「だまされたんです!」“二重人格の殺人魔”を信じてしまった女中の涙

「だまされたんです!」“二重人格の殺人魔”を信じてしまった女中の涙

山口常雄らの証言を基に「太田成子」のモンタージュ写真が作られた(読売)

《ふすまは一面の血しぶき》一家4人の頭を薪割りで…中華料理店で起こった惨殺事件 から続く

 そうして出来上がった「太田成子」のモンタージュ写真は2月28日付各紙に掲載された。「目の鋭い丸顔」(朝日)、「これが太田成子」(毎日)、「太田成子はこんな女」(読売)という見出し。

 捜査と事件報道は、相変わらず山口の情報を基に右往左往する。モンタージュ写真を載せたのと同じ朝日の紙面には「男の足どり浮かぶ」の見出しの記事。中身を見ると、築地の路上で永楽信用組合の場所を訪ねた男があり、「当局では人相、服装、挙動などから主犯と思われる陰の男ではないかと調べている」とあり、不確定な飛ばし記事だと分かる。

 新聞は連日書き立て、情報は入り乱れる。「“よく似た女を見た”」(3月1日付朝日)、「焦点“第二の女”へ」(同日付読売)、「“土地に明るい男”か 陰の男の正体」(3月2日付朝日)……。ついには「有力容疑者捕(つかま)る」(3月5日付夕刊読売)までも(のちに「そっくりの女受難」と訂正)。

 一時は「殺したのは女か」(2月27日付夕刊朝日)という見方も浮上。浦島警視庁捜査一課長は3月4日付夕刊毎日で「直接手を下したのは男とみている」と語ったが、女が手引きした「“お目見え”による窃盗の崩れたもの」との見方は変えなかった。

 3月3日付夕刊朝日では、「銭形平次」の野村胡堂、「怪人二十面相」の江戸川乱歩という2人の作家が「恨みによる計画的犯行」などの推理を披露。

 あまりの騒ぎに、夕刊朝日1面コラム「三角点」(2月28日付)も取り上げた。「ナゾの女“太田成子”の正体を突き止めるのに、夜の女5080枚を並べたという」「夜の女の実数はもっと多いだろうが、東京の人口から見ると1200人に1人の割合だ」「さらに、東京の女の総数は約310万人だから、夜の女は女610人の中に1人の勘定になる」「若い女と年齢別に限れば2、300人に1人の割合になろう。数字は恐ろしい問題を提起する」……。「戦後史大事典 増補新版」によれば、夜の女は1947年時点で6大都市だけで推計約4万人いたという。3月4日付朝日には、築地署が有力情報には相当の謝礼を出すと発表したことを報じ「捜査はやや持久戦の色を見せ……」とした。

■犯人が犯人を推理する

 3月6日付朝日は「山口君の“私の推理”」という記事を載せている。内容は「犯行は計画的だった」「女は田舎者」などと述べ、“陰の男”についての“推理”を披露している。

〈「前髪にパーマネントをかけたリーゼント型の頭をしている点から、盛り場などに見受けられる不良ではないかと思う」「調理場には料理に使う、いろいろの凶器になる物があるのに、裏木戸の後ろに置いてあったまき割りを使ったのは、男が裏口から入って来たのではないかということをはっきり物語っている。また、表の入り口にはカギがかかっていた点からみて、逃げるのも裏口だったと思う。男が女に比べて都会ふうな服装をしている点からみて、ヤボッたい田舎女を凶行の手先に使い、いまは女と別れ別れになっているのではないかと思う。つまり私は、浅草をはじめ上野あたりに根城があり、しかも仲間の多い不良の仕業で、この男か男の友達が一、二度八宝亭に来たことがあり、家の様子を知っているのではないかと思う」〉

 言いたい放題だが、それをそのまま載せるのもいかがなものか……。戸川猪佐武「素顔の昭和 戦後」はこの記事を取り上げ「犯人が犯人を推理する」という見出しを付けている。

■再検証で雲行きは一変

 雲行きが一変したのは、3月10日付(9日発行)夕刊毎日が2面4段で掲載した「山口君の部屋に新事実? 八宝亭の現場を再檢(検)証」という見出しの記事から。

〈 築地事件捜査本部では9日午後1時、捜査一課・野田係長、田口主任、鑑識課・岩田係長の一行が八宝亭の現場を再検証したが、2階の同店雇人山口常雄さん(23)の部屋を中心に行われた。事件以来既に16日を経過したが、山口さんの居室を検証したのは初めてで、この日は同居室に有力な新事実が発見された模様で、2階6畳2間、階段、便所など、写真数枚を撮影した。事件はこれによって違った方面に進展するのではないかとみられている。〉

