生まれた直後“あえて”捨て子に…池田大作が公明党を創設するきっかけになった幼少期の悲劇

生まれた直後“あえて”捨て子に…池田大作が公明党を創設するきっかけになった幼少期の悲劇

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 2019年時点での信者は国内だけで827万世帯。公明党の支持母体としても活動する日本最大級の宗教法人として、創価学会の名は広く知られている。しかし、圧倒的な知名度の一方で、信仰の核心や信者たちの具体的な活動は意外に知られていないのではないだろうか。

 そんな創価学会の実態について、作家の佐藤優氏が迫った著書が『 池田大作研究 世界宗教への道を追う 』だ。ここでは同書を引用し、名誉会長を務める池田大作氏がどのように生まれ育ち、なぜ公明党創設への道を進んだのか、知られざる過去について紹介する。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◇◇◇

■生まれた直後、「捨て子」にされた

 池田大作は、1928(昭和3)年1月2日、東京府荏原郡入新井町(現在の東京都大田区大森北二丁目)で8人きょうだいの五男に生まれた。父の子之吉(ねのきち)は41歳、母の一(いち)は33歳だった。

 両親は太く大きく育ってほしいとの願いを込めて太作(たいさく)と名付けた。1953年11月に大作(だいさく)と改名する。ここでは、煩雑になることを避けるために、改名前も大作を用いる。大作には、兄が4人、弟が2人、妹が1人いる。

 大作は、生まれた直後に、あえて「捨て子」にされた。

〈 子年生まれの父は、名を子之吉といい、母は一で、私はその五男である。妙なことだが、生まれてすぐ私は捨て子にされた。私の生まれた昭和三年に、父は四十一歳で、ちょうど前厄の年に当たっていた。それで厄よけの迷信的風習から、私はとんだ目にあった。もっとも捨てた途端に、拾う人もあらかじめ決めていて、そんな手はずになっていた。

 ところが知人が拾う前に、だれかが拾って駐在所に届けてしまったから、一時は大騒ぎになった。消えた嬰児に、父母は大あわてにあわてたらしい。この話はよく聞かされたが、迷信はともかくとして、父母の心情には私が丈夫に育ってほしいという祈願がこめられていたのだろう

(「私の履歴書」『池田大作全集 第二十二巻』聖教新聞社、1994年、184〜185ページ。以下書名のない引用は同書から)〉

 生まれた直後の記憶が残っている人はいない。大作も形式的に「捨て子」にされたが、誰かに拾われて駐在所に届けられて騒動になったという話を後に両親から聞かされたのであろう。そこには迷信にとらわれていたとはいえ、いったん、わが子を捨て、悪縁を断絶し、その子を拾い、新たな関係を構築することで、子どもの幸せを願う親の気持ちが表れている。運命を諦めて受け入れるのではなく、それを主体的努力によって転換するという発想が大作の両親にあった。

■創価学会の価値観にもつながるエピソード

 池田が「私の履歴書」を日本経済新聞に連載したのは、1975年2月から3月にかけてで、1960年に創価学会第3代会長に就任して15年目のことだ。『池田大作全集』の記載もこの連載がもとになっている。

 誰もが人間革命を行うことで宿命を転換できるという創価学会の価値観に基づいて池田は、出生のときに起きた「捨て子」のエピソードを再解釈しているのだと思う。両親の行為を迷信として切り捨てるのではなく、そこにあったわが子が丈夫に育ってほしいという親の愛を読み取っているのだ。

■大規模経営で池田家の打撃も大きかった

 池田の家業は海苔製造業だ。1923(大正12)年9月1日の関東大震災以前は大規模な経営をしていたようだ。

〈 池田の家の海苔業は繁盛し、東京湾で大規模に魚をとる分野にも手を伸ばしていった。広島から何十人と漁師を採用し、二隻の動力船で網を引っ張り、大量に魚を捕獲する漁法を工夫していたとのこと。さらに、明治の祖父の代から始まっていた北海道の釧路付近の開拓事業も大規模にやっていた。私の父も、北海道には、よく行っていた。

 しかし、このようなかなり大規模な事業も、関東大震災を機に、決定的な打撃をこうむり、また、魚をとるほうもうまくいかず、困難な事態になっていった。『東京府大正震災誌』(東京府編、大正十四年刊)によれば「海岸及海底は約二尺(注・約60センチメートル)沈下し準備中のひびにては短かくひび建頗る困難を感じつゝあり」「悪潮の為め沿岸魚貝概ね斃死したり」と、不入斗、羽田、糀谷、大森などの海岸地帯がほとんど崩壊し、海苔漁業者にも甚大な被害を与えたことがわかる。大規模にやっていればいるほど、その被害状況も、立ち上がり不可能なほどになっていったにちがいない(194ページ)〉

 人間には、自らの力では防げない災厄に遭遇することがある。地震がその典型だ。関東大震災がなかったならば、事業に成功した子之吉は資本家になっていたかもしれない。子之吉の事業が零細だったならば、震災前と後での経済状況が大きく変化することはなかったであろう。大規模な事業を展開していたが故に池田家の打撃も大きかったのである。

