「こそこそ盗み聞きするんじゃない」現役記者が明かす“ネタ”をとるための唯一の方法

「こそこそ盗み聞きするんじゃない」現役記者が明かす“ネタ”をとるための唯一の方法

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「記者」という職業を知らない人はいないだろう。しかし、具体的にどのような仕事をしているのか、どのようにして情報を得ているのかについて知っている人は少ないのではないか。そんな意外と知られていない記者の仕事内容に迫った一冊が2021年2月に発行された『 真実をつかむ 調べて聞いて書く技術 』(角川新書)だ。

 著者は森友学園問題など、これまでに数々のスクープを世に発信した記者、相澤冬樹氏。ここでは同書を引用し、警察から“ネタ”をとる取材の裏側を明かす。(全2回の1回目/ 後編 を読む)

◇◇◇

■暴対デカに刑事部屋から引きずり出された事件

 サツ回りの仕事では「ネタをとる」こと、つまり警察の捜査情報をつかんでくることが何より重視される。それは記者としての評価基準にもなる。だから僕ら記者は捜査情報を持っているデカ(刑事)さんたちといかに関係を構築するかに腐心する。

 山口警察署の当直を回っていてわかったが、デカさんたちは1階の当直席にはいなくて、2階の刑事部屋で待機している。刑事当直と呼んでいた。1階のお巡りさんたちとある程度懇意になると、「2階に行ってきます」と言って刑事部屋に上がるようになった。

 刑事部屋は日中に行っても課長と庶務の係員しかいない。現場のデカさんたちはみな捜査で外に出ている。でも夜間に行くと当直のデカさんが必ず数人いるし、残務処理で残っているデカさんもいる。これは一線のデカさんと懇意になるチャンスだ。事件がなければ彼らも割とヒマで、結構相手にしてくれた。

■ヤクザのようなデカ

 その中に暴対(暴力団対策)のデカさんがいた。迫力満点の外見で、どっちがヤクザかわからない。でもすごく人当たりが良くて「おお、来たか。呑んでくか?」と一升瓶の日本酒を注いでくれた。これも今では考えられないだろうが、当時は刑事部屋で勤務後に酒を呑むのはざらで、私もよくお相伴にあずかった。さすがに当直中ではなく、たまたま部屋に残っていた時に一杯やりながら昔話を聞かせてもらった。

 ある日、日中に刑事部屋で刑事課長と話していた。すると奥の留置場の方から顔見知りのデカさんが飛び出してきて「たんか! たんか!」と叫びながら、たんかを手に奥へ戻っていった。……これは何か起きたな。留置場で被疑者が自殺を図ったんじゃないか? 私は事態を見届けようと注視していた。すると課長が寄ってきて「あんた、ちょっと外に出てくれんか」と言ってきた。ここは相手の職場だし、普通なら遠慮して出ていく場面だ。だが私は刑事部屋に何度も出入りするうちに何となく馴染みの場所のような感覚に陥っていた。世間知らず丸出しでぶしつけに答えた。

「僕は動きませんよ。奥で何か起きたんでしょ。教えてくださいよ。それがわかるまで動きませんから」

 この時、日中だが偶然、例の暴対のデカさんが部屋にいた。彼はまさにヤクザのような形相でつかつかと歩み寄ってきた。

■「生意気言って、承知せんぞ!」

「何言っとんじゃ!」

 そう叫ぶや、私の襟首をつかみ、ずるずると刑事部屋から引きずり出した。そこでこんこんと説教を受けた。

「ここはわしらの城なんじゃ。お前はいさせてもらっとるだけなんじゃ。生意気言って、承知せんぞ!」

 迫力満点だった。何せ彼らはヤクザをビビらせるのが商売なのだ。これまでこのデカさんの人のいい姿しか見ていなかったから、私は心底ビビった。しょんべんチビりそうとはこのことだ。刑事課長もデカさんと2人で私を挟むように立って言った。

「あれは取り調べ中の被疑者がちょっと体調が悪くなったから運びだそうとしただけ。運ばれるところを見られたらかわいそうだろ。だから出ていかせようとしたんよ」

 とんだ思い違いだ。すっかりしゅんとなって、すごすご警察署を引き上げた。局に戻って堀江さんに報告したところ、「それはほっといたらまずいな」と言われ、その夜、菓子折を持って課長の官舎にお詫びに行った。課長は苦笑いしながら「もう、ええよ」と言ってくれた。

 後日、刑事当直に恐る恐る行ったところ、あのデカさんがいた。彼は何事もなかったかのように「おお、来たか」と話しかけてくれた。失敗だらけの新人時代だったが、人の情けを知ることも多かった。

■ネタをとるための「壁耳」作戦

 けれども相変わらず、デカさんから「ネタをとれる」関係にはなかなかなれなかった。配属されて数か月も経つと、早くも同期入局の記者がどこどこで特ダネをとったという話が伝わってくる。こうなると何としてでも情報がほしい。私は次第に焦り始めていた。

 山口警察署をはじめ全国各地の警察署をたばねる組織として都道府県ごとに「警察本部」が置かれている(東京都は警視庁)。

 この頃、山口県警察本部はまだ古い4階建ての庁舎で、刑事部長室の隣に倉庫があった。その倉庫の入り口に鍵かぎがかかっていないことに、ある時気がついた。古い庁舎は壁が薄い。倉庫に入り込んで「壁耳」をすれば、隣の刑事部長室での秘密の会話が聞こえるのではないか?