 奥歯に物の挟まったような記事で、当然裏があった。そもそも、この時点でなぜ再度の現場検証? というのが素朴な疑問だろう。現場に行った岩田係長の「鑑識捜査三十五年」に記述がある。

〈 その後、(捜査)本部から2階の山口の部屋を検証してほしいと連絡があった。あの時、主人の部屋に遺骨を飾ってあったから初七日ころであったか。私は再検証の要請を受けてドキンとした。あれだけの事件に、検証は当日だけしかやっていない。しかも、2階は事件に関係がないと考えてやらなかったからである。あれから次々に事件があって忙しかったからでもあるが……。しかし、犯人が内部ではないかと思っているものが、山口の部屋の検証を怠っていたのでは問題にならない。自分で自分を戒めながら階段を上った。階段の左側羽目板に血痕の擦過したものがある。あれくらいの犯行をしたものが、階段の真ん中を堂々と歩けるわけがない。おそらく左側を忍び上がったに相違ない。その時、血液の付いた着衣が羽目板に擦過したものだろう。〉

 山口の部屋からはルミノール(血液)反応も出た。「毎日新聞の24時間」によれば、同紙の記者は鑑識課員が八宝亭に入って行くのを現認。鑑識課員から血液反応が出たことを聞いた。本社に上がって協議。まだ被害者のものかどうか分からなかったため、社会部長が「血液と書かずに、新事実という表現を使って書いたらいいやないか。扱いだけをぐっと大きくして……」と命令して、そうした紙面になったという。

■目撃者たちが「よく似ている」と証言する一方、当の山口は…

 奇妙なのは「警視庁史 昭和中編(上)」にはこの再検証のことが書かれていない。代わりに、「太田成子」追及に執念を燃やした刑事のことを詳しく書いている。

〈 捜査一課・大島勝義巡査と築地署・樋口金八巡査の一組は事件発覚の翌(2月)23日、犯行現場一帯の地取り捜査に当たっていたが、事件を新聞で知って現場近くに集まった人だかりの中で、一人の中年の男が「新聞に出ていた女の人相や年格好が、私の知っているホテルを10日ほど前に辞めた女中によく似ている」と傍らの人と話しているのを小耳に挟んだことから、両刑事はその場を立ち去ろうとする男の後をつけ、身分を明かして近くの喫茶店に誘った。この男は世田谷区大原町に住む会社員で、そのホテルは新宿の「ホテル新宿」であることや、その女中はホテルを辞めてから「夜の女」になっているらしいなどと気軽に話してくれた。両刑事はこの聞き込みをその日の捜査会議に報告したが、重要視されなかった。〉

 両刑事は「ホテル新宿」について捜査。「太田成子」に似ているという「女中」は本籍・静岡県田方郡西豆村(現伊豆市)出身の西野つや子(23)と判明。義兄が東京・永田町の工事飯場にいることが分かった。

 それとは別に、新宿の旅館に人相、着衣が酷似している静岡県沼津市出身の女が宿泊していたことを探知。その女の行動を調べると、「太田成子」の動きと重なることがはっきりした。

 両刑事はそれまでの捜査経過と判明した事実を捜査本部に報告。浦島捜査一課長の命令で西野つや子の足どりを追ったが、全く不明だった。

「焦燥した大島刑事は3月5日、単身つや子の郷里に向かい、西豆村の家を訪ねた」。義兄が帰郷しており、つや子も帰ってきているという。義兄夫婦は何も知らないためか、自分たちから「つや子は新聞に出ていた『太田成子』に似ているんですよ」と言って写真を持ち出した。

「義兄が差し出した1枚の写真を見ると、なるほどよく似ている」。大島刑事は迷ったが、つや子本人とも会って確認。義兄がつや子を飯場に連れて行くというので、いったん東京に帰った。持ち帰った写真をすし屋の主人ら目撃者に見せると「よく似ている」と証言したが、「当の山口だけは『これは違う。こんな女ではない』と頭から否定した」。

