑が浮上。平沢が犯行を認めたことから流れが変わる。

 8月25日、留置場内で隠し持ったペン先とガラスの破片で手首を切る自殺未遂を起こした後は、新聞の論調も一変。「『帝銀』捜査線上に 有力な新事実 事件直後十万円を預金」(9月3日付朝日)、「毒見する奇癖」(9月4日付読売)、「平澤氏・容疑愈(いよい)よ濃し」(9月4日付北海道)、「毒物捜査に素人説」(9月10日付読売)、「青酸カリに執着」(9月11日付毎日)……。9月21日、妻の弟と面会した平沢元死刑囚は「天地神明に誓って犯人ではありません」と言ってドアに頭を打ちつけた。そして9月23日――。

〈平沢貞通遂に自供す 帝銀事件 捜査本部から発表

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 東京地検・高木主任検事の手で取り調べ中の平沢貞通(57)は遂に“帝銀事件真犯人”であることを自供。この旨27日午後1時、捜査本部から発表された。本年1月26日事件発生以来、実に245日目。帝銀事件の一環としての彼の4つの詐欺をめぐる私文書偽造などの理由で起訴(9月3日)されてから25日目である。〉

 9月27日付毎日号外はこう報じた。同年12月20日の初公判で平沢元死刑囚は再び否認。しかし、12月21日付毎日で映画「ゴジラ」の原作者・香山滋は「平沢公判を傍聴して」という署名記事で「彼の態度、表情、そして語調から多分に『お芝居っ気』を感じ取った」「個人の印象としては“黒である”との意見に傾く」と述べた。メディアの報道から多くの国民が同様に感じたのは想像に難くない。公判で平沢元死刑囚は時には泣き出し、時には奇矯な言動を見せたが、精神鑑定でコルサコフ症候群の影響は認められたものの、犯行時と自供時の責任能力は問題がないとされた。

■事件から2年半後、下された判決

 事件から約2年半後、1950年7月24日の毎日号外はこう報じた。

〈平沢に死刑判決

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 帝銀事件被疑者・平沢貞通(58)、にかかる強盗殺人、同未遂、私文書偽造行使詐欺被疑事件の判決は24日朝10時から東京地方裁判所刑事第19号法廷で行われ、判決理由書朗読ののち、江里口(清雄)裁判長は被告を有罪と断定。検事の求刑通り死刑を宣告した。なお、平沢は直ちに控訴の手続きをとるものとみられている。〉

 判決は検察側の主張をほぼ認定した。江里口裁判長はのちの最高裁判事。野村二郎「日本の裁判史を読む事典」は「(帝銀事件で)『捜査当局や一般市民は被告の自供があるからと鬼の首でもとったように言っているが、甚だ危険。人権尊重からいっても差し控えるべき』と慎重な態度を見せた」「法廷ではじっくり被告を尋問。録音テープを何度も聴くなどし、死刑判決の結論を出した」と評している。

 7月25日付朝日で当時東大法学部の團藤重光教授(のち東大名誉教授、文化勲章受章)も「まず妥当な判決 問題はあると思うが……」と限定的判決を評価する意見を述べている。控訴審も同じ判決で、1955年4月6日、最高裁が上告を棄却して死刑が確定した。

■認められなかった再審請求

 同日付朝日夕刊の「解説」はこの時代の司法判断の要点を指摘している。

「この裁判は、旧刑(事)訴(訟)法により一審の東京地裁、控訴審の東京高裁とも、事実審を繰り返した結果、平沢の自供と物的証拠、これを裏付けるいろいろな補強証拠をほとんど採用。最高裁の審理もこの一、二審の判断を全面的に支持。平沢を真犯人と断じた。このように証拠に乏しい難事件といわれた帝銀事件について、裁判所に関する限り、一審から最終審まで1つの反対意見もなく有罪の認定が出されたことは、証拠や記録全体が相補って平沢を有罪とする十分な力を備えていたものとみられる」

 同記事は再審請求の動きがあることから「(死刑)執行は相当遅れることが予想されている」とした。平沢元死刑囚はその後も無罪を訴え、獄中でも絵筆をとりながら再審請求を繰り返したが、全て認められなかった。

 歴代法相の誰もが執行のハンコを押さないまま、39年近くに及ぶ獄中生活の末、1987年5月10日、肺炎のため、東京・八王子医療刑務所で死去した。95歳。生前、森川哲郎氏の長男・武彦氏が平沢元死刑囚の養子に入っており、彼が死後再審請求を続行。2013年に武彦氏が死去した後は、別の遺族が現在20回目の再審請求を行っている。

死刑確定後30年たってはじまった殺人事件再取材…担当警部が残した「メモ」から見えてきたもの へ続く

(小池 新)

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