「向こうはタイ人。そこを曲がると福建の女」新大久保に多様な人種の外国人が集まる理由とは

新大久保に多様な人種の外国人が集まる理由を解き明かす 戦争で焼失し外国人が流入

記事まとめ

  • 新大久保は韓国、中国、タイ、ベトナムなどの店が軒を連ね、多くの人種が暮らしている
  • 新宿からほど近い都心部になぜこれほど多くの外国人が集うようになったのか解き明かす
  • 戦争末期に大久保は空爆され9割ほどが焼失、朝鮮、韓国人や台湾人ら"よそもの"が流入

「向こうはタイ人。そこを曲がると福建の女」新大久保に多様な人種の外国人が集まる理由とは

「向こうはタイ人。そこを曲がると福建の女」新大久保に多様な人種の外国人が集まる理由とは

©iStock.com

 韓国アイドル・コスメ・飲食店を中心に、中国語の看板やタイ・ベトナム料理店、イスラム横丁などが軒を連ね、多種多様な人種が暮らす新大久保という街。新宿からほど近い都心部になぜこれほど多くの外国人が集うようになったのか。

 ライターの室橋裕和氏が実際に新大久保で暮らしながら、外国人たちの生活に迫ったノンフィクション『 ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く 』(辰巳出版)を引用し、新大久保の歴史を解き明かす。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◇◇◇

■小泉八雲、内村鑑三……名だたる文化人も住んだ大正時代

 明治末期から大正時代、大久保にやってきた「よそもの」は、文学者たちだった。島崎藤村は『破戒』を大久保で書き上げ、国木田独歩は住んでいた大久保の様子を『竹の木戸』の中で活写している。ほかにも『次郎物語』で知られる下村湖人は百人町の住民だったし、幸徳秋水も一時期だが百人町に暮らしていた。

 そして小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は晩年、大久保に住み続け、この地で亡くなった。その終焉の地のそばは「小泉八雲記念公園」として整備され、イケメン通りの近くに静かに佇んでいる。彼の生まれ故郷ギリシアをイメージした庭園なのだそうだ。

 文学者だけでなく、この頃の大久保は雑多な人材の宝庫だった。内村鑑三などの宗教家、経済学者であり社会主義者の山川均、洋画家の正宗得三郎……彼らがこの街に暮らした理由のひとつは、近くに早稲田大学(前身・東京専門学校)があり、教育機関や書店など知的コミュニティが多かったことがあるだろう。そしてもうひとつは、新宿の巨大化だ。際限なく膨張し、混雑を極め、空気が淀み、乱れていくばかりの大都市を嫌い、それよりやや郊外に住むことが人気になったのだ。新宿から近いわりに、物価も安く、まだまだのどかな街だった大久保は格好の場所だった。鉄砲同心百人が残した住宅地もある。そこへ、文学者はじめ知識階層の人々が住みついていく。新宿に次々とできる新興企業に勤める会社員も増えていった。

 その中には外国人もたくさんいたらしい。語学教師のイギリス人やドイツ人、スペイン人、さらにアメリカ人宣教師や、中国人や朝鮮人なども住んでいたという。また戦前には「日本のオーケストラの父」と呼ばれたドイツ人、アウグスト・ユンケルや、数多くの日本人ヴァイオリニストを育てたロシア人音楽家、小野アンナなどもやはりこの地で暮らしていた。

 かの孫文も一時期、大久保の住民だったことがある。日本に亡命中だった彼は、支援者のひとりである実業家・梅屋庄吉が百人町に構えていた自宅で3年近く暮らしている。なお梅屋はその後、日活の創業者となっている。

 大都市・新宿の後背地であり、多種多様な人々が常に流れてくる街。大久保のそんな性格は、

 大正期にはっきりと形成されたのかもしれない。

歌舞伎町の発展と高度経済成長期が、アジア系の外国人を呼び込む

 関東大震災では、目立った被害はなかったらしい。戸山ヶ原には陸軍の射撃場がつくられ、実弾を撃って訓練する音が聞こえていたという。昭和に入り軍の力が増大するにつれて、近隣は軍人や軍属も増えてくる。彼らが次なる「よそもの」だった。

 また戦時中は、満州から学生たちを留学させることも行われており、大久保には彼らの寮のような施設もあった。モンゴル人や中国人が出入りし、戸山小学校にも通っていたという。同級生だった方のお話が『OKUBO』に掲載されているが、「身体が大きくて、くそ真面目で、相撲が強くてまるで相手にされなかった」そうだ。

 こうした軍関連の施設が多かったからか、大都市新宿が近かったからか。戦争末期、大久保は徹底的に空爆された。市街の9割ほどが焼失したと言われる。戦後、焼け野原になってしまった街に戻ってきた人は2、3割だったそうだ。亡くなった人、疎開したまま帰らなかった人、生き方を変えた人もいただろう。もとの住民が消え、空っぽになってしまった街に、また「よそもの」が流入してくる。新宿の復興需要を見込んで地方からやってきた人々、復員してきた人々、焼け跡にそのまま住みついた人々……。

■戦後の混乱を生き抜く中で頭角を現した外国人たち

 その中には、朝鮮、韓国人や台湾人も混じっていたという。古い住民からは、朝鮮人や韓国人は大久保駅のそばにバラックを建てて住んでいたとか、廃品回収の商売をしていたようだとか、新宿駅周辺の闇市から卸してきた食品を大久保に運んできて売っていたなんて話も聞く。