■「犯人はコックさんです」

 3月10日、大島、樋口両刑事は永田町の飯場に行った。つや子が自殺することを恐れていたが、本人は何の屈託もない様子で台所で洗濯をしていた。大島刑事は「ちょっと尋ねたいことがあるので」と言い、永田町巡査派出所の休憩室に任意同行した。

〈 大島刑事がつつましく座っているつや子に向かい「私があんたに聞きたいことは分かっているね」と静かな口調で言うと、つや子は「すみません」と言いながらその場にわあっと泣き崩れ、しばらくは泣きやまなかった。

 つや子は泣きはらした目をハンカチでおさえながら「私は中華料理店のコックさんにだまされたんです。犯人はコックさんです」と言ってまた泣き崩れた。〉

 つや子の告白によると、1950年末からホテル新宿の女中として働いていたが、勤めがつらく、1951年2月13日に同ホテルを辞めた。新宿の旅館に偽名で宿泊。職を探していたが見当たらず、転落して新宿駅辺りで客をあさるようになった。2月20日夜、新宿ガード下で山口と初めて出会った。

〈 その夜、山口はつや子に「いつまでもこんなことをしていても仕方があるまい。おれの叔父がやっている八宝亭で女中を探しているが、やってみないか。いい金になるぞ」と誘った。何とか堅気の商売に戻りたいと焦っていたつや子は、だまされるとは知らず、親切な客だと山口の言葉を信じ翌21日、山口に言われた通り「太田成子」の偽名で八宝亭を訪ね、住み込み女中として働くことになった。

 その晩、つや子は階下3畳の女中部屋で寝ていた。22日午前5時ごろ、主人たちの部屋で「ドタンバタン」と異様な物音がするのを聞いて目を覚ました。もう主人が起きて仕事をしているものと思い、慌てて服を着て布団をたたんでいると、山口が部屋に入ってきた。「お早いですね」と声を掛けると、彼は薄笑いを浮かべながら「2階に来い」と無理に2階の4畳半に連れて行かれた。ピシャリとふすまを閉め切った山口は恐ろしい形相で「この前、おまえと遊んだときの不足分だ」と言って1000円(2017年換算約7000円)握らせた。そして、持っていた革かばんから永楽信用組合の通帳を取り出し「金を下げてこい」と命令した。

 これはただごとではないと思った彼女は「いやだ」と一度は断ったが、「殺すぞ」と脅かされた。その恐ろしさのあまり、山口の言葉に従って午前7時ごろ、裏木戸から店を出て、途中「柳ずし」ですしを食い、次に「平野洋品店」に立ち寄り、マフラーなどを買ったりして時間をつぶし、永楽信用組合に行き、金を払い戻そうとしたが、認印が違うと事務員に断られた。これを山口に伝えようと思ったが、怖いので通帳は破って道路に捨て、そのままタクシーで新宿の旅館に逃げ帰った。24日の夜、旅館へ山口が来て「話があるから」とつや子を誘い出そうとしたが、つや子はこれを断った。〉

 25日に実家へ帰ったが、家族の話から事件の詳細を知り、自分がなぞの女「太田成子」として警察に追われていることが分かった。大島刑事が訪れたときも全てを告白しようと思ったが、母親を驚かせてはと思い、自首を渋っていたという。

■「恐るべき二重人格の殺人魔」

〈“太田成子”を逮捕す 築地事件急速解決せん

 築地八宝亭の一家殺し捜査本部では、10日正午ごろ、静岡県田方郡西豆村大字八木沢、西野吉助娘、西野ナツ(23)=太田成子?=を千代田区麹町三番町付近で逮捕。麹町署に任意出頭の形で取り調べたところ、八宝亭コック山口常雄に頼まれ、21日午後4時ごろ、同家に住み込み、翌日、永楽信用組合に14万2000円を引き出しに行ったと自供した。この自供に基づき、本部では午後5時50分、山口を本部に連行。取調べを開始した。〉

 毎日は3月10日に出した号外でこう報じた。名前の「つや子」を「ナツ」と誤っているが、地元の静岡新聞も11日付紙面では「夏子」としている。

 同日付朝日は「山口、犯行を自供」と報道。「ただ一人の“生き証人”であった山口自身が“主犯”であったという、スリル小説もどきの急転解決をみせるに至った」と書いたが、記事の内容を見ると、「(山口は)係官の厳重な追及にも黙秘権を行使していたが、夜10時すぎに至ってついに『全部申し上げます』と頭を垂れ、『ただ非常に疲れているから休ませてほしい。一休みして気分がよくなったら、全部お話しします』と申し出た」というだけ。「本部では、山口のこの発言は既に“自供の一部”に入ったものとみ、山口が主犯であることは確信しているが、ともかく10時半には一応取り調べを打ち切って留置した」と述べている。