■池田大作が生まれた頃の社会情勢

 大作が生まれた1928年の国内外の情勢を見てみよう。

 2月20日に初めての男子普通選挙(第16回衆議院議員総選挙)が行われた。それまでの衆議院議員選挙は一定の納税額以上の者にしか選挙権と被選挙権が認められなかった。それが日本国籍を有する内地(植民地以外の日本)に居住する男子に関して25歳以上が選挙権、30歳以上が被選挙権を持つようになった。女性や朝鮮、台湾などの植民地に居住する日本国籍保持者には選挙権と被選挙権が認められないという、今日の人権基準から見れば不十分なものであったが、男子普通選挙の実施は日本の民主政治の発展にとって画期的な出来事であった。

 普通選挙法は1925年5月5日に公布された。その直前の4月22日に治安維持法が公布された。1917年11月にロシアで史上初の社会主義革命が成立した。1919年にはモスクワに本部を置く共産主義インターナショナル(第3インターナショナル、国際共産党と呼ばれることもある)が設置され、ロシアのボリシェビキ(ソ連共産党の前身)政権は、世界的規模で共産主義革命を起こそうとした。

 1922年7月15日には、非合法(治安警察法違反)に日本共産党が創設された。戦前の日本共産党は、国際共産党日本支部とも称していた。治安維持法は日本での共産主義運動を封じ込めるために制定された法律だったが、後に拡大適用され、合法マルクス主義(社会民主主義)政党、労働組合、宗教団体にも拡大される。創価学会の前身である創価教育学会も治安維持法違反に問われることになるが、この経緯については今後、言及することにする。

 大作が生まれた直後の1928年3月15日には、全国で共産党員が一斉検挙された(3・15事件)。

〈 共産党の動向を極秘裡に内偵をすすめていた警察当局は、3月15日未明を期して1道3府23県にわたって共産党員とその同調者と目される1568人を逮捕・勾留し、うち488人を治安維持法違反で起訴した。田中(義一)内閣は、事件の記事解禁の4月10日、労農党、評議会、全日本無産青年同盟の3団体を共産党の外郭団体との理由で解散を命じ、ついで、治安維持法の最高刑10年の懲役を死刑もしくは無期にひきあげるなど改悪し、全県警に特別高等課(特高)を設置するなど共産主義や社会運動に対する弾圧体制を強化した(『世界大百科事典』平凡社、ジャパンナレッジ版)〉

 6月4日には、関東軍高級参謀の河本大作大佐の謀略によって中華民国陸海軍の張作霖大元帥が爆殺され、日本と中国の関係は緊張した。

 他方、8月27日にはパリで不戦条約が調印され、日本もこれに加わった。戦争に向けた流れとそれを阻止しようとする動きが交錯する時代に池田大作は生まれたのだ。

■青少年時代から脳裏にあった生死の問題

 子どもの頃、池田は病弱だった。大作が2歳になったときに池田家は、入新井から糀谷町3丁目(現在の東京都大田区東糀谷2丁目)に引っ越した。その家の庭にはざくろの木があった。このざくろの木が池田の病気の記憶と結びついている。

〈 二歳になって間もなく入新井から糀谷三丁目に移転した。広々とした屋敷内に、そのざくろの木が一本あった。幹には、こぶがあって、なめらかな葉を茂らせる。梅雨のころにだいだい色をおびた赤い花を咲かせると、光沢ある緑のなかで美しかった。黄赤色に熟して厚い果皮が割れるのが楽しみで、秋になるとよく木に登って、もいだ。透明な淡い紅色の種子が懐かしい。

 尋常小学校へ入学する前であった。私は突然、高熱を出し寝こんだ。肺炎であった。熱にうなされたことと、医者がきて注射を打ってもらったことを、鮮明に覚えている。ようやく小康を取り戻したころ、母は言ったものである。

「あの庭のざくろをごらん。潮風と砂地には弱いというのに花を咲かせ、毎年、実をつける。おまえもいまは弱くとも、きっと丈夫になるんだよ」。当時の家は海のすぐ近くで、歩いても十分とかからなかった。ざくろはそんな砂地にしっかり根を張っていた。

 人は人生のなかのいくつかの出来事を、仔細にそのときの色調までをも、まるで絵のように覚えているものである。そんな光景には概して自分の生き方なり、来し方なりが密接にかかわっているものである。若年の大半を病弱に悩まされつづけた私は、このときのことを忘れられない。

 青少年時代の私の脳裏から、人間の生死の問題がいつも去ることがなかったのは、やはり一貫して健康にすぐれなかったことと関係しているようだ。寝汗をびっしょりかいて、うなされながら“人間は死んだらどうなるんだろう?などと、いま思えばたわいないが、少年らしい青くささで考えたのは、小学生のころであった(195〜196ページ)〉