 1950年(昭和25年)には、菓子メーカーのロッテが工場を建設する。新大久保駅のそば、現在は住宅展示場となっている場所だ。ロッテは韓国企業だから、これをきっかけに新大久保には韓国人が集まってきた……という話もある。工場労働者として在日韓国・朝鮮人を雇ったのだというが、「文化センター・アリラン」の鄭さんいわく「それは俗説で、あまり関係はない」のだとか。

「在日韓国・朝鮮人ばかり雇用するとも思えないし、彼らが工場のそばに集住してコリアンタウンをつくったとも考えにくい」と話す。

 ただ、この工場からはいつも甘いガムの香りが漂ってきて、それをよく覚えていると懐かしそうに語る住民は多い。子供の頃の記憶に刻まれている香りなのだ。

 いずれにせよ戦後の混乱を生き抜く中で、彼ら外国人が力を持つようになってきたらしい。とくに大久保の隣、新宿で、外国人たちが頭角を現すようになっていった。

■新宿歌舞伎町のベッドタウンとしての大久保という街

 そのきっかけのひとつが歌舞伎町の建設だ。戦後復興の目玉として、新宿では歌舞伎座の建設が進められていたのだ。劇場を中心に文化施設を集め、街を発展させようという計画だった。しかし資金面などで問題が多く、頓挫。映画館はいくつかできたし「歌舞伎」の名前こそ町名に残ったが、歌舞伎座は建てることができなかった。

 計画の失敗で債務を抱えた地権者たちは、復興の過程で財力を蓄えていた在日韓国・朝鮮人や台湾人に土地を売却する。彼らは、その頃すでに夜の街としての性格も見せつつあった新宿の需要に応えるように、買い取った土地にラブホテルの建設を進めていった。これがさらに、周囲でネオン街の発展を促進させ、歌舞伎町は「東洋一の歓楽街」として爛熟していく。

 こうして新宿が少しずつ復興していくと、労働力が不足してくる。地方から仕事を求める若者がどんどん流入してくるようになる。上京してきた彼らが住んだのは、家賃がいくらか安い大久保だった。新宿で働く人々を受け止めるベッドタウンとして、戦後間もないころからすでにアパートや下宿が立ち並んでいたのである。アパート業は一大ビジネスだったのだ。その土台となっていたのは、鉄砲同心百人が住んだ敷地だ。家主には、商売に敏い在日韓国・朝鮮人も多かった。新宿の発展を反映するようにアパートや小さな住居群はどんどん広がっていき、大久保通りの南北は巨大な住宅街となっていった。

■アパート群が連れ込み宿に変貌した1960年代

 このアパート群が、やがて連れ込み宿に変わっていく。1960年代のことだ。歓楽街として肥大していく歌舞伎町のホテル需要はとどまることを知らず、職安通りを越えて北側の大久保エリアも侵食してきたのだ。労働者の街であり商店街だった大久保に、連れ込み宿がどんどん増えていく。経営者の中には在日韓国・朝鮮人もけっこういたようだ。

 そのいかがわしさが、ある種の人々を引きつける。高度経済成長期に多国籍化した歌舞伎町のホステスたちも大久保に暮らすようになる。タイやフィリピン、韓国や台湾の女たちだった。彼女たちを相手にする小さな食堂や商店が少しずつでき、エスニックタウンの原型のようなものが形づくられてくる。

 そしてバブルに前後して、暗闇に立つ外国人女性が急増したのだ。僕もこの時代、ライターの先輩に連れられて、ときどき大久保を「探検」した。

■「危険な街」というイメージ

「あのあたりはコロンビアの女。その向こうはタイ人。そこを曲がると福建の女たち。辻々で勢力が違うんだぜ」

 暗い路地で先輩が囁いたのをよく覚えている。うろついている中東系の男たちはイラン人で、女たちの監視役でもあり、違法テレホンカードや麻薬の売人なのだという。異様な雰囲気だった。外国人だけでなく、日本人のヤクザも多かったと聞く。「たびたび銃声を聞いた」という地元の人もいる。

 この時代のインパクトは相当に強かったようだ。2003年から当時の石原慎太郎都知事が、歌舞伎町浄化作戦を進め、不法滞在している外国人の取り締まりを強化、もちろん大久保にも波及し治安はだいぶ改善されたのだが「危険な街」というイメージで語られることは続いた。

■ヨンさまブームと日韓ワールドカップの影響

 こうしたダークな面の一方で、国際学友会の設立をきっかけにして、日本語学校や外国人を受け入れる専門学校も増えていく。夜の街で働く女性たちや労働者だけでなく、大久保には留学生も目立つようになる。そしてヨンさまブームと日韓ワールドカップから、この街は新しい時代に入っていくことになる。

 現在、びっしり立ち並んでいたという連れ込み宿はだいぶ減った。外国人留学生や勤め人向けのアパート、寮などに変わっている。それにゲストハウスやシェアハウス、民泊だ。インバウンド需要の増大から新宿のホテルが飽和状態となり、大久保にも外国人旅行者がなだれ込んできたのだ。キャリーケースをがらがら引いて、アパートを改造した民泊を目指すアジア系の旅行者がずいぶん目立つようになった。まるでタイ・バンコクの安宿街カオサンロードにあるようなゲストハウスもあって、欧米人のバックパッカーがくつろぐ。この姿を鉄砲同心百人は、あの世からどう見ているのだろうか。

 この街は、「よそもの」を受け入れ続けることで歴史を紡いできた。400年にわたって涵養されてきたその磁場のようなものが、さらに「よそもの」を引きつけるのかもしれない。

「街が韓国人に乗っ取られる」新大久保住民が抱えてきた外国人との近隣トラブルの歴史 へ続く

(室橋 裕和)

関連記事(外部サイト)

×