 読売が「山口、凶行を自供」の見出しとともに「犯行の一部を自供するに至った」としたのも同じ意味だろうが、厳密には自供とはいえないだろう。毎日も見出しにはとらなかったが「深夜に至って犯行を自供した」と書いた。

 それまで貴重な情報源としていた人物の逮捕で、各紙ともショックというよりバツの悪さを表すような記事を載せている。

 朝日は「取り調べを受ける山口」の写真を入れ、「人を食った協力ぶり」と書き、毎日は逮捕前夜、同紙記者と同宿していたとして「恐るべき二重人格の殺人魔」と表現。読売は逮捕直前に山口から受け取った「疑われの記」という、犯行を徹底否認した手記を「山口偽りの手記」の見出しで載せた。読売は1面「編集手帳」でも「捜査当局や世間はこの青年に完全にダマされていたということになる」「現実の事件は小説のフィクション(つくりごと)よりも常に奇である」と書いた。しかし「奇」はそれで終わらなかった。

■「毛布をはねのけると、山口は口から血をしたたらせて…」

〈「山口常雄」自殺す けさ築地署の留置場で

 築地事件八宝亭一家4人殺しの容疑者として3月10日午後5時逮捕された元八宝亭コック山口常雄(25)は11日午前4時5分、留置中の築地署第4房で毒物(青酸カリと推定)をのみ、舌をかみ切って自殺を図っているのを井崎看守巡査が発見。直ちに手当を加えたが、同5時半、絶命した。

 山口は逮捕される前から「死にたい、死にたい」と漏らしており、かねてから青酸カリを隠し持っていたものとみられる。なお、犯行については前夜「全ては明日申し上げます」と言って正式な自白は全然行っておらず、事件の真相は彼の死によってヤミに葬られたわけである。〉

 これが毎日の3月11日号外の内容。同紙は12日付朝刊でさらに詳しくこう書いている。

〈 当局は山口が興奮しているので、同夜10時、詳しい聴き取りをやめて留置場に入れ、特に看守を1人増やして見守りに当たらせた。11日午前4時10分ごろ、井崎巡査が立番していると、それまで眠っているように見えた山口が急に頭から毛布をかぶったので『おかしい』と思った同巡査は房内に飛び込み、毛布をはねのけると、山口は口から血をしたたらせているので、応急処置に手ぬぐいを口に押し込み、同僚巡査の手を借り、留置場の外に運び出し、警察医が駆けつけたときはかすかに呼吸するのみで意識はなく、同5時50分ごろ、息を引き取った。〉

 解剖の結果、死因は青酸化合物による中毒死。朝日には「山口を監房に入れるとき、薬品(アスピリン)入りの小ビンを持っていたので取り上げたが、毒薬はどこかに隠していたらしい」という築地署長の談話が載っている。のちには口の中に隠していたのでは、という推測も出た。

■「愛人」に送られた告白の遺書とその行方

 同じ紙面では、各紙とも「犯行には全く無関係」との西野つや子の供述は信用できるとして、山口の単独犯行との見方が決定的となったと報じた。その中では、毎日が山口の遺書について伝えたのが目立った。既に同紙は11日に、山口自殺とともに「申訳ない事をした 愛人に告白の遺書」という号外を出していた。

 12日付朝刊では「郷里の愛人にも告白」の見出しで、山口の遺書が同日朝、郷里の隣村である茨城県東茨城群長岡村(現茨城町)の女性(21)に配達されたのを、同紙の記者が書き取ったとしてその内容を書いている。「私のことは新聞やラジオで知ったことでしょう。〇〇〇ちゃんはかわいい。申し訳のないことをしてしまった。自分のことは忘れてくれ。生きている気がなくなった。幸いを祈ります」。この女性の母親は「縁談に差しさわりがある」と言ってすぐ焼き捨ててしまったという。