「壁耳」とは文字通り、薄い壁や扉に耳をあてて向こう側の会話を聞き取ろうとする手法だ。国会や自民党本部に行くと、政治家たちが部外者を入れずに会議をしている部屋の前で、政治記者が「壁耳」をしているのに今でもよく出くわす。私にとってはほほえましい光景だ。そこは記者がいてもいい場所だが、警察ではそうはいかない。

■警察署の倉庫にこっそり浸入

 しかし私はある日「壁耳」作戦を実行に移した。こっそり倉庫に入り込み、壁に耳を当てる。だが向こう側の刑事部長室の会話は思ったほどよく聞こえない。そうこうするうちに倉庫に入ってきた警察官に現場を現行犯で取り押さえられてしまった。今なら「建造物侵入」で逮捕されてもおかしくないところだが、当時はそこまではいかず、刑事部長室で部長はじめ刑事部幹部の面々に囲まれて正座させられた。お白州に引き据えられた罪人そのものだ。そこでこんこんと説教を受ける中で、捜査1課の課長補佐の一人が放った言葉が今も忘れられない。

「情報は信頼関係を築いて聞き出すもんじゃ。こそこそ盗み聞きするもんじゃない。じゃけえ、わしはお前が嫌いなんじゃ」

 この課長補佐は、前から私の言動が気に食わないらしく、常々厳しいことを言う人だった。その人から、至極もっともで一言も言い返せない正論で説教されてしまった。恥ずかしくて情けなくて、涙がこぼれた。

 でも心の底ではどこかに「だってあなたは、僕を決して信頼してくれないじゃないか」という気持ちがあった。信頼関係を築けないのは自分の責任なのに、相手に転嫁する気持ちが。

■ベテラン刑事が毎回おごってくれたワケ

 自分なりに一生懸命な気持ちが空回りして、なかなか信頼関係を築けなかった私。夜回りに行っても会話が続かず、シラ〜っとした空気が流れることもたびたびあった。これでは親しくなれない。どうして自分はうまく話ができないんだろう?……今ならわかる。相手の気持ちを考えない、相手の立場になっていないからだ。ある警察幹部の自宅で奥さんの手料理をご馳走になりながら「覚醒剤のガサが撮りたいんです」と、そのものずばり話したことがある。相手は苦笑いして奥さんに「こいつ、こんなこと言ってるよ」ともらした。自分の思い、都合だけでモノを語るから、相手はシラけるばかりだ。

 もともと子どもの頃から人見知りで、知らない人と世間話をつなぐのが苦手だった。でも、誰かと話をしたい、一緒に呑みに行ったりしたいという人恋しい気持ちは人一倍あった。記者の仕事を選んだのも、この仕事をすればいろんな人と知り合いになれる、世間のことをいろいろ知ることができると考えたからだ。

 そんな私がほとんど唯一、仲良しになれたデカさんがいた。自宅に夜回りに行くと、いつも家に上げて奥さんの手料理と酒を振る舞ってくれた。時には街に呑みに連れ出してくれる。呑み屋を何軒か回って、最後に向かうのは決まって山口駅前通りにあった「軍国酒場」だ。店に入ると壁に大きな日章旗。至る所に旧日本軍の記念品。カラオケで歌うのは当然、軍歌。「歌謡曲? 誰が歌うか、そんなもん」ってな雰囲気だった。

 そこでいろいろな軍歌を教わったのだが、私が一番しっくりきたのは「加藤隼戦闘隊」だった。開戦当初、東南アジアの戦線で活躍した陸軍戦闘機「隼」の戦闘隊。隊長の名をとって「加藤隼戦闘隊」として知られる。この歌のどこにひかれたかと言えば、例えば「寒風酷暑ものかわと 艱かん難なん辛苦打ち耐えて」というところが、朝晩取材にかけずり回り何とか人間関係を築こうと苦闘していた己の姿と重なった。「必ず勝つの信念と」というのも心情に合った。そして歌は「われらは皇軍戦闘隊」と締める。「新たに興す大アジア」という歌詞もあって、戦意高揚と大東亜共栄圏の賛美ではあるのだが、軍歌は無条件に人の心を高ぶらせる作用がある。

 こうして呑み歩く時、ほとんど毎回そのデカさんが費用を全額払ってくれた。ある時、私は尋ねた。

「どうしてこんなによくしてくれるんですか?」

 すると彼は答えた。

「ワシが若いころ、先輩たちがよう呑みに連れていってくれたんじゃ。だから今度はワシがそのお返しをお前にしちょるんじゃ」

 なるほど、そういうものか、と納得したが、ふと思った。このデカさんが若い時にお世話になったのはもちろん警察の先輩だろう。それなのに、なぜ警察の人間ではない私にお返ししてくれるんだ?

■誰かの親切には必ず何らかの理由がある

 彼は当時40代半ば過ぎくらいだったと思う。こうした年代のベテラン刑事は、若い刑事から見ると恐れ多いというか、うとましいというか、ちょっと避けたい存在だったのだろう。今の私がまさにそうかもしれない。

 そういう時、当時の自分のような若い記者が近づいてきたら、取材のためと知りつつも、やはりうれしい気持ちがあったのだろう。だから面倒を見てくれたに違いない。誰かが親切にしてくれる時、必ず何らかの理由がある。そこに気づくようになるまで、私はかなりの時間がかかった。

「これはきな臭い…」福知山線脱線事故取材で見えたJR西日本内部の知られざる“権力闘争”とは へ続く

(相澤 冬樹)

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