■卓越した記憶力と再現力

 誰でも子ども時代の記憶は断片的だ。特に小学校入学前の出来事については、よほど強い衝撃を受けたことしか正確に記憶していない。

 当時は、健康保険制度が普及していなかった。医師に往診してもらうには、多大な出費が必要とされた。池田の肺炎はかなり深刻だったのであろう。そのとき病床から庭を眺めて見たざくろの木の記憶が、生死に関する根源的な問いとつながっていくのだ。

 ところで池田は、「人は人生のなかのいくつかの出来事を、仔細にそのときの色調までをも、まるで絵のように覚えているものである」と述べる。

 筆者も記憶に関しては、映像型だ。印象的な出来事の映像が、色調を含め、正確に記憶にのこっている。最初、記憶は静止画(写真)なのであるが、それが動き出す。登場人物が動き、話し始めるのである。こうして、過去の記憶を復元することができる。

 池田の著作を読んでいると、卓越した記憶力と再現力を持っていることに驚かされる。これは池田の記憶術が映像型であることによるものと思う。

 池田家が糀谷町に引っ越した前年の1929年10月に米国ニューヨーク株式取引所で株価が暴落した。これが発端となり、恐慌が世界的規模に拡大した。恐慌の波は日本にも押し寄せた。

〈 昭和5年(1930)前後に、深刻な農業恐慌を中心にして展開した恐慌。第二次世界大戦後、昭和恐慌と呼ばれるようになったが、欠食児童や娘の身売といった事態が生じ、白米が夢のまた夢になるといった、農村を中心として国民生活が惨状を呈した恐慌であった(『国史大辞典』吉川弘文館、ジャパンナレッジ版)〉

 ただし、池田のこの時期に関する回想から昭和恐慌の影響はうかがわれない。

■後の公明党創設につながる考え方

 1931年9月18日夜、中華民国東北部の奉天(現・瀋陽)北方の柳条湖の南満州鉄道で中国軍が満鉄線を爆破したとして、関東軍(中国東北部に駐留する日本軍)は中国軍の基地を攻撃した。現在では、鉄道爆破は関東軍が行った謀略であることが明らかになっている。この柳条湖事件をきっかけに満州事変が始まった。こうして日本は戦争への道を突き進んでいく。

 翌32年5月15日には、国家改造を主張する海軍将校と民間右翼らが連携して犬養毅首相を暗殺した五・一五事件が起きた。国内ではテロリズムに怯える雰囲気が醸成された。この年の9月15日には日満議定書の調印が行われ、日本の傀儡国家満州国が承認された。日本は英米列強との軋轢を強めていくことになる。その結果、33年3月27日に日本は国際連盟を脱退し、孤立を強めた。

 1934(昭和9)年4月に池田は小学生になる。

〈 昭和9年に羽田の第二尋常小学校へ入学した。1年生の国語の冒頭の句は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であった。この章句は懐かしい。糀谷三丁目の屋敷は広く、カエデやケヤキなどとともに、1本の桜の木があった。(中略)

 入学したころ、私はご多分にもれず腕白であった。背は低くクラスでも前から数えたほうが早かったけれど、遊ぶときは負けていなかった。成績は中位であり、いたって平凡な少年であった。特徴らしいものはなにもなかった(197ページ)〉

■平穏な生活が一変

 池田は「特徴らしいものはなにもなかった」と回想するが、それは特段、苦労することもなく平穏に学童生活を送っていたからだ。その状況が1年後に激変した。

〈 このころまでさしたる不自由もない少年時代を送ってきたのであったが、2年生の時に父がリューマチで病床に臥し、寝たきりとなった。海苔製造業で一番の男手を失うことは致命的である。縮小せざるをえなくなり、使用していた人もやめていった。

 援助を頑として拒む父と、育ち盛りの多くの子どものあいだで、母の苦労は並たいていではなかったと思う。「他人に迷惑をかけると、お前たちが大きくなってから頭があがらなくなるぞ。塩をなめても援助を受けるな!」と強情な父は口ぐせのように言った。理屈はそうでも、生活は窮しに窮した。母は努めて明るく「うちは貧乏の横綱だ」と言っていた(197ページ)〉

 当時は、社会福祉制度がほとんど整備されていなかった。家計を支える人が病気で倒れると、家族は貧窮状態に陥る。このような状況でも父の子之吉は、他人に頼ろうとしなかった。意地を張っていたからではない。大作ら子どもたちの将来を考えていたからだ。

 子之吉は、「お前たちが大きくなってから頭があがらなくなるぞ」と繰り返していたが、この言葉には真実がある。苦しいときに他人の世話になって、将来の自由を失うよりも、自助努力に頼るべきだというのは、当時の状況では真理だったのである。

 創価学会に入会してから、池田はこのような構造自体を変革しなくてはならないと考える。だから池田の指導で創価学会は政治に進出し、福祉を充実させようとしたのだ。それが後の公明党創設につながっていく。

「公明党」と「創価学会」は政教一致? なぜ公明党は創価学会への言及を控えるようになったのか へ続く

(佐藤 優)

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