 3月13日付夕刊朝日は「山口はなぜ殺したか」という記事を掲載。捜査当局の見方をまとめている。動機については「山口は非常に見栄坊で、小さな中華料理店のコック風情に満足できず、平素からこんな仕事はイヤだイヤだと言っていた。田舎から金を送ってもらって近く中華料理店を開業するなどと同僚に語っていたというが、結婚を望んでいた隣村の女性の信用を得るためにもそうしたかったらしい。山口のような異常性格者にとっては、そのような言動が自らを縛り、どうしてもまとまった金を手に入れなければならないとの考えに追い込まれ、ついに非常手段を選んだのではないか」との見方。

 犯行の手口は「金を盗むことが主目的で、殺人は派生的だとみている。現場の状況からみて、室内を物色しているとき被害者らに発見され、殺害したとみられる。山口の計画としては、金を盗んでその罪を住み込ませた女中、西野つや子に負わせようとしたものらしい」とした。

 山口が二重人格かどうかという論議もあった。いずれにしても、本人が自殺してからでは後の祭り。3月13日付夕刊毎日は「山口の仮面を剥ぐ」という記者座談会を掲載。「山口としては極めて大胆であったことが結局当局をだましおわせたわけだな」などの発言が出たが、自己弁護に終わった印象だ。事件はあっという間に紙面から消えた。ただ西野つや子はこの年の6月、懲役1年執行猶予3年の刑が言い渡された。

■「節穴の眼を持った警官たち」

 いまの視点から見ても、この事件での警察の失態は数えきれない。

 山口の部屋の現場検証と逮捕後の身柄保護はもちろん、事件後、山口に監視も付けず、新宿の旅館に逃げ帰ったつや子を訪ねたのを見逃すなど、考えられない。やはり事件関係者としての山口に対する扱いが甘かったというべきだろう。

「月刊読売」1951年4月号で精神医学者の竹山恒寿・慈恵医大講師(のち教授)は事件を取り上げた論評に「節穴の眼を持った警官たち」の見出しを付けた。「警視庁史 昭和中編(上)」も「この事件は、発生後17日目に山口を逮捕し、せっかく真犯人を逮捕しながら、その真相を解明することができず、世論の厳しい非難を浴びて終止符を打った」と指摘。3月13日付夕刊毎日1面コラム「短針」は「同居人の部屋の検証もせず、犯人には自殺され、天網は相変わらず快々だが、警網不快」と書いた。「天網恢恢疎にして漏らさず」(どんな小さな悪事でも天罰は免れない)をもじった警察批判だ。

 それには、刑事警察の弱体化という、この時期特有の事情もあったかもしれない。

 戦争による警察予算の削減、警察官の損失に加えて、戦後の荒廃で刑法犯件数が増加した。巡査から警察署長まで上り詰めた大橋秀雄「ある警察官の記録」には「GHQ(連合国軍総司令部)が警察力の弱体化を図った」「戦時中や終戦直後に採用された警察官にはいかがわしい者も少なくなかった」などと書かれている。

 1948年に旧警察法が、1949年には新刑事訴訟法が施行され、民主警察がうたわれた。それでも、それまでの自白偏重の古い捜査手法から急激に転換するのは難しかった。捜査員の思い込みと科学軽視の風潮は根強くはびこっていた。この事件でも「お目見え強盗殺人」という事件性の派手さに引きずられ、山口の供述に頼りすぎたといえる。一つ分からないのは、山口の“証言”を基に造られたモンタージュ写真が実際の西野つや子によく似ていたこと。なぜ山口は似せないようにしなかったのだろうか。

 新聞もえらそうなことは到底いえない。この事件の経緯をみても、山口がクロかシロかの論議に捉われすぎて、冷静で慎重な状況判断ができなかった。ある局面においては、山口と気の合う記者、山口に気に入られた記者が取材の主力になったのだろう。結果的には特ダネ競争に追われてみっともない報道になってしまった。といって、70年後のいま、同じような事件が起きたとして、もっとまともな捜査や報道ができているかどうか……。

【参考文献】
▽「新明解国語辞典 第六版」 三省堂 2005年
▽住本利男編「毎日新聞の24時間」 鱒書房 1955年
▽?警視庁史編さん委員会「警視庁史 昭和中編(上)」 1978年
▽岩田政義「鑑識捜査三十五年」 毎日新聞社 1960年
▽守屋恒浩「犯罪手口の研究」 立花書房 1977年
▽毎日新聞社会部編「事件の裏窓」 毎日新聞社 1959年
▽戸川猪佐武「素顔の昭和 戦後」 角川文庫 1982年
▽「戦後史大事典 増補新版」三省堂 2005年

(小池 新)

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